嵐の夜は少し苦手だ。窓をガタガタと揺らす風の音が、幽霊を思い起こさせるから。
白峰は雨が窓ガラスを叩く音で、シャープペンシルを置いた。ニュースキャスターが再三訴えていた台風がどうやら近づいてきたらしい。
受験生らしく今日も一日勉強をしている。受験生の夏の過ごし方なんてこんなものだろうけれど、物足りなさを感じないでもない。だって十七、八歳の夏だ。こんな風に部屋に閉じこもって過ぎていくなんて勿体無い。
でも、そんな気持ちに身を任せて好き勝手に振る舞えるほど白峰は奔放でもなかった。和泉や清史郎ならもっと自由なのだろうけれど。
集中力が落ちたので潔くノートを閉じて食堂へ向かう。まだ夕方に差し掛かった時刻だから誰もいないだろうと思ったのに、予想を裏切って賑やかな声と美味しそうな匂いがした。
「どうしたの?」
キッチンを覗き込んで声をかける。そこにいたのは和泉と辻村だった。
「ちょうどいいところに来た。手伝え」
辻村がいつも彼がそうであるように命令口調で告げる。
「何?」
「ジャガイモを潰すんだ」
ジャガイモの入ったボールを渡される。状況が飲み込めない。ひとまず言われたままマッシャーでジャガイモを潰す。
「コロッケを作ってるんだよ」
「コロッケ?」
和泉の解説に白峰は首を傾げる。夕飯の支度だろうが、コロッケとは辻村が作りそうにないメニューだ。
「台風コロッケって聞いたことない?」
「あー。ネットで言われてるやつ」
言われてみると台風の日にコロッケを食べるという話をSNSで見かけたかもしれない。
「ほら、春人は知ってた」
「マジかよ」
辻村は賭けに負けたというような顔をしている。彼は台風コロッケを知らなかったらしい。
「それで、コロッケ作ることにしたの?」
「こいつがうるさいんだよ。コロッケはめんどくさいってのに……」
ぶつぶつと言いながらも、ひき肉と玉ねぎを炒める辻村の手つきは軽快だった。
「ジャガイモを潰してどうなるの?」
「炒めてるこれと合わせたら丸く成形する」
「じゃあ茅も呼んでこようよ。瞠と清史郎は今いないよね」
清史郎は受験生じゃないから、朝から元気に出かけて行った。クラスメイトと遊ぶらしい。瞠も昼までは幽霊棟にいたが、勉強に集中できないからと午後は神波のいる牧師舎に行った。
「茅に丸めさせるとろくなもんができねえだろ」
「いいじゃない。それはそれで。仲間外れは可哀想だよ」
茅は自室で真面目に勉強をしていたが、白峰の姿を見ると喜んでキッチンまで付いてきた。
「これくらいに丸めるんだ」
辻村の手本はちょうど片手に収まるサイズで綺麗な楕円に丸まっていた。
「和泉はやらないのかい?」
茅の問いかけに和泉は頷く。
「僕は記録係」
パシャっと携帯電話に付いているカメラのシャッターが切られる。
「茅、それはデカすぎる」
「こうかい?」
「もうちょっと丸く……」
結局辻村が茅の丸めたコロッケのたねを直している。それを横目に白峰もコロッケのたねを丸めた。なんだか楽しい。こんな風に幽霊棟の仲間たちと同じことをするなんて、ここ最近はなかったことだ。何しろ受験生なもので。
「なんでこんなことをやらなきゃいけないんだ」
ぽつりと茅が漏らしたのに白峰は微笑する。
「台風の日にはコロッケを食べないといけないからだよ。ほら、勉強の息抜きにいいじゃない」
そう言って茅を励ました。
「瞠と清史郎に夕飯はコロッケだよって連絡しとけ」
「する」
和泉が手伝わないことに対して何か言うのは諦めたらしい。辻村は和泉を記録係兼連絡役として活用するつもりらしかった。
キッチンには窓がないから、嵐の気配は遠い。雨音よりも風の音よりも白峰の友人たちの声が大きく響く。
この夏最後の嵐の夜、幽霊棟の夕飯はコロッケだった。
◆◆◆
「降り始めた」
神波の声で久保谷はノートから顔を上げた。窓ガラスの向こう側で雨が降っている。
「台風来てるんだっけ」
「そうだよ。もう降り始めてるし今日は泊まってく?」
「ああ……うん」
嵐が近づいてくる。きっと今夜はこの夏最後の嵐の夜だ。
昨夏の最後に訪れた嵐は久保谷たちに絶望を教えたのに、今年は受験勉強というもっと卑近な悩みで頭がいっぱいになっているのはなんだかおかしかった。
志望校に合格するには相当頑張らないといけない。
夏休み前に受けた模試の結果を見て、槙原は励ますように言った。彼じゃなければ、もっと投げやりに「無理」という言葉に丸めたはずの成績だ。だから、久保谷は槙原のためにもなんとかなるように受験勉強に精を出した。今日だって自分の部屋では漫画やゲームの誘惑に打ち勝てないからと、わざわざ神波のいる牧師舎まで来て勉強している。
辻村に夕飯はいらないと連絡しようとして、しばらく目に入らないところに置いていた携帯電話を手に取る。すると受信メールがあった。
『今日の夕飯はコロッケ』
和泉からの短いメール。そこには写真が添付してあって、一生懸命にコロッケのたねを丸めている茅とその横で笑っている白峰、二人に指示を出しているらしい辻村の姿が写っていた。
「台風コロッケじゃん」
思わず声に出して笑った。
「どうしたの?」
神波が怪訝な顔で尋ねる。
「やっぱ帰るわ。夕飯がコロッケだから」
