Kill or Love

2023年1月に書いたオリジナルの殺し屋百合小説。唐突に終わる


 殺される。逃げ切らないと殺される。
 マヤは人気のない公園を全力で走っていた。冷たい空気で肺がきりりと痛む。足がもつれる。別に体力がある方じゃない。走るのなんて大嫌い。
 それでも──追いつかれたらマヤは彼女に殺されるのだ。

 マヤは殺し屋だ。依頼を受けて、金のために人を殺す。十六の時にこの稼業を始めて以降、何十人も殺している。数えてはいないけど。
 クソッタレな生家から逃げ出した彼女がこの街で生きるためには仕事がいる。大抵の家出少女が体を売って糧を得ていたが、マヤは男と寝るなんて御免だった。だから、人間を殺すことにした。
 殺し屋と言えばどこぞのスナイパーのようなハードボイルドでクールな姿を想像するかもしれない。でも実際の殺し屋なんて鉄砲玉の別名だ。雇い主にとって殺し屋の命なんて虫ケラ同然で、返り討ちにされることだって多い。殺し屋の命は短くて、たいていが一年と経たずに警察に捕まるか、ターゲットに殺される。そんな中でマヤのキャリアは五年を超えていた。

 その依頼を聞いたとき、マヤは珍しいなと思った。ターゲットが女だったからだ。
 殺しを依頼されるとき、対象は男であることがほとんどだ。女を殺したいと思った時、それがどんなに割に合わない仕事でも、男は自分の手で殺そうとする傾向にあるらしい。だから、マヤが女を殺したことは数えるほどしかない。
「わかりました。一週間後には始末します」
「死体の始末はいつものところに」
 いつものところというのは死体処理の専門業者だ。殺し屋と同じように、死体を片付けることを生業にしている者たちもいる。マヤも昔は早く殺し屋稼業から足を洗って、死体処理だとか情報屋だとかそういう仕事をしたかった。でも、今となっては殺し屋が性に合っていると思い始めている。

 ターゲットは月島希沙羅という女だった。もらった情報をざっと読んでいく。
「同業か」
 月島はとあるヤクザの組に雇われているボディガードのようだ。海外の民間軍事会社での勤務経験があると書かれている。民間軍事会社ってなんだろうと思いながらマヤはスマートフォンで検索した。一番最初に出てきたWikipediaを開いたが、文字数が多いので後回しにする。面倒だな。
 どんなゴリラみたいな女が出てくるのだろうかと思ったが、何枚か入った写真を見るに月島は線の細い女だった。推定身長こそ百七十センチと女にしては長身だったが、外見から目立ってガタイがいいということもない。その辺りを歩いている若い女という装いだった。グレーに染めたショートヘアーの耳元だけがブルーに染められている。
「まあ、殺るか」
 気の抜けた声でマヤは呟いた。人間を殺すことに対して良心が痛むことはもうない。

 殺しの方法は何パターンかある。依頼主に自殺や事故に見せかけてほしいと言われたら、それに合わせる必要があるし、そうでなければ死体を綺麗に片付けられる方法がいい。
 マヤの得物は刃渡り三十センチほどの刀か、同じほどの長さの鉄パイプだ。望ましいのは鉄パイプで殺すことで、こちらは出血が少なくて済むので、死体を片付けるのが楽だ。今回も鉄パイプを使うことに決める。
 月島が生活しているホテルの近くにある公園で犯行に及ぶことににして、マヤはひたすらに彼女を待った。鉄パイプを入れた楽器ケースを握りしめる。
 淡いブルーのダウンジャケットにチャコールグレーのキュロット、厚手のタイツ。長い髪をニット帽の中に押し込めた。足元のブーツは動きやすいトレッキングシューズだ。楽器ケースを背負ってしまえば、よもや殺し屋だなんて思われることはないだろう。
(来た……
 マヤの視界に女の姿が見えた。ホテルへの近道であるこの公園は、夜になると人が少なくなる。その上、彼女が公園に通りかかるタイミングで立ち入り禁止の看板を置いてもらうようになっていて、邪魔が入る可能性も少ない。楽器ケースから鉄パイプを取り出すと、マヤは一つ息をついた。彼女は静かに月島に近づくと遠心力を利用して大きく鉄パイプを横から振った。最初に狙うのは喉か鳩尾。どちらかを潰せば声が出せなくなる。
 その時だった。月島の体がスッと縮んだ。
「なっ……!」
 月島は縮んだのではなかった。予備動作なしで真下にしゃがみ込むと、そのまま左足がマヤの足元を刈り取るように大きく動いた。
 ほとんど反射でマヤは後ろに倒れ込むことでその足払いを避けると、立ち上がりながら後ろに数歩後ずさる。
「へえ。女の鉄砲玉なんて珍しい」
 月島の声は思ったよりも高く、幼く響いた。所作や声色こそのんびりとしたものだったが、彼女がマヤに一歩近づくごとに皮膚が焼かれるような感覚がした。殺気だ。
 マヤは生きるために人を殺してきた。だから、この段になって月島を殺す気なんてもうなくなっていた。
 月島に背を向けて走り出す。すぐに後ろから月島が追ってくるのがわかった。
「足……速っ……!」
 殺される。逃げ切らないと殺される。

