記憶の在処

 骨喰が眠っている。鯰尾は片膝を抱いて静かに彼を見つめていた。あまりに真剣なので見つめるというより睨んでいると言ったほうが近い。結い紐が切れてしまったせいで長い黒髪がほとんど顔を覆い隠しているが、その奥の瞳はいまだ戦いの中にあるかの色を浮かべていた。
「しばらくは目を覚まさない」
 襖を開けて部屋に入ってきたのは加州清光だ。
 鯰尾が黙っていると彼は一つ溜め息をついて鯰尾の髪に手を伸ばす。軽く指ですくといつもと同じ位置に髪を結わえてやる。
「酷い顔してる。休んだ方がいいんじゃないの」
「俺の傷はもう癒えた」
 右腕には長い傷痕があるが、すでに治っている。仮初めの肉体だけではなく、彼らの本質たる意識――霊体ともいうべきものも回復していた。
 治りきっていないのは骨喰だ。
「もう知らないからね」
 言葉とは裏腹に加州は持っていた半纏を鯰尾の肩に掛けた。
 驚いたと鯰尾がゆっくりと顔を上げて彼を見れば、その顔には憮然とした表情が浮かんでいた。
「あんたたちの兄貴に頼まれただけ」
 そうかと鯰尾は無言で頷いた。兄貴というのは一期一振のことだ。彼は骨喰と鯰尾が帰ってきたのと入れ替わりに出撃していった。
 加州が出ていってしまうと部屋はまた静かになった。
その日の戦場は出撃は油断できるほどではないとはいえ、苦戦を強いられるものではないだろうというのが審神者の見立てだった。
しかし実際には遠戦で消耗したところを一気に叩かれた。この本丸は遠戦装備に乏しい。それでも刀装を盾にして堪えきれるはずだった。
 敵に狙われたのは脇差である鯰尾と骨喰だ。刀装も剥がれきったところを執拗に攻められる。なんとか敵を駆逐して戦場を後にした時には鯰尾は中傷、骨喰は重傷を負っていた。彼らは打刀や太刀に比べれば傷つきやすいとはいえ、ここまで手酷くやられたのは久しぶりだった。
 傍らの骨喰の体に触れる。体温を感じてほっとすると同時に寂しさが込み上げた。疲れ果てたこの体にも休息は必要だというのは、加州に言われなくてもわかっていた。それでも離れがたいと思うのは、少しでも目を離したらこの骨喰藤四郎が鯰尾の知っている骨喰藤四郎でなくなってしまうような気がしたからだ。
 布団を剥がして肌着から覗く胸元に目を落とす。傷を負ったのは胸だった。心臓を一突き。ただの人間なら当然致命傷となる一撃だった。鯰尾たちはその本質が刀であり、人格や記憶は霊体が保持している。だから霊体さえ癒せる状態ならば、心臓が止まろうが首が斬り落とされようが平気だ。
 骨喰の胸には傷一つなかった。まっさらな肌だ。
 鯰尾の指が骨喰の体に触れた時、襖が再び開いた。
「まだ、いたのか」
 加州の素っ気ない物言いは心配の裏返しだったが、今度の声は本当に気のない声だった。
「いましたよ。ずっと」
「なにかあったか?」
 審神者は加州と違って鯰尾に休めとは言わなかった。
「別に。ただ……やっぱり体、取り替えたんですね」
「あそこまで壊れていたら修復するよりも早い」
「知ってます」
 刀剣男士の体は器に過ぎない。それ故、審神者の持つ癒しの力で直すことが可能だ。しかし、部位が欠損したり直すこともできないほどに傷ついた場合はそっくり新しい肉の器に魂を入れ替える。その仕組みや新たな器をどうやって作り出しているのかを鯰尾は知らないが、とにかく酷い怪我を負うと新しい体になるということで納得している。体の入れ替えは通常の修復と違って痛みも少ないし、傷痕も残らない。ただ、魂を定着させるのに時間がかかる。
 鯰尾はこの体をしばらく使っている。今日負った右腕の傷は完全に消えることはないだろう。脇差は体が脆いからまた近いうちに彼も新しい器に移されることになるだろうが。
 審神者は膝をついて、骨喰の様子を見た。息をして肺が動いていることを確認すると、鯰尾がはだけた肌着を戻す。
「ねえ、記憶ってどこに持っているんだと思います?」
 鯰尾はぽつりと口にした。
「記憶は脳が持っている。お前たちの場合は霊体が」
「本当にそうでしょうか」
 鯰尾は知っている。骨喰のうなじの部分に小さな傷があったこと。それを付けたのは昨夜の自分だったということ。しかしまるでその出来事が夢だったかのようにのうなじは白く綺麗なままだった。
「心にだって記憶は宿ると思いませんか? 『体が覚えてる』ということだってあるじゃないですか?」
