その宮殿に君主はいなかった。
一九一八年、第一次世界大戦中に起こったドイツ革命によって王は王宮を去り、代わりに巨大な解、そして研究者たちが王宮の主となった。
ヴァイマール文化の花開くベルリン。科学と芸術の都にそびえ立つその城を人は『科学宮殿』と呼んだ。
***
旧王宮の一角で蜂須賀虎徹は書類にペンを走らせていた。外はすこぶる天気が良く、窓の外では五月の柔らかな日差しが中庭の緑を照らしていた。若草色の瞳を伏せて頬に零れた髪を耳にかける。最後の行にカンマを打って、黒い漆塗りの万年筆を置くと手元の置時計が昼を告げていた。
「シュミットさん。お昼ご飯のついでに郵便を出して来るけど、他に何か用はあるかな。一緒に済ませてこよう」
「それならハルケッシャーマルクトの本屋で注文していた本を受け取ってきてくれるかしら? それほど数はなかったはずだから」
「わかったよ」
蜂須賀は掛けておいた外套を手に取ると帽子をかぶって部屋を出た。蜂須賀が出てきた部屋の扉の横には『ベルリン日本文化研究所』と書かれたプレートが掛けられている。この『科学宮殿』の中には様々な研究機関があるが、その中で最も新しく、そしてごく小規模な研究所だ。そこの事務員というのがこの時代における蜂須賀虎徹の身分になる。もっと細かく言えば、日本の華族に連なる蜂須賀家の三男坊で、ドイツに留学。大学に通う傍ら今年ベルリンに設立された日本文化研究所でアルバイトをしているといった具合だ。シュミット夫人も同じく日本文化研究所の事務員だが、日本語がわからないので日本から送られてくる手紙や書類の処理は蜂須賀の仕事だった。研究所とは言うものの専任の研究員はいない。主な業務は日本文化に関わる文献の収集と情報の提供、それに奨学金の支給と基金の管理といったもので、研究所に常駐しているのは蜂須賀とシュミット夫人くらいだった。
蜂須賀が宮殿の外に出るまでに廊下をばたばたと走る若者の姿は絶えない。どこかの研究室で何か発見があったのかもしれない。世界でも有数の巨大解析機関を備えた『科学宮殿』はドイツの科学研究の最前線でもある。何かと騒がしいこの『科学宮殿』の中で、蜂須賀は相変わらず不似合なほどに優雅かつ貴族的な所作で歩を進めていた。彼が廊下の曲がり角に差し掛かった時、急に飛び出してきた少年が目に入った。蜂須賀が驚きつつも身を躱すと少年はたたらを踏んで何とか転ばずに体を立て直した。
「すみません! ちょっと急いでて」
「コンラートじゃないか。どうしたんだい? そんなに急いで」
角から飛び出して来た少年と蜂須賀は面識があった。この宮殿の解析機関の管理をしている研究所にいるはずの少年だ。彼は顔からずれた眼鏡を直すと「失礼しました」と礼儀正しく頭を下げた。
「『カイザー』の調子が悪いらしくてうちは朝からてんてこ舞いなんです」
「『カイザー』が?」
『カイザー』というのはこの宮殿にある巨大解析機関のことだ。皇帝の通称で呼ばれるそれは一つのホールを潰すほどに巨大で、名前の通りこの宮殿の主だった。解析機関というと今や街中で使われているが、『カイザー』は飛びぬけて規模の大きい『超解析機関』とも呼ばれる代物だ。ベルリンの科学が急速に発展した背景には『カイザー』の計算能力があるとも言われている。だからコンラートの言う通り『カイザー』が不調だとしたら大問題となりかねない。
「大丈夫なのかい?」
「僕もちゃんと見ていないので確かなことは言えませんが、『カイザー』がへそをまげることは偶にあるんです。動作自体ははしているから僕の出る幕がなくて、だからこうしてあちこち釈明に回ってるんですよ。先輩たちが検証を始めているので直に原因がわかって落ち着くはずです」
コンラートは解析機関の動作に関わるコアの部分が専門だ。そこは問題なく動いているため『カイザー』に計算をさせているあちこちの研究所に事情を説明して回るという連絡役買って出たらしい。
