わかりづらくてすみません、と有明が言った彼の家は小道を入って三軒目にあった。合鍵をもらっているから大崎はそのまま鍵を開けて家の中に入る。こじんまりとしてはいるが、二階建ての住まいは一人暮らしには広すぎた。
寝室は二階にあった。大崎が階段を上るとぎいと軋む。できるだけ静かに上り切ると右側の襖を引いた。
「有明さん」
小さな声に反応はない。有明は布団の上で眠っていた。顔にうっすらと汗をかいていて、寝苦しそうに見える。額の上には濡れた手拭いが載せられていた。夏の暑い盛りの時間帯だ。窓は開いていたが、それほど涼しくはない。
大崎は有明の額の上にあった手拭いを取ると、階下に向かった。台所で手拭いを濡らして絞ると、再び有明の元へ戻る。冷たい手拭いを彼の額に載せると僅かに反応があった。長いまつ毛が震えて、それから彼は億劫そうに目蓋を開いた。
「大崎さん?」
夢を見ているような声だった。
「はい」
「大崎さんがいる」
「います。合鍵を使わせていただきました」
有明はふへへ、と相好を崩す。それから空咳を一つして、体を丸めた。
「すみません。せっかく来ていただいたのに……。僕、ずっと寝てました?」
「いえ、今来たところです。起こしてしまってすみません」
体を起こそうとした有明を大崎は布団に留める。
「寝ていてください」
「じゃあお言葉に甘えます。熱がなかなか下がらなくて」
「医者には?」
「ちゃんと行きましたよ。夏風邪だからよく寝て治せって言われました」
だから、ちゃんと寝ていたのだと得意げな顔をする。屈託のない様子は実年齢よりずっと若く――むしろ幼く見えた。
「大崎さん、ここにいてくださいね」
「はい」
甘えたような言葉に大崎は頷く。その返事に満足したのか有明は目蓋を閉じた。。
ここにいてくださいと言われたので、そのまま有明が眠る布団の横に座っていた。少しして様子を伺うと、彼は眠りについたようだった。その表情が幾分穏やかに見えることに安堵する。そして、安堵するくらいには彼を自分は心配していたのかと気づいた。
食事に誘われていたのが先週の土曜日。体調を崩してしまったからと、食事の予定を断るための電話があったのがその前日。そこから三日、大崎は落ち着かない気分だった。結局仕事を早引けして、覗きに来たのが今日だった。
有明の腕が布団から伸びる。右腕に走る赤い傷跡は幾分薄くはなっていたが確かにそこにあった。それを見て、大崎は思わず目を逸らす。罪の証があどけなく眠る彼の腕に刻まれている。それを目にする度に、大崎が自分が責められているように感じた。
まだ、有明と心中すらできていない。むしろ、こうして風邪を引いた彼を心配して見舞いに来ている。なんて滑稽なと頭ではわかっていた。
それでも、この細い首を絞めあげることもできなければ、彼の元から離れることもできないでいる。
再び有明が目覚めたのは日が暮れた頃だった。彼は大崎がそこにいることを確認すると小さく笑んだ。
「今、何時ですか?」
「もうすぐ七時です」
大崎が告げると、有明は眉を寄せた。
「遅くなってしまいましたね」
「自分は大丈夫です。――それより、お腹が空きませんか?」
大崎は鞄に入れていた缶詰を出す。
「桃の缶詰は好きですか?」
「はい! 大好きです!」
彼の目がきらきらと輝く。思わず大崎は頬を緩め、眩しいものを見るように目を細めた。
「よかった。台所とお皿を貸してください」
階下の台所はよく片付いていた。缶詰を開けて、皿の上に黄色い桃を出す。少し探すとフォークもあった。
寝室に戻ると有明は上体を起こしていた。暗くなった室内で、ぼんやりと窓の方を見つめている。
「電気、つけましょうか」
「あ、すみません」
紐を引っ張って電灯をつける。部屋の中がぱっと明るくなった。
「どうぞ」
黄桃の入った皿を差し出すと、有明は嬉しそうに皿を手に取る。フォークで黄桃を突くと、あっという間に甘い実を腹に収めていく。
「お腹空いてたんですね」
「久しぶりに食べたら美味しくって」
恥ずかしそうに有明は弁明した。
こんなに美味しそうに食べてくれるのなら、もう一缶買ってくればよかった。自然とそんな後悔が浮かぶ。
結局のところ、自分は有明のことが愛しいのだ。風邪を引いたら心配をし、桃の缶詰で喜ばせてやりたいと思う。ささやかな愛情がここにはある。
「どうしたんですか?」
有明が小首を傾げる。大崎はそっと彼の唇に自身のそれを合わせた。甘い味がした。
「愛しいという気持ちになりました」
唇を離して、大崎は零した。
罪の意識に苛まれながら、それでも愛情がここにある。