神波はちょっと不思議な顔をする。けれど、引き留めはしなかった。ただ「気をつけて」と優しい声色で一言だけ告げた。
「雨合羽貸してあげる」
「まだそんなに雨も強くないだろ」
「風が強いから傘は壊れちゃうよ」
神波にリュックサックごと雨合羽を被らされて、久保谷は外に出た。雨のおかげで幾分冷えた風が気持ちよかった。
◆◆◆
嵐の夜ってわくわくする。何かが始まるような予感がするから。
「じゃあな」
夕方になり友達と別れると途端につまらない気持ちになる。かかっていた魔法が消えてしまったような。
御影清史郎は幽霊棟までの道のりを駆け足で進む。雨が降り始めていた。ウィンドブレーカーのフードを被って雨合羽代わりにする。
二年生に復帰した清史郎のクラスメイトには面白い奴らがたくさんいた。だけど、この雨の中で何かしようなんて言い出して付き合ってくれる奴は残念ながらいない。みんなは清史郎ほどに冒険も驚きも期待していない。つまらないという気持ちとしょうがないという気持ちが両方浮かぶ。
今日はきっとこの夏最後の嵐の夜だ。それなのに、みんなは特別わくわくしたりなんかしないらしい。
「どうせ瞠たちも勉強ばっかしてるし」
幽霊棟の友人たちも、今年は受験生だ。それがまた清史郎は面白くなかった。この世界には勉強よりも楽しいことがいっぱいあるはずなのに、彼らはそれを見逃している。勿体無い。
大人になるっていうのはそういうことなんだろうけれど。
帰りたくないな。そう一瞬頭に浮かんだ。一瞬だけ。
「清ちゃん!」
風に負けない声で呼びかけられた。
「瞠?」
ビニールの雨合羽を着た久保谷が清史郎のところに駆け寄ってきた。
「どしたの?」
「夕飯コロッケだって。メール見た?」
「見てない」
携帯電話をしばらくチェックしていなかった。もしかしたら電源も切れているかもしれない。
「みんなでコロッケ作ってた。茅サンも」
「マジ?」
久保谷が屈託なく笑う。それを見て、清史郎も笑った。友人たちの作ったコロッケだって。それはとびきり特別なやつだ。
「早く帰ろうよ」
「うん」
久保谷の差し出した手を取る。手を繋いで雨風の中を走る。
この夏最後の嵐の中を、幽霊棟に向かって。
◆◆◆
この夏最後の嵐の夜だった。
槙原からメールが届いたのは夕方と呼んでいい時刻に差し掛かった頃だった。休日を自室で怠惰に過ごし、そろそろ買い物にでも行こうかと思ったところだ。
なんでも研修で東京に来たはいいが、台風が接近していてすでに学院に帰るための電車が運休しているらしい。台風のニュースは賢太郎も確かに見た記憶がある。
別に断ったってよかったが、後からギャーギャー言われたくはないし、槙原はともかく子供達から責められるのは面倒だった。だから、賢太郎は了承の旨をメールで返信する。それに対する返事もすぐに返ってきた。
テレビをつける。画面の向こう側ではこれから訪れる嵐についてリポーターが解説していた。
槙原はそれから一時間ほどでやってきた。コンビニのビニール袋と傘を手にしている。肩や背中はすっかり濡れていた。
「もう雨降ってるのか」
「そうだよ。どんどん天気悪くなってるんだから」
コンビニのビニール袋にはビールとつまみの缶詰や惣菜が入っていた。賢太郎はそれを受け取ると、缶ビールを二本だけ残してあとは冷蔵庫に収める。買い物に行かなくて良くなったのはラッキーだった。雨が降っているならなおのこと外に出るのは面倒だ。
「今日はお休みだよね」
「ああ」
部屋の中に腰を下ろすと槙原は「いいなあ」と呟いてビールの缶を開けた。
「よりによってこんな日に研修やるっていうんだからさあ」
その言葉を聞き流しながら俺は煙草に火をつけた。槙原と同じようにビールを開ける。
「乾杯」
槙原の言葉にビール缶を掲げて応える。まだ冷えていたビールの味は美味かった。
「電車、止まってるのか」
「明日の朝までね。実家に帰るにしても途中で電車が止まっちゃったらやだなと思って」
「そうか」
槙原はふっと笑った。それは憎んでいる相手に見せるよりも友達にするような顔だ。それがなんだか妙に賢太郎を落ち着かなくさせた。
気づかせないでほしい。もう恨んでないってことに。
この夏、久保谷から告げられた言葉がタールのように賢太郎の中に沈んでいた。
「あ、メール」
槙原の携帯電話と賢太郎の携帯電話の着信音が鳴るのは同時だった。確認するとそれが二人に向けて一斉送信されたものだとわかる。
「コロッケ。いいなあ」
槙原が目尻を下げる。賢太郎も思わず相好を崩した。
彼らの元に届いたメールには写真が添付されていた。幽霊棟の子供達がコロッケを囲んでいる図。コロッケも彼らのお手製らしい。
「台風コロッケか」
「何それ?」
「インターネットで流行ってるんだよ」
一年前、絶望の中にあった少年たちが笑っている。それが奇跡のようなことなのだと今ならわかる。
「槙原」
賢太郎は缶ビールを彼に向けた。
「何?」
「乾杯」
槙原はきょとんとした顔をした。察しの悪いやつだ。
「この夏最後の嵐の夜に。乾杯」
槙原は半分ほど減った缶を賢太郎の差し出した缶にコツンと当てた。
嵐はいずれ過ぎ去り、再びやってくる。
その嵐に耐える力を、どうか。