春の気配

五月来ぬわすれな草もわが恋も今しほのかににほひづるらむ
『芥川龍之介歌集』より

§

 春の匂いがする。
 桜雲街の外は濃厚な春の気配に満ちていた。瑞々しい葉の生い茂る木々の影、土の匂い、花の香。桜雲街の春は大桜による薄紅色に染まるが、森の中はもっと多様な気配に満ちている。カインはその中を駆けていく。木々の隙間から入り込んでいる春の陽光は、暖かいを通り過ぎて暑いくらいだ。首筋や尻尾の根元が汗ばむ。それでも森の奥へと進むと、次第に陰は濃くなり風もひんやりと冷たくなった。体を冷やす心地よい空気にカインは己の声を乗せた。
「オーエン!」
 カインの周りには誰もいない。しかし、彼は虚空に向かって言葉を継いだ。
「おーい! 用があるんだ」
 すると不意に辺りの空気が変わった。森を流れる風の流れが不意に揺らぐ。突然何かがそこに現れたかのように。
 カインは一度瞬きをした。目の前には扉がある。
「入るよ」
 そう声を掛けてカインは扉を開いた。

 扉の先には広い空間が広がっていた。整った庭に美しい屋敷。森の奥にこんな空間があるなどと、誰も気が付かないことだろう。カインは迷いなく足を進める。
 邸宅の玄関に鍵はかかっていなかった。カインは記憶と変わらぬ屋敷の中を進んでいく。廊下を歩き、奥まった部屋へと向かう。目的の部屋の扉を、カインは容赦なく開け放った。
「オーエン」
 そこは書庫だった。空気を通すための窓が部屋の上部に付いているがごく小さいもので、あまり日が当たらないようになっている。そのために室内は廊下よりもさらに暗い。その上、灯りもないものだから、カインは用心深げに部屋の中を進んだ。以前足元を疎かにしていたら、この部屋の主人を踏んづけて大変なことになったことがある。
 部屋の奥に書庫には不似合いな布団と、その上に横たわる妖狐の姿があった。カインはしゃがみこんで彼の顔を覗き込む。
「もう昼過ぎだぞ」
……うるさい」
 眠っていた妖狐──オーエンは、自分の尻尾を抱きしめて耳に押し当てた。白銀の美しい尾もこんな風に扱われると形無しだ。
 きっと遅くまで本を読んでいたのだろう。むしろ、眠ったのは朝日が昇ってからなのかもしれない。カインの知る限り、オーエンの生活は自由気まま以外の何ものでもなかった。周りに広げられた草紙がその証拠だ。
「大事な話なんだ。事件なんだよ」
 そうカインが訴えかけてようやくオーエンは寝返りをうつと、眠そうな瞳をカインに向けた。金と紅の瞳だ。カインとオーエンに似ているところは全然ない。唯一の例外がこの瞳だ。
「そんなに大きい声を出さなくても聞こえるよ。何?」
 カインはふうと息を吐いて呼吸を整えると話し始めた。
「あんた、昨日街にいたよな」
「見たの?」
 オーエンの目がわずかに不機嫌そうに揺れた。
「勝手に見えるんだから仕方がないだろ。それで──昨日桜雲街に来てたよな」
「行ったよ。それが?」
「オーエンの視界の中に用心棒衆が追ってる窃盗犯がいたんだ。だから俺たちに協力してくれ」
「窃盗犯?」
 オーエンは怪訝な顔を作って繰り返した。