「ところで今日ハーバー先生は?」
「今日も昨日も明日もうちにはいないよ。所長といっても名ばかりだからね」
「そうですか。またお会いしたかったのですが、残念です。ハーバー先生も研究所ごとこちらにいらっしゃればいいのに」
「あの人も変わっているからね。郊外で研究に没頭したいんだろう」
「確かにこちらは騒がしいですもんね。——あ、そうだ僕、急いでるんでした」
「引き留めてすまなかったね。気をつけて」
「はい。蜂須賀さんもお気をつけて」
『科学宮殿』はベルリン中心部を流れるシュプレー川の中州に位置している。シュミット夫人から頼まれたお使いは後回しにして、蜂須賀は南のほうへと足を向けた。ふわりと長い髪が風に揺れた。髪を手で押さえると風の冷たさに体を震わせながら黒の外套を羽織る。部屋から見ていると暖かに見えた陽光も実際外に出ると頼りない。落ち着いた色合いの外套は蜂須賀好みではないが、この街で過度に目立つのも本意ではない。とはいえよくよく見ると金ボタンは凝った作りで、そこが気に入って大人しく着ているのだから見立てた歌仙兼定には驚かされる。
大学生兼日本文化研究所の事務員という肩書は蜂須賀に付けられた表の顔だ。表もあれば裏もある。蜂須賀は東洋の島国日本の貴族でもなければ人間ですらない。
大通りまで出て市電に乗る。最近は地下鉄網も広がりつつあるが、まだ路面電車がこの街の主役だ。車両に取り付けられた機械に懐に入れてあるパンチカードを差し込む。運賃は自動で銀行から引き落とされるから便利なものだ。蜂須賀がアメリカからこの国にやってきて四ヶ月になる。アメリカとはまた違った異国っぷりにも随分慣れた。実直で堅実さを好むこの国の気風はあの新しい国よりも親しみすら感じる。
ベルリンの中心部から市電で十分ほど。ライプチィガー通りからフリードリッヒ通りへ。路面電車を降りて道端のカフェに入る。若者を中心に賑わっているカフェの隅のほうに目当ての人物を見つけて蜂須賀は近づいた。周囲から注目されるまいと背中を丸め顔を伏せてはいるが、その伏せた顔が意外に整っていることや品の良いジャケットの着こなしが嫌でも人の目を引いた。蜂須賀と彼の所属する探偵社——その本拠地であるアメリカでは人目にさらされるのを嫌がって汚れた襤褸布を被っている彼だが、さすがに作戦中にそんな奇行はできないと納得してくれたらしい。
「君はいつもそうやってちゃんとしていたほうが似合うのにね。山姥切国広」
「写しの俺には用がないことだ」
蜂須賀は『科学宮殿』の中で見せていた柔和な顔に不敵さの籠った笑みを浮かべた。隠していた彼の刀としての本質が顔を覗かせる。
「それで本部からは?」
ウエイターにコーヒーとサンドイッチを注文してから蜂須賀は仕事の話を切り出した。
「未だに目立った動きはないが、諦めたつもりもないらしい」
「まったくしつこい連中だ」
蜂須賀は冷ややかに言い切った。この街に潜入して半年、そろそろ決着を付けたいものの敵である時間遡行軍は表立った動きを見せていなかった。
「そちらこそH氏が何を研究してるのか掴めたのか?」
「それがもうさっぱりだよ。そもそもうちの研究所に顔を出すこともない。俺が会ったのは三か月前の研究所の設立パーティーが最後。あとはもうダーレムの研究所に籠って相変わらずの研究三昧だよ」
「時間遡行軍が狙っているのがH氏なのははっきりしている。彼に付いてる加州たちが何度か時間遡行軍と戦闘になっている」
「でも向こうの戦力が明らかに当初の報告よりも少ないんだろ? さすがに半年も時間遡行軍を釣る餌にしておくのも申し訳なくなってきたよ」
「『最初に報告を上げたパリのにっかり青江の情報が間違っている可能性もあるが、調査を切り上げるには何か匂う』というのが主の見解だ」
「俺も何もないわけじゃないと思うんだけどね。もうすこしH氏の近くの潜入したほうがよかったんじゃないのかい?」
「お前みたいな科学者がいると思うか?」
