ねこねこパニック

 賢者の一日は忙しかったり、忙しくなかったりする。
 今日は忙しくない方の日で、午前中はリケと一緒にルチルからこの世界の文字の書き方を習っていた。午後は談話室で紅茶を飲みながら賢者の書を書いていた。先日西の国での任務のお土産に買ってきた紅茶は、香りも味も良い。その上、小春日和の穏やかな陽の光が開けた窓から差し込んで、なんだか完璧な昼下がりのようだった。
 そう、この瞬間までは。
 バーン!と何かが弾けるような激しい音と振動が上階から襲いかかる。それから階段を駆け下りる音。
「何事……!?」
 思わずソファから腰を上げた賢者の目の前を、さっと茶色いものが横切った。
「ん?」
 それは床に着地すると「ぐるる」と唸り声を上げた。
「猫ちゃん!」
 賢者は猫が好きだった。状況はよくわからないが目の前には茶色の毛をした猫がいる。少し大きめでふくふくとした顔が愛らしい。
「迷い込んできたのかな……
 どうやら猫は開けた窓から入り込んできたらしい。よく見ると口に何か茶色い布のようなものをくわえている。なんだろう、と思ったその時だった。
「待て!」
 声と共に賢者の背中に風圧を感じた。そのまま前方に吹き飛ばされる。
「にゃーっ!」
 猫はそのまま風のように賢者の前を通り過ぎ窓から外へと飛び出していった。
 何が起きたかわからないまま振り返ると、そこには目を吊り上げたオーエンがいた。
「猫。ここにいた?」
「はい。でも、外に出ていってしまって」
「ちっ」
 盛大に舌打ちをするとオーエンは窓から下を見下ろした。二階なので身軽な猫ならばそのまま降りられる高さだ。
「騎士様! 猫、外に行った」
 オーエンはそのまま外に向かって叫ぶ。
「あっ! いた!」
「追いかけて!」
 カインの声が窓の外から聞こえてくる。
「あの猫はオーエンとカインが?」
「知らない」
「知らないって言われても……
「賢者様は何も見てないし、何も気にしない」
「えー……
 不平を唱えようとすると首を掴まれた。
「いい?」
「はい。何も気にしません」
 賢者の回答を聞くと、オーエンはそのまま部屋を出ていった。
「なんだったんだろう……
 しばらくすると外の方から声や物騒な爆発音がする。どうもオーエンだけではなくカインもいるようだが……
「聞かなかったことにしよう」
 賢者は机の上で無惨な姿になったティーセットを片付けると、部屋で昼寝でもしようかなと現実逃避に走るのだった。

🐈‍⬛🐈‍⬛🐈‍⬛

 遡ること一時間前。

「あのさ、この間西の国で任務があっただろ? その時のおみやげがあるんだけど……
 オーエンの部屋を訪れると、カインは珍しく歯切れの悪い口調で告げた。扉を開けたオーエンはその様子に首を傾げる。
「食べ物?」
「いや……
「なんでもいいけど、早く寄越してよ」
「落ち着いて渡したいというか……
「じゃあ入る? 先客がいるけど」
「先客?」
 オーエンの部屋に入ると確かに客がいた。茶色の毛をした猫が、オーエンのベッドの上に座っていた。カインを見つけると目を細め、警戒するように唸った。
「騎士様だよ」
 オーエンは猫に話しかける。つんと背中を指で撫でてやると、猫はふんと喉を鳴らした。
「どうしたんだ?」
「さっき窓から入ってきたんだよ。外の木から器用に壁を伝ってここまで来たみたい」
 オーエンは猫の横に腰を下ろすとわしゃわしゃと猫の頭を撫でた。
「それで?」
 オーエンに促されてカインは意を決したように手に持っていた小箱をオーエンに差し出した。
「西の国でも宝飾品と紅茶が有名な街で……
「指輪?」
 箱を開けたオーエンは、中身とカインの顔を交互に見てから呟いた。指輪はシルバーに小さな紫の石がついたシンプルだが上品なものだ。
「そんなに高価なものじゃないんだけど、オーエンに似合うかなと思って……。クロエやシャイロック、それに賢者様のお墨付きもあるし……
「は? あの三人になんか言った?」
 オーエンとカインは恋人同士だ。なんだかそういうことになっている。とはいえオーエンからすればこれは気の迷いのようなもの──なんならオーエン自身はカインを揶揄ってやっているのだというつもりだ──なので、賢者や賢者の魔法使いたちにこの関係を吹聴するつもりはない。カインにも固く口止めをしていた。
「言ってない! 恋人に贈るとは言ったけど……おまえにとは言ってない」
 カインはそれからオーエンの左手を取った。
「オーエンはいつも手袋をしているから、指輪ならつけてくれるかなと思って……
「そういうことなら……別にいいけど」
 オーエンが頷くと、カインはパッと顔を明るくした。
「それじゃあ──」
 カインはそのままオーエンの手袋に指をかけて外す。それから彼の持っていた箱から指輪を取り上げて、その薬指にそっと指輪を通そうとする。
 その時だった。
「あっ」
 手元が狂ったのは緊張もあっただろう。カインの指先からぽろっと指輪が溢れる。慌ててそれを拾おうとして右手に握っていたオーエンの手袋も一緒に手放してしまう。
 指輪と手袋。それが床の上で重なった。そして──。
「にゃーっ!」
 猫が結果的に指輪を包んだ手袋を口にくわえた。
「お、おまえ!」
 カインが声を上げると猫は軽々と彼の足元を駆け回る。自分よりも大きな生き物が焦っているのが面白く思えたのかもしれない。
「返せよ。バカ猫」
 オーエンが猫に呼びかける。すると猫はぴたりと足を止め、不服そうに喉を鳴らした。
「ああっ」
 そして、猫は窓の外へと軽やかに飛び出した。
 オーエンの部屋は五階だ。しかし、猫は器用に窓の桟を渡って隣の窓へ近くの木の枝へ、それから階下へと器用に降りていく。
「あいつ……
 カインは思わず頭を抱えた。せっかくオーエンへのプレゼントに買った指輪だったのに、猫に持ち去られるなんて情けないにも程がある。
「騎士様。あの指輪、クロエとシャイロックと賢者様に見せたんだよね?」
「ああ。店で選ぶのに付き合ってもらったんだ」
「ということは、僕の手袋と指輪が一緒に見つかると……?」
 オーエンの声は低く、暗かった。
「あー。ちょっと不思議なことになるな……
「他の奴らに見つかる前に回収するしかない……!」
 オーエンは猫に向かって魔法を放った。
「《クアーレ・モリト》」
 猫がいたあたりが爆発する。しかし、猫はするりと彼の攻撃を避けた。猫が窓から別の部屋に滑り込むのを見て、オーエンは自室を飛び出した。カインもその背を追う。
「指輪は……壊さないでほしい……
 どう考えてもオーエンの魔法の威力は、猫を指輪と手袋共々吹き飛ばす気満々だった。