 事の始まりはひと月ほど前に遡る。桜雲街のとある古美術屋に泥棒が入ったのだ。白昼堂々盗まれたのは高価な硯箱や漆器で、当然店主は雇っている用心棒に泥棒を追わせたが、濃い青の装束に身を包んだ泥棒は街の外に出ると姿をくらましてしまった。
 それから鍛冶屋、傘店、茶屋と被害は続いた。共通しているのは真昼間の犯行であること、犯人たちは盗んだもののうちいくつかを街中にばら撒きながら逃走しているということだ。そのため、この犯行は愉快犯的なものとして桜雲街の商店主たちを悩ませていた。
「そこで声がかかったのが俺たち用心棒衆だ」
 大きな商店ともなれば、店の警護のために用心棒を雇っている。カインの雇い主である薬問屋の主人もその一人だ。とはいえ、用心棒を雇えるのは大きな商店主に限るし、今回のような事件では犯人を探すのに多くの手がいる。そこで協力して各商店に雇われた用心棒たちが泥棒の捜索にあたっていた。
 用心棒たちは、雇い主に関係のない用心棒衆という同業の組合を持っている。これは互いに雇用の斡旋を行うような単なる同業者の集まりではなく、必要があれば桜雲街の治安維持のために協力して動く組織だった。雇い主である商店主たちからしても、円滑な商業活動のためには自分たちの店だけでなく、桜雲街全体の治安向上が不可欠であるから組合の制度は都合がいい。
 カインも当然この組織の一員で、今回の窃盗事件の犯人を捕まえるために行動しているのだった。
「昨日はとうとう窃盗犯とそいつが忍び込んだ呉服屋の主人が鉢合わせして、斬りつけられた。妖怪に直接被害が出たのはこれが初めてだが、犯人が直接に傷つけることに抵抗がないなら大問題だ」
 幸い呉服屋の主人の怪我の程度は深くなかった。しかし、このまま犯行が続いて、死者が出たら大変なことになる。
「今までは盗みだけ?」
「そう。最近は禁制品が流通してるっていうタレコミもあってそっちの対応にもてんやわんやしてるってのに……。だから、早く窃盗犯を見つけて捕縛しないといけないんだ。オーエンも協力してくれよ」
 カインは「頼む!」と両の手のひらを合わせてオーエンを拝んだ。
「僕は昨日歩いた場所を思い出せばいいわけ?」
「ああ。一瞬だったから場所がよくわからなくて。でもオーエンの視界に犯人がいるのは確かに見えた」

 昨日カインは薬問屋の若旦那──ヒースクリフと共に得意先を回っていたから、呉服屋を襲った窃盗犯の報を聞いたのは「大変だ大変だ」と通りで事件の一報を声高に触れ回る妖怪からだった。店にいたならヒースクリフに断わって犯人を追いかける用心棒衆に合流したところだが、今は主人を守るのが先決だ。
「呉服屋の旦那の容態も心配だし、呉服屋に寄ってから店に戻ろう」
 ヒースクリフがそう言ったのでカインも頷いた。視界がぐるんと変わったのはちょうどその時だった。
 目の前を青色の装束を着込んだ窃盗犯が駆けていく。頭から足元までをすっぽり覆っているせいで、種族も容姿もわからない。彼の手には振袖があった。薄い紅色をしたそれが、まるで大桜の花びらのように通りを揺らめく。
 カインはもともと桜雲街の妖怪ではない。仕事柄街を歩き慣れてはいるが、その通りの風景はどうにも記憶の端にかからない。
 足早に呉服屋を訪れると、この店で用心棒をしている妖怪たちが店の前にいた。そのうち顔見知りの天狗に声をかける。
「犯人は?」
「追いかけたが見失ったようだ」
 天狗の足でも追いつけないとは相当足が速いのだろう。カインは自分が見た景色を説明するが、どうしても要領を得ないものになってしまう。左目に他の妖怪が見ている視界が時々映るのだなんて馬鹿げた話は、早々信じてもらえるものではない。それでもなんとか説明をする。しかし、周りの者たちは皆首を捻るばかりだった。
「カインの説明だけだと、これだって思いつく場所はないかな……
 生まれた時から桜雲街で暮らしているヒースクリフにもお手上げだった。
 結局犯人の追跡も失敗し、手がかりもない。斯くなる上はとカインはオーエンを頼ることにしたのだった。