「俺じゃなくて君でも。白衣、似合うと思うよ?」
蜂須賀が首を傾げて見せると山姥切は心底嫌そうな顔になる。社交的という言葉には遠い山姥切にとっては今の役回りが最善だった。
運ばれてきたサンドイッチを蜂須賀は山姥切に勧めるが山姥切は首を振った。しつこく勧めることはせずに蜂須賀は遅めの昼食にする。
「まあ今の立場もいろいろな情報は入って来るから便利だけれどね。例の研究所荒らし。またやられたらしい。今度はライプチィヒの研究所だ」
蜂須賀が声を落として告げた。
「何?」
「今月に入って三度目。また『エントアルトゥング』の仕業だってベルリンでも噂になってる」
事件が起こったのは一昨日。今日には『科学宮殿』中で話題になっていたから情報の拡散速度もここ数年飛躍的に速くなっている。
「そろそろこの国の時間遡行軍の狙いをはっきりさせたい頃だ。来週星さんがこちらにやってくる。なんとかH氏と面会できるようにするから探ってくるよ」
「無理はするなよ」
ぶっきらぼうに、けれど心配の意志がこもった言葉に蜂須賀は目を見開いてそれから微笑んだ。
蜂須賀虎徹たち刀剣男士の使命は歴史修正主義者から正しい歴史を守ることである。しかし蜂須賀の主である審神者は政府よりやや特殊な指令を受けていた。それは正しい歴史より大きく外れたこの世界——破棄された存在しないはずの世界に巣食う時間遡行軍を殲滅すること。時間遡行軍を放置すれば他の正しい歴史を歩む世界に対しても影響が出かねないというのが政府の考えだった。そのため蜂須賀たちは世界中を飛び回り時間遡行軍と対決していた。
最初にこのベルリンで時間遡行軍がなにやら不穏な動きを見せているという情報が上がってきたのは半年前のことだ。パリのピンカートン支部にいるにっかり青江からの報告を受けた審神者は本部待機の要員である蜂須賀虎徹と山姥切国広をドイツに送った。蜂須賀は審神者の伝手でちょうどその頃ベルリンに設立された日本文化研究所の事務員という身分を手に入れ、今回の任務のキーパーソンに近づくことになった。そのキーパーソンこそが蜂須賀と山姥切の間で交わされた会話に登場したH氏——フリッツ・ハーバー博士だ。蜂須賀と山姥切が会話の中で「H氏」と符牒を遣うのには理由がある。ハーバー博士といったらこのドイツは知らないものがいない、否、世界中にすら名の通った科学者だ。だから街中で不用意に口にするのはたとえ彼らの会話が日本語であったとしても躊躇われた。
窒素からアンモニアの合成を可能にしたことで一躍ドイツを代表する科学者となったハーバー博士には日本文化研究所の所長という意外な肩書もある。かつて資金難に陥っていた彼の研究を資金的に援助したのが日本人実業家の星一という男でその時の縁が続き、今年日独の親密な交流を願って日本文化研究所が設立された。その初代所長にハーバーが収まったのは不思議なことではない。これ幸いと蜂須賀はその日本文化研究所に忍び込んだわけだが、ハーバーはベルリン郊外の研究所に籠っていることが多くなかなか接触することが叶わなかった。
ベルリンの時間遡行軍は彼の周りでなにやら動きを見せている。そのことは陰ながら彼の身を守っている加州たち別動隊が何度か時間遡行軍とぶつかっていることからもわかる。けれど目的が見えない。
加えて近頃ドイツでは研究所荒らしが頻発している。現場では『エントアルトゥング』と呼ばれる異形の存在の目撃情報が相次いでいた。時間遡行軍のことに間違いない。『エントアルトゥング』は研究所を襲っては解析機関を破壊していくという。『科学宮殿』の学者たちは『エントアルトゥング』の存在は眉唾ものだと言い、やれフランスの妨害だ、科学が気に入らない宗教家の仕業だとあれこれ犯人への推測を口にするものが多かった。