 逃走は呆気なく終わった。腰の辺りに重い衝撃を受けて、マヤは地面に転がった。ニット帽が落ちて、長い黒髪が顔に絡む。地面に体を強か打ち付けて、痛みでうめく間に右手を踏みつけられて鉄パイプを奪われた。
「本当に何にもできないんだね」
 事実を読み上げるように月島は言った。侮るでも馬鹿にするでもなく、「疲れた」とでも言いたげだった。
「訓練をしてるわけでもない。ただちょっと人を殺すことに躊躇いのないガキを使ってるんだからこの国も終わりだねえ」
「ガキって……そんなに違わないでしょ。あんた」
「へえ、いくつ?」
「二十一」
 月島は邪気のない顔でははっと笑った。不思議の国のアリスに出てくるチェシャ猫みたいに目が三日月の形を作る。
「ガキじゃん」
 月島とは精々五歳も変わっていないように見えたが、この反応を見るにもっと歳が離れているのかもしれない。この若づくり女め。
 ここで死ぬのかと思うと体がガタガタと恐怖で震え始めた。生きるために殺す。殺せなければ殺される。マヤは幸運なことに今まで二択の賭けに勝ち続けてきた。しかし、勝ち続けることはできないのだ。頭の中に今まで殺してきた人たちの最後の瞬間が浮かんできた。顔も名前も全然覚えていないのに、死ぬ間際の声や表情だけはなぜか思い出すことができる。
 月島はマヤをしばらく眺めてから告げた。
「さて、どうしようかな。派手に死んでもらっちゃ困るのよ」
 それなら精々足掻いて、血反吐を撒き散らかして死んでやろう。マヤがそう決めた時、月島の体が近づいてきた。マヤを押さえつけるように覆いかぶさると、彼女の顔が震えるマヤの唇に近づく。
「綺麗な死体の作り方、知ってる?」
 月島の唇がマヤのそれを啄んだ。
……!」
 月島が問うた質問の答えが浮かぶのと、月島の舌がマヤの咥内に押し付けられるのは同時だった。抵抗虚しく温かな舌先が、奥に伸びる。何かが喉の奥へと押し込まれた。
 毒だ。そう思ったときに、マヤの意識は遠のいていった。

 目を覚ましたら知らない天井があった。
「起きた?」
 声の方を向くと、下着姿でタオルを被った女がいた。グレーの髪に僅かに混ざるブルー。
「私……
 体を起こそうとすると頭に鈍い痛みを感じた。
「あーその薬結構効くから。もうちょっと寝てたら」
「どういうつもり?」
「言ったでしょ。あなたたちと違って、死体そんなに作るわけにいかないの」
 月島は冷蔵後からミネラルウォーターのペットボトルを取り出すと、蓋を開けてごくごくと飲んだ。半分ほど残ったそれに蓋をしてマヤの顔の横に置く。
「飲む?」
 馬鹿にしているのだろうかと思って月島を睨む。
「殺してやる」
 月島は小さく笑った。馬鹿にするものではなく、ちょっとだけ悲しそうにも見える。
「あんた、私を殺さないとどうなるの?」
「どうなるって……
 殺しに失敗した場合は返り討ちにされるか、捕まって依頼主を吐くように拷問される。吐いてそのへんに放り出されたとして、依頼主から恨まれて始末されることもあるから、どっちにしてもおしまいだ。うまく殺すタイミングが取れないうちに、ターゲットが同業者に殺されることも稀にあって、こちらはお咎めもないがもちろん報酬もない。
 今回の場合はどうだろう。少なくともターゲットと密に接触したとあれば、依頼主からは相当探られることだろう。
「殺されてやるわけにはいかないけどさ、ここで私を殺したことにして遠くに逃げな。殺し屋なんて長くできる仕事じゃない」
「そんなこと言われたって……
 逃げると言ったって行くところはない。殺し屋以外の仕事も知らない。
 マヤが途方に暮れた顔をしたのに気づいたのか月島はベッドに腰を下ろして言った。
「なら、私と一緒に来る?」
「は?」
「雇われ仕事もひと段落したからさ。次の仕事をしにね」
「あんた何考えてるの!?」
「何って……
 月島は髪を耳にかけながら艶然とした顔で続けた。
「殺し屋を本気で生業にするんなら、こんなシケた仕事をするのをやめな。本気の人殺しをするんだよ」
 背筋がぞわりとした。
 裏社会でもマヤに殺し屋を辞めろという奴はたくさんいた。マヤに仕事を頼みながら、その口で「若いんだからいくらでも売るもんがあるだろ」と言ってくる。体や心を切り売りする気なんて一つもないのに。
 けれど、月島は人を殺せと言ってくる。
「人殺しは技術だ。私はあんたに人殺しの技術とふさわしい仕事を分けてやる」
 月島の手がマヤの頭に伸びる。親指が優しくこめかみを撫でた。人殺しの手だ、となぜかわかった。柔らかくて、躊躇いがない。
「どうする?」
 まつ毛を数えられるんじゃないかというくらいに顔を寄せて彼女は囁いた。