「それで僕に昨日歩いた道を案内してほしいって?」
「ああ。頼むよ」
 オーエンはふわとひとつあくびをしてから気だるげに上体を起こした。
「お礼は?」
「あんみつのトッピング全部のせ」
 予想されたやり取りだったので、カインは事前に甘味屋の主人に交渉済みだ。
「アイスクリームも」
「もちろん」
 オーエンはふっと笑った。
「じゃあ早速街に……
「街に行く必要はない」
 オーエンはきっぱりと告げ、それからカインの眉間を指で突いた。
「おまえは見たものを過信しすぎ」
「どういうことだ……
「桜雲街には妖術を使える奴だっているだろ。どうして窃盗犯たちもそうじゃないと言える?」
「あっ」
「単なる泥棒にしては動きが派手すぎる。つまり奴らは自分たちの行動を見せたいんだ。見たものを信じて動いたら奴らの思う壺だよ」
 オーエンは皮肉っぽく笑った。
「なるほど。ということは奴らの目的は盗みじゃない」
 そこに行き着くとカインの頭にも閃くものがあった。
「禁制品か……
 桜雲街では商いを禁じられているものがいくつかある。それを決めているのは城の竜たちで、本来なら彼らが取り締まるのが筋である。しかし、彼らはいちいち下界のことに構っていられないと、桜雲街の商店主たちの自治に任せている部分が大きい。とはいえ真っ当な商店主なら竜に禁じられた商品を扱うことはしない。
 だから、禁制品を扱うのは街の外からやってきた妖怪たちだ。なにしろ桜雲街は大きな街だから顧客には事欠かない。こっそりと取引をして、ある程度の利益が上がれば別の街へと移動する。
「ここまで教えてあげたらもういいでしょ」
 オーエンは鬱陶しいという顔でカインを追い払おうとする。
「ああ。助かった。ありがとな」
 カインの意識は自然とこの後の行動に向く。こんな目眩しを敢行したからには、おそらく用心棒衆による禁制品の調査は犯人たちにとってよっぽど都合が悪かったのだろう。つまり、今までの調査の狙いは悪くない。となれば、あとは逃走される前に本拠と思われる幾つかの地点を押さえにかかるべきか。
 オーエンの屋敷を出ると、カインは足早に街へと向かった。

§

 桜雲街は夜でも提灯や灯篭の明かりでぼんやりと光っているのが特徴的だ。これは外の街からやってきたカインも始めは驚いたもので、それだけ夜も街に賑わいがあることの証明だった。一方で、街の外は暗い。今宵は明るい満月だが、それでも控えめな白い光は、街中ほど明るくはない。もっとも夜目の利く妖怪たちが動くのに不自由はしないが。
 カインたち用心棒衆は街を出てすぐの森の中にある隠れ家を視界に入れていた。調査の結果、ここが禁制品を取引している妖怪たちの隠れ家だということがわかった。隣を見ると、シノが目線でカインを促す。彼らが逃げる前に、ケリをつけなければ。
 夜の空気は冷たく、息を吸うと喉がほんの少し痛む。それを無視して、カインは声を上げた。
「桜雲街で禁制品を扱った容疑がかけられている。その場から動かず手を上げろ!」
 当然のことながら、思い当たる節があるのに、動くなと言われて動かないものはいない。用心棒衆が隠れ家となっている小屋に踏み込むと中にいたものたちは商品や売り上げを掴んで逃げ出そうとする。
「逃すか」
 シノは踏み込んだ入り口とは反対側の裏口から出ていこうとする妖怪たちを風のような素早さで切り付け、転んだところを捕縛する。
「消えろ!」
 ある者は武器を持って応戦する。カインは腰の刀を抜くと、襲いかかってきた妖怪の刀を巻き込むようにしてひらりと払う。峰でその手首を強か打つと、妖怪は声をあげて床に伏せった。
 カインは室外に逃げた者を追いかけて外に出る。目の前には濃い青の衣。
「見たものを信じるな……
 カインはまじないのように呟くと、瞼を閉じて辺りの気配に集中する。怒号と騒がしい物音。それを意識の外に追いやって、肌をぴりぴりと刺す気配の方へと足を向ける。
 犯人たちの中に妖術使いがいることは明らかだ。思えばシノのような風の如きスピードを持つかまいたちや空を駆ける天狗から逃げ仰るものがそうそういるはずがない。
 妖術であるなら、目で見て追いかけても絶対に追いつくことはできない。
「そこだ!」
 カインは目を開けると刀を突きつけた。気配の数寸横を払うと「ひい!」という声が聞こえた。
「観念しろ」
 首筋に刀の刃を近づけると、妖術使いは大人しくなった。

