Remedy

 しばらくは安静に、というフィガロの助言をカインは素直に聞いていた。焦ったところで無理をすれば回復が遅くなるだけだし、実際痛みと傷は治っても酷く体が怠いような感覚は未だにあって、大人しく休むしかないとわかっている。
 退屈ではあったけれど、カインの元には入れ替わり立ち替わり魔法舎の仲間たちが訪れていた。控えめな魔法使いも、気ままな北の魔法使いも、一度はカインの部屋を見舞いに訪れていた。ただ、一人を除いては。
「時間が必要なんじゃないかな」
 その日、カインの部屋にはクロエがいた。ケルベロスによって破れ血で汚れた衣装をクロエは見事に直してカインのところに届けたところだった。服も体も元に戻るのだ。だから大丈夫、とフィガロが聞いたら小一時間懇々と諭されそうなことを思う。
「そう……だよな」
「俺もあんまり見かけないから心配してるんだけどね」
 カインが話題に出したのはオーエンのことだった。
「でも任務には素直に応じてるみたいだし、いつもより大人しくて……スノウやホワイトは助かってるって言ってたけど」
 あの二人なら確かに言いそうなことだ。
「ありがとう。うん……もう少し待ってみるよ」
 確かにカインはそう言った。でも、彼は決して気が長い方ではないのだ。

 

 オーエンがほぼ毎晩のように自分の部屋に忍び込んでいることをカインは知っていた。彼はカインがすっかり寝静まった隙を見計らっているつもりなのだろう。しかし、カインは就寝中も人の気配には敏感だった。自室に自分以外の者の気配を感じると自然と目が覚める。ただ、そこにいたのがオーエンだっただけに、カインは何事かと問うことも出来ず、毎夜狸寝入りを決め込んでいた。オーエンはしばらくカインのことをじっと見ていたかと思うと、それから何もせずにまた姿を消す。
 もう少し待とうと何度も自分に言い聞かせた。オーエンの方から何か言ってくれるのを、昼間にカインの部屋を訪れるのを待とうと思っていた。けれど、停滞する状況への心地悪さがカインを駆り立てる。
「オーエン」
 カインが声をかけるとオーエンはピクッと肩を震わせてそれから時を止めたように静止した。二色の瞳がカインに向けられる。
「驚かせて悪い」
 普通驚くのはカインの方だろうが、元からオーエンの訪問を知っているので驚きようがない。時間が止まったように無言が二人の間に漂い、それからカインが先に口を開いた。
「あのさ、今ケルベロスを出せるか?」
「は?」
 オーエンは顔と声いっぱいに困惑と動揺を浮かべていた。
「自分がどうして今そんなことになっているのかわからないわけ?」
「わかってるよ。流石に」
 カインは苦笑して答えた。
「今のオーエンが俺を傷つける気がないことも、ケルベロスをちゃんと支配下に置いてあることもわかってる。だから、今ここでトランクの外に出してもこの間みたいなことは起こらないだろ?」
 オーエンは静かにカインのことを見つめていた。冷静を装ってはいたが、途方に暮れているのがわかった。何故かわかった。多分、少しだけ眉を寄せて、指先を強く握りしめているから。そんな些細なサインがいつの間にか読み解けるようになっている。
「馬鹿」
 そう言ってオーエンはカインの元から姿を消した。もうこの部屋にオーエンの気配はない。
「待てなかったな……」
 今更反省するようにこぼした言葉を聞くものは、カイン自身の他にいない。

 