「どちらも処理しているのは脳だ。科学的には脳以外の記憶は証明されていない」
「あなたは、人間のくせに有限の体にさして思い入れがないんですね」
「記憶はちゃんと元通りになるよ」
 審神者は静かに鯰尾を見下ろしていた。怒っているわけではなさそうだった。むしろまるで慰めるような物言いにこの人は本当にわからないのだと、鯰尾は落胆する。
「骨喰の記憶は元通りですよ。記憶が欠けるのは俺のほうだ」
 鯰尾が触れた骨喰の体はもうどこにもない。悪戯に残した傷も甘えるように舐めた指もこの世界にはもう存在しない。記憶と現実の齟齬を解決するためにきっと鯰尾はそれを忘却の海に沈めてしまう。
 一度焼けた刀は少なからず記憶の欠損が見られるらしい。それは兄と呼ぶ一期一振も同様だった。鯰尾はそれを再刃された時に体が変わるからだと思っている。記憶はあっても、それを行った体がない。その矛盾を解決するために記憶のほうが消える。ならばこうして肉体を手に入れた今だった同じことだろう。経験した体がないのに、記憶だけを持っているなんでそれはおかしな話じゃないか。
「おかしくはない。お前たちは道具だろう? 心と体が分かち難いものだなんて、それこそ人間すぎる発想だ」
「俺たちを人に生んだくせに」
 まるで子供のような物言いをしてしまった。らしくないのはわかっている。ただ、こうやって記憶が永遠に続いていくことには耐えられないと思った。己を失った記憶はずっと持っていたいものではない。だから忘れたいのにこの体になってからは何度もそれに直面させられる。
「だからお前は骨喰には勝てないんだよ。鯰尾藤四郎」
 審神者は鯰尾にそう言い捨てた。あまりの言葉に鯰尾は審神者が部屋を出て行くまでぽかんと口を開けていたが、しばらくしてから一つ言葉を漏らした。
「何あれ」
 そこでようやくあの審神者が鯰尾の言うことに腹を立てていたのだと気づいた。子供っぽい捨て台詞を残していく程度には。

 骨喰藤四郎が目を覚ますとすぐとなりに兄弟の顔があった。半纏を被って骨喰の隣で眠っている。畳は冷えて固いだろうに。
 揺り起こすと紫の目がぶつかった。
「あ、もうなんともない?」
 鯰尾は最初に骨喰のことを心配して手を伸ばした。
「もう平気だ」
「よかった」
 安堵したのか鯰尾は骨喰の胸に顔を埋めた。胸を刺されたはずだが、そこに傷はない。傷はなくとも敵の太刀の刃も、それが心臓を貫く痛みも全て覚えている。
 指で鯰尾の髪に触れる。色も感触も覚えているけれど、この指が触れるのは初めてのはずだ。
「俺は何か忘れたことがあるのか?」
「なんで?」
「兄弟が泣きそうな顔をしているから」
「俺は泣かないよ。強いから」
 「お前に勝ったことは一度もないけど」と鯰尾は付け足した。だから弱気になるのは骨喰の前だけだ。
「お前が忘れたことがあるのなら、俺も忘れるから大丈夫だよ」
 鯰尾は自分に言い聞かせるようにする。二人で忘れればそれはなかったことになる。失われたものは最初からないと。
「でもそれは寂しい」
「寂しい?」
「だってあったんだろ?」
 記憶がないわけじゃない。この本丸に来てからのことはすべて覚えている。体を何度失っても、その失ったことを骨喰はちゃんと知っていた。
「……あった」
「じゃあ覚えていてくれ」
 忘れたってなくなるわけじゃないんだから。
 傷ついたことも、守れなかったことも、体を失うことも。忘れたってなくなりはしない。
「全部、覚えていよう」
 もう一度骨喰は鯰尾に告げる。 
「いつかこの戦いが終わったら全部消えるかもしれないよ」
「覚えていられるうちは覚えていたい」
 鯰尾が頷く気配を胸に感じる。
「だから俺は骨喰には敵わないんだなあ」
「どうした?」
「なんでもない」
 今しかない鯰尾は過去と未来を見ている骨喰にはいつまで経っても及ばない。今この時感じた悔しさだって忘れてしまうから。だっていつかこの戦いが終わったら用済み、どうせその先はないんだから覚えてる意味なんてないだろうと鯰尾は思っていた。
 記憶は自分だけじゃなくて、他人に預けることだってできるのだ。
「俺は骨喰のことを覚えているから、骨喰も俺のことを覚えていてね」
「当然だ」
 ふふっと鯰尾が笑うので、骨喰も微かな笑みを返した。