 隠れ家から出てきたのは人魚の遺体だった。
「髪や血は妖術の媒介に。肉を食べれば不老不死の肉体が手に入る……と言われているね」
 やけに軽い口調で言ったのは城からやってきたフィガロという名前の竜だ。
「本当のところはどうなんだ?」
「さあ? 食べたことがないから知らないよ」
 シノの問いに対しても彼は飄々としている。
「ともかく生きているにしろ死んでいるにしろ、妖怪の取引は桜雲街の禁に触れる。彼らの処分は俺たちが請け負おう」
 用心棒衆の間には面白くなさそうな空気が流れている。事件を解決したのは自分たちなのに最終的には城の竜が成果を掻っ攫っていくように思えるのだろう。
「ったく、やってらんないぜ」
 用心棒の一人が小声で言う。
「結局俺たち言いように使われてるだけじゃねえか」
「まあまあ。そんなこと言うなよ」
 カインは彼らを宥める。
「ま、特別報酬も出るようだし、ぱーっと飲みに行くか。──カインとシノも行くだろ?」
 シノは頷いたが、カインは首を振った。
「いや、ちょっと野暮用があってさ。後から行けたら追いつくよ」

§

 禁制品を取引していた妖怪たちは城へ連れて行かれ、用心棒たちは夜の桜雲街へと威勢よく帰っていった。カインは静かに小屋近くに根を張った木に近づいて声を掛ける。
「いるんだろ。オーエン」
 すると静まり返っていた頭上からごそごそという物音が聞こえた。見上げれば枝の上にオーエンが座っている。足を揺らすと枝も揺れる。
「よく気づいたね」
「おまえが言ったんだろ。見たものを過信するなって」
 小屋に近づいた時からなんとなく別の──禁制品を扱っていた奴らとも用心棒たちとも異なる気配があることに気づいていた。敵意は感じなかったし、カインにはそれがオーエンだろうと不思議とすぐにわかった。
「それで? 草子絵巻のように絵になる捕物帳を見物していただけの僕になんの用?」
 オーエンは美しく微笑んだ。月光の白銀の光が、彼の髪や尾を絹糸のように滑らかに照らす。赤い右目が蠱惑的に揺らめき、金の左目が真っ直ぐにカインを射抜いた。
「この一件、オーエン、おまえの仕業だろ」
 カインは咎める口調をオーエンに向ける。刀に手をかけてこそいないが、いつでも敵と相対せる姿勢だ。
 しばらく睨み合うように、していたが唐突にオーエンが「あっ」と声を上げた。
「うわ」
 カインの頭上──オーエンの足から草履がすっぽ抜けて落ちてきた。カインはそれを躱す。それから緊張の糸が切れたようにふっと笑うと、草履を拾い上げた。
「子供じゃないんだから」
「うるさい。小狐のくせに偉そうに言うな」
 そう言うと今度はわざともう片足の草履をカインの頭目掛けて放り投げた。カインはそれを手で掴むと深く息をついてから尋ねた。
「それで、なんでこんなことをしたんだよ」
 オーエンは音もなくするりと木から降りてくるとカインから草履をひったくった。
「いつ、気づいた?」
「あんたの家から街に戻って、呉服屋の主人に話を聞きに行ったんだ。店から盗まれたものの詳細を教えて欲しいって」
 カインがオーエンの視界を通して見た風景の中で、窃盗犯は薄紅色の振袖を掴んで走っていた。しかし──。
「盗まれたものの中に薄紅色の振袖なんてなかった。つまり、あんたが見た景色──あんたが俺に見せた景色は存在しなかったってことになる」
 オーエンは否定しない。だから、カインはそのまま続けた。
「呉服屋に泥棒が入ったことはすぐに街中に広まった。だから街にいたあんたは呉服屋から何かが盗まれたことは当然知ってる。でも、何を盗まれたかまではわからなかったから、適当なものを想像して俺に見せるための情景を作った。存在しない通りなんだから俺は犯人がどこに逃げたかわからないし、手がかりを得るためにあんたのところを訪れるのも予想していたはずだ」
 オーエンはカインと違って妖術が使える。カインがオーエンに任意のタイミングで視界を共有することはできないが、オーエンの方はある程度操作可能なのだろう。
「なんで僕がそんなことを?」
「こっちが聞きたいよ。オーエンは禁制品のやり取りが行われていたことも気づいてたんだろ。用心棒衆にタレコミをしたのもあんただ」
「ご明察」
 オーエンは白々しく拍手をした。静かな森の中で、手を叩く音はやけに響いた。
「せっかく情報をやったのに泥棒騒ぎなんかにかまけてるから、わかりやすい手がかりをくれてやっただけだろ」
「禁制品の調査が進まなかったのは、情報が匿名で信用性が判然としなかったからだ。普通に身分を明かしてくれりゃよかったのに」
「いやだよ。街の奴らに関わるなんて煩わしい」
 オーエンは唇を尖らせる。
「禁制品の流通を知ったのは森で見かけたからか?」
「違う。桜雲街は妖怪の死骸のやり取りが禁止されているから、高値で捌けるぞって僕が教えてやった」
「は? なんで!?」
「この街でやらかせば竜たちにこっぴどくやられて懲りるだろ?」
 はーっとカインは再び深いため息をついた。オーエンがこういうやつなのは重々承知していたが、改めて真意を聞くと面倒くさくて拗れている。しかし、オーエンの方は憮然とした表情をしていた。
「桜雲街の他に妖怪の体を取引することが禁じられている街は少ない。人魚だけじゃなく、いろんなものが売買の対象になっている。例えばそう──目玉とか」
 オーエンはそう嘯く。その言葉は冷たい氷のようで、触れた指先を焦がすような感覚があった。
「ともかく、きっと今頃はこんな商いはもう辞めようと思うに十分な目にあってるよ」
 オーエンは月を見上げて愉快そうに笑った。カインはそれに応えることができず、ただ揺れるオーエンの月影を見ていた。