「それはおまえが悪い」
「タイミングってものがあったかもね……」
「もうちょっと待ってあげてもよかったんじゃない?」
 話を聞き終えると三人が口々に辛辣な評価をする。カインはそうだよなと項垂れる。
 今日のカインの部屋は賑やかで、シノとヒースクリフ、それにクロエがいた。
「カインから逃げ続けてるオーエンも大概だけどな」
 ふん、と訳知り顔でシノが告げる。
 あれからオーエンは夜中にもカインの部屋にやってこない。カインは安静を言い渡されている身なので、探して捕まえに行くわけにもいかず、もやもやとした気持ちのままだ。
「カインはどうしてオーエンと話したいの?」
 ヒースクリフに問われて、カインは言葉を探しながら答える。
「傷つかなくていいってことを伝えたくて」
「傷つかなくていい?」
「いや……別に傷つくのはいいんだけど……良くはないか……」
 カインはうーんと唸る。シノはわからないという顔でそっぽを向いていて、ヒースクリフはカインの言葉を待とうとする。クロエはカインに向かって言葉を差し出した。
「傷つくのはしょうがない?」
「ああ。そうかも。傷つかないでほしいけど、傷ついたらそれはしょうがなくて……」
 でも、ずっとその傷を抱えなくてもいいと思うのだ。
「癒せたらいいな……とかそういうことを考えていて」
 カインの口調は彼にしては珍しく歯切れが悪い。
「オーエンってそんな感じか?」
 シノがずけずけと言う。
「うーん……」
 シノとヒースクリフに比べてクロエは幾分共感するように相槌を打った。
「わかるけどそれならやっぱり必要なのは時間なんじゃない?」
「む……」
 会話がぐるりと一周した。
 まずはカインが体を休めなよと言い置かれてその場はお開きとなった。

 

 もういつも通り動いても大丈夫だとフィガロからお墨付きを得て数日、未だにオーエンはカインの前に姿を見せない。
「あのひと、まだあなたから逃げてるんですか」
「逃げてるというか避けてるんだ」
 聞かれたらオーエンがめちゃくちゃに怒りそうなので、意味があるかはわからないが一応訂正する。言ったミスラ本人は何が違うんですかと言いたげな顔でグラスの酒を煽った。
 シャイロックのバーで遭遇したミスラに、カインは北の魔法使いたちが向かった任務について尋ねた。オーエンは一応真面目に任務には参加しているらしい。
「そんなの無理矢理引っ張り出せばいいじゃないですか。どうせ部屋にいますよ」
「無理矢理っていうのは……」
「というより今そこにいるじゃないですか」
「そこ?」
 ミスラはバーの入り口を見やると素早く呪文を唱えた。
「《アルシム》」
 閃光が爆ぜた。容赦のない攻撃魔法を見て、バーの主人はすかさず告げる。
「喧嘩は他所でどうぞ」
 ミスラは黙って椅子から腰を上げるとバーの外に一歩出た。カインも慌ててその後をついて行く。
「ミスラ……!」
 オーエンは受け損ねたのか右肩のあたりを押さえてミスラを睨んでいる。じわりと白い上着に赤が滲んだ。
「さっきまで忘れてたんですけど、このひと今日俺のことを呪いの詰まった洞穴に落としたんですよね。思い出したらむかついてきたな」
「おまえがぼんやりしてたのが悪いんだろ」
「その台詞、そっくりそのままお返しします」
 カインは無駄だとわかりつつも口を挟む。
「もう夜だし喧嘩はやめて飲み直そうぜ。ほら、オーエンも」
 にへら、と笑ったカインの顔をオーエンは見ていなかった。
「絶対に殺してやる」

 