解析機関を破壊するなんて、まるでこの世界を正しい歴史に導くようだ。蜂須賀は頼まれていた書籍を受け取って『科学宮殿』へと戻る道すがらそんなことを思った。この世界は異様な歴史を辿っている。本には一冊ずつ番号が振られ、それを解析機関に読み込ませることで、いつ・どこで・なんの本が売れたのかわかるようになっている。物だけではなく人にも番号が振られ、その行動はパンチカードの使用履歴としてあらゆる場所に足跡が残される。そうした社会を成り立たせている解析機関の動力源は蒸気機関だ。あらゆる場所にある機関を動かすために街中の至るところで蒸気が噴き出している。昼間は気が付きにくいが寒い冬の夜には白い煙がもやのように漂っているのがわかる。それだけではなく蒸気機関の動く低い音がいつもどこかで響いている。しかしそれが当たり前になってしまったのか意識する人は少ない。蜂須賀もすっかり慣れてしまって、その音が響いているのが当たり前になっていた。
『科学宮殿』では一際その音が目立つ。宮殿には『カイザー』だけでなく多数の解析機関が動いている。その動力を担うのにはかなりの大きさの蒸気機関が必要だった。『科学宮殿』では中庭に巨大な蒸気機関が置かれ、それがそれぞれの研究室の解析機関へと繋がっていた。きっとこの城を立てた建築家がそれを見たならば噴飯ものだろう。
日本文化研究所に戻ると今日中にやるべきことはほとんどシュミット夫人が片付けてくれていた。受け取ってきた本に研究所の蔵書票を貼り、リストに追加すると書棚に仕舞った。
仕事がないので蜂須賀は研究所を出てコンラートを訪ねることにした。『カイザー』の不調がどうなったのか気になったのだ。コンラートはと知り合ったのは三ヶ月前のことだ。日本文化研究所のお披露目パーティーに現れた彼は日本文化に興味があるというよりもハーバー博士に興味があったらしい。この『科学宮殿』にいる研究者たちの中でも若い部類に入る彼は蜂須賀に対しても気安い人物だった。
彼の所属する超解析機関研究所は三階にある。『カイザー』が置かれた『白の間』の隣にある研究所にコンラートはいた。
「どうしたんですか? 蜂須賀さん」
「いや、『カイザー』のことが気になってね」
「ああ。それならなんともありませんでしたよ」
研究所の入り口で立ち話もなんだとコンラートは蜂須賀を『白の間』へと連れていった。研究所は客人を入れるのに憚られるほど散らかっているとのことだ。『白の間』の前には警備の人間がいる。
「関係者だよ。ちょっと『カイザー』の紹介をするから通してください」
そうコンラートが告げると警備員は『『白の間』』への鍵を開けた。
「ほら、研究所荒らしが最近多いじゃないですか。うちも結構ピリピリしているんです」
「やっぱりそうなのか」
「はい。うちは城の入り口自体にも警備がいますし昼夜問わず人も多いのであまり心配はしていませんが。それに『カイザー』も『カイザー』を動かす中庭のやつらもでかいですからね。壊すのも簡単じゃあないですよ」
扉をくぐり『白の間』へと入る。そこにあったのはコンラートの言葉に違わない巨大な解析機関だった。街中で見られる解析機関の何十倍、いや何百倍もの大きさだ。研究機関では複雑な計算をさせるために通常使われるものより巨大な解析機関が存在することが多い。けれども『カイザー』はその中でも段違いの大きさである。壁に走ったパイプから供給された動力が『カイザー』の餌だ。それを食って巨大なドラムが何台もくるくると回っている。
「これは……驚いたな」
蜂須賀の口からはそれしか出てこない。『カイザー』の存在については知っていた。スペックについてもピンカートンの資料を読んだことがある。けれど実物を目の前にするとそんな知識など吹き飛ぶほどの衝撃がある。
「ここに初めて来た人はみんな今の蜂須賀さんみたいな顔をします」
コンラートは誇らしげに胸を張った。
「世界最大の超解析機関です。仕組みは通常の解析機関と然程変わりません。計算効率を上げるチューニングの手は日々入っていますが、基本的には大きな動力で速くたくさん計算させているんです」
