春がくる

 カインは百年待った。でも、百一年目は待てなかった。
「オーエン、俺と一緒に来てくれ」
 返答を待たず、カインはオーエンの腕を掴むと呪文を唱えた。
「《グラディアス・プロセーラ》」
 真新しい服と靴。そして扉は開かれた。
 オーエンの意思とはお構い無しに。

 苛烈な戦いの後、〈大いなる厄災〉は随分とこの世界から遠ざかり、賢者の魔法使いの使命はなくなったと言って良い。そうなってから暫くの後、オーエンは突然魔法舎を離れ、北の国に戻った。それだけならおかしいことじゃない。他の魔法使いたちだって、少しずつ魔法舎を離れて新しい生活を始めていた。ただ、オーエンは北の国に戻るとそれきり姿を見せなくなった。
 オーエンは死んだという噂すら立っていた。しかし、カインはそれが根も葉もない噂だと知っている。なぜなら、カインは度々オーエンの元を訪れていたからだ。
 北の国の中でも特に雪深く、常冬の地域でオーエンは眠るように暮らしていた。幾重にもかけられた魔法によって隠された家からオーエンは出ず、ひっそりと呼吸だけをしていた。
「もうずっと疲れていたから」
 それはカインが何度か足を運んだ際に聞いた言葉だった。確かに〈大いなる厄災〉との戦いは楽なものではなかった。カインだってもう戦うことなんて考えたくなかったし、実家に帰って暫くぼうっと無為な時間も過ごした。
 でもきっと、オーエンの疲れたという言葉はカインのそれとは違うのだろう。魔法舎での生活は、オーエンを大きく変えた。彼の心を生き方を何度も揺らした。多分、そういうことに疲れたのだ。
 カインにだって誰にも会いたくないときはある。オーエンだってそうなのだろうなと見守っていたのが最初の三年。そのあとは、ただ不安だった。このまま、彼がひっそりと死んでしまうんじゃないかと思ってしまって。
 季節が巡る度、カインはオーエンの元を訪れた。オーエンは眠っていることが多いようだったが、カインがやってくると眠そうな目をして、出迎えてくれた。
 誰にも会いたくないだろうに、カインの来訪を拒むことはなかった。
「中央の国では春が来たよ」
 春には、北の国の寒さで傷まないように魔法をかけて花束を持っていく。
「そう」
 オーエンは素っ気なく答える。けれど、彼は目を細めて、悪くないという顔でその花を見つめるのだ。
 そうやって百回の春を迎え、冬が来て、百一回目の春が来た。
 静かな生活を悪いものだとは思わなかった。百回の春のうちの何度かは、共に冬を過ごして迎えた春だった。カインはどうしても、眠るように生きることはできず、ずっとオーエンのそばに居続けることはできなかったけれど、オーエンがそうやって生きていることを否定するつもりはない。
 でも、カインはオーエンと春の日向を歩きたかった。いつかのように花に溢れた街を歩き、オーエンの好きな甘いものを食べて。
 オーエンのためだとか、そんなことを言うつもりはない。きっとオーエンはそういうことに疲れていたし、混乱していた。彼の乱れた心を癒すのにもう長い時間がかかっているのだ。それでも、カイン自身のわがままとして、オーエンに春を見せたかった。

 

「暑かったり寒かったりしないか?」
「しないよ。魔法を使えば暑さも寒さもなんとでもなる。僕をなんだと思ってるの」
「いや、久しぶりに外に出たからさ」
 百年引きこもっていたくせに、オーエンは上手に箒を扱った。新しい靴を彼は気に入ったようで、くるくると足首を回している。
「中央の国にいい靴屋ができてさ」
「へえ」
「オーエンが良いならこのあと連れていくよ」
「でも靴は歩いてみないとね」
 その言葉でカインは幾分気持ちが救われた。半ば無理矢理連れ出したオーエンが、この外出をそこまで悪く思っていないようだった。
 中央の国の王都まで半日かけて箒を飛ばす。中央の国は建国記念祭の真っ只中だった。建国記念祭は周りの人々に感謝し、花を贈り合う日でもある。通り過ぎる眼下の街は花に満ちていた。
 王都に到着すると、百年かけて変わった町並みを、オーエンは他人事みたいに歩く。道ゆく人が、すれ違うカインとオーエンに花を手渡すので、手には花がすでに何本も握られていた。
「なくなった店もあれば、新しくできた店もある」
 カインが最近気に入っているのは、チーズ風味のクリームをたっぷり詰めたシュークリームを出す菓子店だ。オーエンには甘さが足りないかもしれないが、是非紹介したい。それと、アイスクリームを冷えた鉄板の上で板状にして、くるくると巻いて提供してくれるユニークなアイスクリーム屋も最近流行っている。
「オーエンと行きたいところがたくさんあるんだ」
 胸が熱くなる。なんだか泣きそうな気持ちになってきた。
「この春が、めちゃくちゃになってしまえばいいと思うんだ」
 オーエンは握っていた花の花弁を引き裂いて、放り投げた。
「そして、昔の僕はそうすることができたし、本当にめちゃくちゃにしたことだってあるんだよ」
 オーエンは自嘲して、新しい靴で地面を蹴った。
「今は?」
 オーエンは片目でカインを見た。オーエンがめちゃくちゃにして、奪ったカインの目だ。
「きみと春の中を歩きたいとも思ってしまう」
 オーエンは眦を下げて、カインの隣に並んだ。そっと呪文を唱えると、手の中の花が再び綻んだ。
「苦しいんだよ。春なんて来なければ良いのに」
 眠っていた理由はそれだけではないのだろうけれど、普通に生きていけないくらいにオーエンを壊したうちのいくらかは自分なのだとしたら、申し訳ないことに少し嬉しい。
 カインはオーエンの手を取ると指を絡めた。バラバラになったオーエンをもう一度繋ぎ合わせるみたいに。カインができるのは多分そういうことだ。
「春は必ず来るんだよ。残念ながら」