§

 事件から数日後、カインはオーエンにあんみつをご馳走していた。
 はじめの約束通り、あらゆるトッピングが載せられたあんみつをオーエンは頬張っている。
「美味そうに食うな」
 山のようになったあんみつをオーエンは瞬く間に平らげた。それから「おかわり」と勝手なことを言い、カインと甘味屋の主人を驚かせたのがついさっきのことだ。今は2杯目のあんみつをほとんど崩し終え、勝手に善哉まで頼んでいる。
 手についた蜜をぺろぺろと舐めながらオーエンは答えた。
「こればっかりは街まで出てこないと食べられないからね」
 森の中に引きこもっていればそうだろう。そんなに甘味と草紙が好きならば街で暮らせば楽しいだろうに、彼は森から出て来る気はないようだった。
 運ばれてきた善哉もぺろりと平らげて、ようやくオーエンは満足したようだった。
「礼も受け取ったし、帰るよ」
「送っていく」
 満足げに店から立ち去るオーエンの後をカインは追いかけた。甘味屋の主人に「悪いけどあとで代金は払うから」と言い残してだ。

 送るも何もカインよりオーエンの方が森に詳しい。しかし、甘味だけ奢ってさようならではカインの方が寂しい気がした。迷惑もかけられたし、振り回されもしたが、それでもカインはオーエンに感謝しているのだ。事件を解決することができたのも、そもそも事件に気づくことができたのもオーエンのおかげだ。
「春ももうすぐ終わりだな」
 街中はすでに春から夏へと装いを変えようとしている。
「街のやつらはせっかちだからね」
 オーエンは小馬鹿にしたように言う。道を行くおしゃれ好きの妖怪たちの気持ちは季節を先取った夏物の意匠があしらわれている。桜雲街では桜の季節が過ぎれば、もう夏だと言われている。
 オーエンについて森の中に入る。ここは大桜に守られる桜雲街の外。桜雲街の妖怪たちは街の外を恐れるものもいるが、カインは街の外には外の良さがあるように感じた。ここは静かで風や水の流れる音がよく聞こえる。大桜と竜たちが庇護する外側の世界だ。
「おまえたちにとっては春の花なんて桜ばかりだろ?」
 オーエンはそう言うと、ほんの少し得意げな顔をして指を指した。カインはその方向に目をやる。
 目の前には青紫の小さな花が地面いっぱいに咲いていた。小さく、けれど鮮やかなな色彩の花々。
 薄紅の街にはない景色だ。そしてこれがオーエンの日々見ている景色。
「綺麗だな」
 カインの言葉にオーエンはくすぐったそうに笑った。その顔は今まで見たどんなものより魅力的に見えて──。
(あれ……?)
 視線と心を一気に鷲掴みにされたような気持ちでカインは呆然とオーエンを見た。彼はカインの様子を気にも止めていない。
「ここでいいよ。それじゃあ、またいつか」
 ひらりとオーエンは手を振って身を翻す。花の方へと彼は去っていく。
「また……いつか……
 いつかというのはいつだろう。春のうちか、それともすっかり暑くなった頃か。
 森の中には春の匂いがする。
 何かが始まるような、何か決定的なものが変わってしまうような──。そんな心が昂る季節がそこにあった。