コンラートについて『カイザー』の中を歩く。専門家でない蜂須賀にはそのドラム一つが何を計算しているのかはさっぱりわからない。ただ、この巨大な生き物は計算をして答えを導き出している。
「あ、ここ見てください」
蜂須賀はコンラートが示した部分を見た。そこの区画は同じように計算をするためのドラムが備え付けられているにも関わらず動いていなかった。
「動力がたりなくて動かせていないんです。中庭の蒸気機関をフルに動かしても『カイザー』には足りないんですよ」
「あれだけ動かしても?」
「ええ」
中庭の蒸気機関はこのベルリン中のどの蒸気機関よりも大規模なものだった。この『科学宮殿』の蒸気機関一つで小さな町なら賄うことができるだろう。
「もし『カイザー』が完璧な状態で動かすことができたのなら計算の精度も速さも段違いになります。そうしたらより正確にこの世界が把握できる」
コンラートは『カイザー』を通して輝かしい未来を見つめるように告げた。
「今日のトラブルは計算精度が上がったせいで起こったものみたいです。どうにも結果がおかしい。ありえないはずの答えが出る」
「ありえないはずの答え?」
「はい。簡単に言うと今僕らがここにいる世界はあり得ない——存在するはずがないっていう結果です。これは誤りです。なぜなら僕らは今ここにいるんですから」
それを聞いて蜂須賀は動揺を顔に出さないように必死で取り繕った。存在するはずがない世界。まさしくこの世界そのものだと目の前にいる少年に言えるはずがなかった。コンラートはそんな蜂須賀の様子には気が付かず、熱弁を奮う。
「もちろん『カイザー』が間違えたわけではないですよ。『カイザー』は決して間違えません。だから前提となる条件が間違ってるんです。先輩たちは今その間違った前提が何なのか探ってるところです。おそらく入力条件に誤りがあるんでしょう。『カイザー』が発展するにつれて僕らがやらせる計算もどんどん難しくなっていて結果がおかしく見えることも増えているんです。人間が『カイザー』に追いつけなくなってしまっているのかもしれませんね」
蜂須賀が黙って彼の話を聞いているのに満足をしたのかコンラートは「実は、」と声を潜めた。
「ここだけの話なんですけどね。ハーバー先生は蒸気機関の小型化に取り組んでいらっしゃるようなんです」
「小型化?」
「ええ。今の蒸気機関はご覧の通りの大きさですから。『カイザー』を動かすためにさらに動力源を作ろうにも無理ってものです。蒸気機関のエネルギー損失を抑え、蒸気機関を小型化できれば『カイザー』を万全の状態で動かすことができます」
「それができたらハーバー博士はもう一度ノーベル賞がもらえるね」
「そうなんです。まあ、あまり進捗が芳しくないので大っぴらにはしたくないようですけど。ほら、先生去年のM研究が上手くいかなくて、国からも結構嫌味言われてましたしね。成功するって確信がないと人に言いづらいんでしょう」
ハーバー博士の研究は蒸気機関の小型化。思わぬところからこの数ヶ月探っていたハーバー博士の研究内容がわかってしまった。これは山姥切に連絡を取らなければならない。そう考えていた時、不意に蜂須賀の頭の中に突拍子もない——けれどまた一笑に付すこともできない考えが去来した。
「コンラート。もしも『カイザー』が万全の状態で動いた時、いや……動力源の問題が解決してもっと巨大な『カイザー』を作ることができた時、この世界の秘密は全て暴かれてしまうのだろうか」
「ロマンチストな聞き方をしますね」
「俺は科学者ではないからね」
ついでに言ってしまえば人ではなく『カイザー』と同じ人に使われる物である。
ガス灯が街の暗闇を奪ったように、解析機関はこの世界すべてに光を当てるだろうか。可能であるのなら『カイザー』が望もうと望むまいと、人が決断した時それは為されるのだ。
コンラートはきっぱりと告げた。多くの科学者がそうであるようにロマンチックな物言いで。