 オーエンが談話室に飛び込んだのを見て、カインは念の為先回りして談話室の窓が向いている中庭へ向かった。それが功を奏し、窓から飛び出してきた猫の姿を視認することができた。
「待て!」
 茶色の弾丸のように猫は外に駆けていく。
「《グラディアス・プロセーラ》」
 猫の足を止めるように風を起こす。けれど、するりと猫は進路を変えて逃げていく。
「《クーレ・メミニ》」
 オーエンの魔法は中庭の花壇のブロックを引っぺがすと、そのまま猫の進路を塞ぐようにブロックを積み上げた。
「捕まえた!」
 カインは猫を掴む。しばらくじたばたと抵抗したが、最終的には疲れたようにふにゃと猫は縦に伸びて降参した。くわえていた手袋と指輪もオーエンの手の中に収まった。
「こいつどうしてやろうか……
「いやいや……可哀想だろ」
 オーエンの手にかかる前にとカインは猫を離してやった。逃げるように猫はさっと魔法舎の外へと走っていった。
「えっと……色々大変だったな……
 カインはオーエンが掴んでいた手袋と指輪を受け取ると、ごほんと咳払いした。
「とんだ災難だったんだけど。騎士様が指輪を落とさなきゃこんなことにならなかったのに」
「悪かったって」
 今度は指輪をしっかりと握る。オーエンの左手を取ると薬指にそっと指輪を通す。カインの思った通り、彼の白い指によく似合う。
「ま、騎士様にしてはいいものを選んだんじゃない?」
 オーエンは指輪を太陽に向かって翳した。言葉は素っ気ないが、口元には笑みが浮かんでいた。

🐈‍⬛🐈‍⬛🐈‍⬛

「あ、賢者様」
 賢者はシャイロックのバーへと足を運ぶ。出迎えた声はクロエのものだった。
「今日はクロエ一人ですか?」
 珍しくラスティカが一緒ではない。
「うん。今日は眠くなっちゃったって」
「そうですか。俺は昼寝のしたせいか目が冴えちゃって……
「それなら今日は長い夜が過ごせそうですね」
 片目を瞑ってそう告げたのはシャイロックだ。
「はい」
 シャイロックは流れるような手つきで賢者のためにノンアルコールカクテルを作ると差し出した。
「あ、紅茶の香り」
「ええ。この間の任務で買い求めた紅茶を使ってみました。あの街はお茶が有名ですからね」
「とても美味しいです」
 昼間の紅茶も美味しかったが、こうしてシャイロックの手でカクテルに仕立てられたものも、豊かな香りと複雑な味わいが賢者の舌を楽しませた。
「そういえば、カインはあの指輪渡せたのかな?」
「どうでしょう。あれからまだここにも来ていないので聞いていませんね」
 クロエの質問にシャイロックは微笑を湛えて答えた。
「指輪を渡せたかはわからないですけど、今日のカインとオーエン、仲良さそうでしたよ」
 賢者は昼間のことを思い出す。二人で猫を追いかけて、なんだか楽しそうだった。ちょっとばかり騒がしいのは玉に瑕だし、共同生活に配慮はしてほしかったが。
「へえ。それならもう渡せたのかな」
 クロエは頬に手を当ててそのシーンを想像するように目を閉じた。
「そろそろ知らないふりをするのも限界なんですけどね」
「ふふ。二人だけの秘密だと思っている恋人たちを見守るのは特別甘美な楽しみじゃないですか」
「シャイロックは楽しそうですね……
 やれやれと肩をすくめる賢者に対して、シャイロックは愉快そうだ。
「せっかくオーエンに似合う指輪を勧めたんだから、着けてるところも見てみたいんだけど」
 クロエの嘆息に賢者も同意する。
「絶対人前では着けなさそうですよね」

 三人はグラスを傾けてふふ、とほくそ笑む。
 これはもう少しだけ、この三人の秘密だ。