「それで、なんでこんなことになるんじゃ?」
「今何時か知ってる?」
 額縁の中の双子が口々に叱るのをミスラとオーエンは憮然として聞いていた。
「賢者ちゃんもなんとか言ってやって」
「ははは。魔法舎が無事でよかったなーって……」
 ほとんど眠りにつくところだった賢者は爆発音と振動で起こされた。魔法舎ではよくあることだ。むしろ五カ国和平会議以降、久しく起こっていなかった賢者の魔法使い同士の衝突は、ほんの少し──本当に少しだけ──懐かしくもある。
 双子はブラッドリーを呼び寄せると恩赦を盾にミスラとオーエンの喧嘩を収めさせた。そのブラッドリーは今頃シャイロックのバーで飲んでいることだろう。今夜は双子の奢りで。
 その場に居合わせたカインも成り行きで賢者と共に双子がミスラとオーエンを叱りつけているのを聞いている。二人とも互いの攻撃でボロボロになっていた。それでもオーエンの瞳だけは鈍い色に輝いている。
「とにかく――今日は寝ましょう!」
 賢者がぱん、と手を叩いた。
「寝ましょうって俺は寝られないんですよ」
「じゃあ今日は俺が一晩ミスラの側にいますから」
「それならいいですよ」
 ミスラは賢者の首根っこを引っ掴むと空間の扉を開いて消えた。
「あっ」
 オーエンも瞬きする間に姿を消した。
「すまんが我らを部屋に……」
 カインはスノウとホワイトの言葉の続きを聞く前に慌ててオーエンの後を追う。

 

 オーエンは当然血痕を残して行くような真似はしなかった。代わりにそれを消し去る魔法の痕跡が残っていた。注意深く辿らなければわからない程度のものだし、この魔法舎でその痕跡を隠す必要はないからオーエンも意識を払っていないのだろう。この狭い魔法舎で痕跡すら残さないようにする必要があるのは、たとえば同じ賢者の魔法使いの誰かを避ける必要があるときくらいのものだから。
 カインはオーエンを追って魔法舎の屋根の上に出た。
「オーエン」
 オーエンは屋根の上にあぐらをかいて座っていた。憮然とした顔をふいとカインから背ける。肩のあたりから相変わらず血が流れていた。
「痛そう」
「痛そうじゃなくて痛いんだよ」
 オーエンはむすっとした顔で言った。
 カインはオーエンの横に腰を下ろす。逃げられることはなかった。むしろ一呼吸の後、彼は疲れたように自分の体をカインにもたらさせた。
「何?」
 カインがじっとオーエンのことを見つめていると、オーエンは半眼を向けた。そこにいることを許されたような気がしてカインは小さく笑う。
「任務お疲れ様」
「別に」
 本当は話したいことがたくさんあった。あの真夜中に自分が伝えたかったこと。祈ってくれたことに驚いたこと、嬉しかったこと。自分はもう大丈夫だということ。
 でも、不思議とオーエンを前にすると焦る気持ちはなくなっていた。
 オーエンには意地の悪い笑みで笑っていてほしかった。ケルベロスをけしかけて、脅かしてやろうなんて考えていてほしかった。彼の力は常に彼の支配の下にあると信じていてほしかった。でも、オーエンが再びカインを傷つけることを恐れていたとして、その感情を変えることはできない。癒したいなどと傲慢な考えなのだろう。けれどそのことがもう悲しくはなかった。
「うん。大丈夫だ」
「何が?」
「色々」
 オーエンは油断したように苦笑を漏らす。
「なんだよそれ」
 それから小さな声でオーエンはぽつりぽつりと溢した。
「僕は僕だよ。何もかも……あの馬鹿みたいな僕がやったことだって」
 それは責任感ではなくて、オーエンが自分で支配できないものを認められないだけなのかもしれない。でもカインはオーエンのそういうところが理解できないと思いながらも好きだった。面倒臭くて不器用なオーエンの矜持を多分彼よりも愛している。
「わかってる」
 オーエンは痛みを堪えるように目を閉じた。もう肩の傷は塞がり始めている。カインは冷たいオーエンの指先を手のひらで温めるように握った。これくらいしか自分にはできない。でも、これだけでいいのだ。
 今は血の滴る傷口でもいつか瘡蓋ができて剥がれて落ちる。
 そのいつかまで、待つから。
「オーエンとこうやって顔を合わせて、話をしていたら色々心配しなくていい気がしたんだ。だからさ、逃げないでくれよ」
 わざと「逃げるな」と挑発するように言った。オーエンはそれを正面から受け止める。
「僕が騎士様ごときから逃げるわけがないだろ」
 それは──約束にはほど遠くて、未来の話にしては確かなこと。