「答えはヤーですよ。蜂須賀さん。こいつはこの世界のすべてを明らかにします」
***
ベルリン郊外のダーレム。中心部から見て南東に位置するこのあたりは比較的生活水準の高い住宅街といえる。犯罪も少ない落ち着いた地区だ。中心部には当たり前にあるガス灯もこのあたりにはほとんどなく、本当の暗闇が満ちていた。その中に潜んでいる影が六つ。
「やっとすっきりしたって感じ。敵の狙いが見えないと落ち着かないもんね」
「まだ決まったわけじゃない。俺の仮説が正しいか、検証するのは主の仕事だよ」
「敵の狙いがH氏と彼の作った小型蒸気機関だと言うのならここで倒すだけだ」
山姥切国広は爪をいじりながら呟いた加州とそれに応えた蜂須賀に告げる。
「本部からの連絡は?」
「隊長である蜂須賀虎徹の判断に任せると。俺も同意見だ」
蜂須賀は普段この街で着ていた品は良いが地味な装いでなく、いつもの黄金に輝く鎧を身に着けていた。さすがに暗闇では煌めかない。
「加州、部隊の準備は?」
「できてるよ。H氏を張ってた俺たち別働隊も準備万端。研究所の裏手には長曽祢さんと堀川。念のため自宅にいる博士の側には浦島をつけてる。あいつ早くあんたに会いたいって駄々捏ねてたけど」
「この仕事に片が付けば一緒にアメリカに戻れるさ」
蜂須賀は弟のことを想って表情を緩めた。浦島は加州が率いる別動隊としてベルリンに待機していたものの蜂須賀と直接接触することは許されていなかった。長らく会っていない弟にも早く会いたい。
「兄貴のほうも心配してたけどね——ってこれは言われたくないかな」
「あの男のことは関係ない」
「了解了解。じゃあおっぱじめますか」
加州は腰の刀に手を伸ばす。
「ああ」
山姥切は布を目深に被り直すと鬨の声を待つように目を蜂須賀に向けた。
「目的は研究所の敷地内に潜む時間遡行軍の殲滅。くれぐれも博士の試作品を壊される前に奴らを倒せ」
加州は素早く研究所に忍び込むと敵影に飛び込む。偵察は苦手と嘯きつつも先陣切るのはお手の物だ。闇の中を颯爽と走る。今回の目的は二つ。このベルリンに巣食う時間遡行軍の殲滅とハーバー博士の作った小型蒸気機関の試作品を守ること。後者の目的を達するために最初に飛び出したのが加州だ。敵よりも早く、ハーバー博士の研究室にたどり着かなくてはならない。今まで敵が研究所を襲わなかったのはこの研究所の周りで加州達が牽制していたからだ。直接ぶつかるには互いに相手の手の内が見えていない。だから今晩はあえて隙を作ったのだ。
「まるで俺らが諦めたようにっ!」
鋭い突きで敵の喉元を捉える。おそらくここに集まったのはこのあたりにいる時間遡行軍の全勢力。どうせやるなら一網打尽にするのが賢いやり方というものだ。
「清光君!」
加州の背後にいる敵を斬り倒したのは堀川国広だった。
「ありがと」
「どういたしまして……じゃなくて早く研究室に急がないとね」
「長曽祢さんどうしたの?」
「建物の中は僕のほうが小回りが利くから先行してきたんだ。たぶん裏に回った敵と交戦中」
「長曽祢さんなら大丈夫か。俺たちもあんまり心配してる余裕ないし」
「そうだね。思ったより敵の数が多い気がする」
そう言う合間にも加州と堀川は敵を斬りながら研究所の中を走る。それほど大きな研究所ではなく、階段や廊下が狭いのが幸いした。敵の数は多いが一気に攻めてこられるというよりはひっきりなしに自分たちを追いかけてくる敵を斬り倒していくという感じだ。 階段を上って二階に上がる。目的の部屋はすぐそこだ。
「よし!」
敵を階段の下へと蹴り飛ばして目的の部屋の前に辿り着く。その瞬間、廊下の窓ガラスが粉々に砕け散った。
「嘘だろ……。これ絶対反則!」
壁を上ってきた時間遡行軍が窓を破って研究所の中へと入って来る。ちょうど挟まれた形だ。
「最初っからルールを守ってくれるようなものじゃないですからね」
堀川は冷たい目で時間遡行軍を射抜く。普段柔和な雰囲気をしている分、触れれば切れそうな研ぎ澄まされた顔は別人にすら見える。加州はそれなりに長い付き合いなので、そんな堀川の様子にも特段驚きはしない。本気になったんだなという程度の感想だ。
「さて、俺も本気出そうかな」
闇の中で影が大きく動いた。
蜂須賀は敵を追って走っていた。この時代の敵を一網打尽にする。蜂須賀と同じように敵も気づいているであろう真実を覆い隠すために。
果たしてそのことに意味があるのかは正直わからなかった。この世界の歴史はどうしようもないほどに歪んでいる。たとえ敵がここで小型蒸気機関を破壊したところで、この世界の歴史が正しくなるなんてそんな話あるわけがない。
いつかこの世界の解析機関は正しい姿に光を当てる。この世界が間違っていることはいつか計算によって証明される。時間遡行軍にとってこの世界が正しいあり方を取り戻すことは望ましいことではない。だから彼らは進み過ぎたこの世界の解析機関の発展を阻害しようとした。皮肉にも蜂須賀たち刀剣男士は、変化したこの世界の歴史を正そうとする時間遡行軍と戦っている。
屋敷の中では蜂須賀の仲間たちが交戦中だ。刀剣男士から逃れようとする敵を追って蜂須賀はただ一人研究所の外に飛び出した。敵は研究所のすぐ側にある建設中の地下鉄へと潜り込んだ。地下鉄といってもこのあたりは完全な地下ではない。U字型に地面がくりぬかれていて、顔を上げれば星明りが見える。
天は澄み切った夜空だ。ベルリンの中心部では夜もそこかしこで蒸気が吹き上げている。靄がかった街中では見えない藍の空。月のない闇夜に星座ははっきりと姿を現す。思えば人の歴史がいくら変わっても星座が変わることはなかった。
刀を抜く。敵は太刀が一振り、脇差が二振り。数の不利は感じない。敵に迫った一閃は確実に敵の首を捉える。
「逃がさない!」
返す刀で残った太刀を追い込む。軌条の上は足場が悪い。さらにこの闇の中だ。地面を蹴り飛ばすようにして走る。蜂須賀の刀が敵の背に届いた。残るは脇差が一振り。蜂須賀は半身になり、刀を正眼に構える。
時間遡行軍は声もなく、死骸もなく消えていく。本来この時代、この世界にいるべきではないものだからだろうか。畢竟、刀剣男士も時間遡行軍も異物という意味では同じなのだ。この捨て去られた世界の歴史。何が本物で何が偽物かなど余所からやってきたものが決められるものではない。
それでも蜂須賀は己の主がたった一つの正しい歴史を守るために幾万の世界——贋物の世界に潜む敵を打ち倒せというのなら、それに従うつもりだった。
刃が敵に届く。闇の中で静かにその存在が消える。蜂須賀は刀を鞘に納めると山姥切たちに合流するために線路の上を研究所の方へと向かって歩いた。
贋物のこの世界の夜はそれでも美しかった。
***
目に眩しいきらびやかな場所だった。『科学宮殿』に残っている数少ない、王宮文化が式典用に残された空間だ。五十人ほどがホールの中にいるが、ホールの調度品に比べればいささかラフな格好の者が多い。立食形式のパーティーはとある日本人実業家の歓迎会を兼ねたものだ。その主賓が蜂須賀の前にいる。
「いつアメリカへ?」
「来週です」
「それは残念。けれどアメリカは面白い国だ。気に入るだろう」
「ありがとうございます。星さん。ベルリン——この『科学宮殿』での生活はとても良い経験になりました」
蜂須賀は深く頭を下げた。日本人実業家である星一はこのパーティーの主賓であり、ベルリン日本文化研究所設立の立役者だ。所長であるハーバー博士の支援者でもある。審神者の伝手を辿り彼との縁故を得た蜂須賀は日本文化研究所の事務員という立場を得た。
蜂須賀はベルリンでの任務を終えてアメリカのピンカートン本部に戻ることとなった。ここでは表向きアメリカへの留学ということになっている。
ハーバー博士の計らいで星の歓迎パーティーは盛大に執り行われていた。日本文化研究所の関係者はもちろんのこと、『科学宮殿』にいる他の研究所の研究員の姿も見える。
「ここは今の科学技術の最前線だからね。私も興味深く見学させてもらったよ」
「これから……この世界はどうなるのでしょうね」
「今や世界の科学技術の発展も日進月歩。もう三十年後のことなどわからんね」
茶目っ気のある言葉に蜂須賀もふっと表情を緩めた。彼がアイディアを出した『三十年後』という小説のことを蜂須賀は審神者より聞いていた。
「あ、蜂須賀さん!」
蜂須賀と星のほうへと歩いてきたのはコンラートだった。彼は星を見つけるとぺこりと頭を下げた。
「星さん。こちらはコンラートです。『カイザー』を動かしている一人ですよ」
「初めまして。コンラート・ツーゼと申します。超解析機関研究所で研究員をしています」
「初めまして。『カイザー』の具合はいかがかい?」
「今日は機嫌が良いですよ。来月には新しい蒸気機関を導入するので、もっと高速で動かせるようになりそうです」
「それは重畳。——失礼。少し外させてもらおう」
「ええ。本当にありがとうございました。星さんもお元気で」
他の出席者の方へと歩いていく星の背中を見送ると蜂須賀はコンラートに尋ねる。
「ハーバー博士とは話せたかい?」
「はい。やはりあの人は天才ですね。専門はまったく違いますが、いくつか役に立ちそうな知見を得ることができました」
コンラートは少年らしく目を輝かせた。
「それより蜂須賀さん。アメリカに行くんですって? あんまり突然だからびっくりしましたよ」
「ああ。父からの勧めでね」
「いいなあ。僕もアメリカには一度行ってみたいと思っていたんです」
彼は希望に満ちた未来を見つめている。蜂須賀はいつかと同じ問いかけをした。
「コンラート。解析機関が発達したら、この世界のすべては明らかになるのだろうか」
「僕はそう信じていますよ。そのために僕らは日々『カイザー』と一緒に研究を続けているんですから」
コンラートは眩しそうにホールの中を見渡した。
「でも、『カイザー』だって未来のことはわかりませんよ。『カイザー』は間違えませんが、僕たちは間違えます。『カイザー』の思いもよらぬことをするのが人間です。だからそうですね……。僕は『カイザー』の喜ぶ未来を見せてあげたい」
この世界が本物ではないことを蜂須賀は知っている。けれどこの世界の中にいる人々にとって確かにいまこの瞬間、この世界は本物だった。たとえ蜂須賀がこの国の三十年後を知っていたとしてもそれが本当であるとは限らない。このヴァイマール共和政がそれほど長く続かない。その本当の世界で起こることが、この贋物の世界でも果たして起こるのか。それとも——。
いくらでも未来は変わることができる。
蜂須賀には『カイザー』のドラムがそれに応えるように軋む音が聞こえた気がした。
同じ研究室の先輩に声をかけられたコンラートを置いて、蜂須賀はホールを出た。
「おい」
「え?」
突然蜂須賀の目の前に真っ白な布が現れた。
「俺だ。山姥切国広だ」
「なんで君が……ってまた変な布被ってる」
「いいだろ……。写しの俺には相応しい」
「はいはい。それでなんで君がこんなところに」
刀剣男士であれば忍び込むのもそれほど難しいことではないだろうが、それにしてもわざわざ潜入している蜂須賀の前に姿を現すとは珍しい。
「俺も……」
山姥切は被っている布をさらに顔を覆うように引き下げてから答えた。
「あれを見てみたくなった」
山姥切の視線の先には『白の間』があった。
「どうだった?」
「面白かった。あれもこの宮殿の中も」
見つからないように二人でこっそりと中庭を抜け、正門ではなく裏門の方へと回る。
「名残惜しくなったんじゃないか?」
山姥切の質問に蜂須賀は眉を寄せた。正直なところ、敵の住処でしかないこの世界のことはどうでもいいと思っていた。
今は——。
「そうだね。贋物だというにはあまりに惜しい世界だ」
