8月1日
オーエンにとってハッキングは難しい仕事ではない。彼が収集したデータの中にコンピュータサイエンスの知識は当然あった。その上、オーエン自身が、入出力のラグなしにあらゆる計算を試行することのできる高性能な計算装置でもある。バイクを乗りこなすのにはそれなりの練習が必要だったが、任意のサーバーに侵入して目的の情報を盗み出すことは、オーエンにとって腕を真上に上げるのと同じくらい容易い。
ラボにいた頃から知識を得るために世界中のあらゆるサーバーを覗いていた。それから、『真木晶』という名前のアシストロイドを作るために、ラボ内の管理サーバーを乗っ取った。実体のないプログラムコードを隠すのは容易いが、アシストロイドの素体を手に入れるのはそう簡単ではない。当然ながらラボではすべての材料に管理番号が振られて、製造から破棄までをシステム上で台帳管理されている。だから、オーエンは台帳自体を改竄して、素体を手に入れた。
上手くやれたつもりだったが、最後の最後でオーエン自身の持つ記憶情報からバレるところだった。だから、慌てて自分の記憶を削除した。念入りな偽装でハッキングはバレなくても、フィガロはオーエンの記憶情報をいくらでも閲覧することができた。オーエン自身が覚えていることを偽装することはできない。
結果として、今もオーエンは晶のことを作った記憶はない。けれど、自分のことだからわかる。きっと彼を作ったのは自分だった。
そして、記憶を隠すことにした。
フィガロのことだから記憶の消去になんの躊躇いもないだろうと踏んで、あらかじめハッキングした世界中のサーバーに、オーエン自身の持つ記憶を分割し、暗号化して保存した。オーエンという人格ならば絶対にこの結論を導き出す。そして、その時に割り出した一番適した置き場を探しにいく。それを確信していた。
実際、一度フィガロに記憶を消去されても、僅かながら記憶を復元することができた。今ならもっと上手くやることができる自信もある。
それから──。
目当ての情報を保存すると、オーエンの意識は外に向いた。五感のフィードバックや体の動きにフォーカスする。まるで深い眠りから目覚めたように、彼は少しずつ手足を動かした。うなじに差したケーブルを引き抜く。
目の前のパソコンには先ほどまで探索していた情報が保存されている。オーエン自身が優れたコンピュータであると言っても、多くの情報を扱うにはマシンパワーが足りない。ゆえにオーエンが司令塔となり、目の前の高性能なノートパソコンを通した複数台の仮想マシンを借りて処理をしていた。
オーエンにメッセージを送ってきた相手の名前はエニグマといった。もちろん本名ではない。
エニグマはインターネット上のハッカーコミュニティで知り合った人物だった。そのコミュニティに出入りする者たちは、通信経路上に何重もの偽装を重ねており、明らかなのは画面に表示されているアカウント名だけだ。エニグマはコミュニティの中でも古株で、オーエンから見ても腕の良いハッカーだった。
事実、オーエンの力を以てしても、直接エニグマの正体に辿り着くことはできなかった。彼はインターネット上の痕跡を綺麗に消している。だから一工夫して、彼に言及している者やコミュニティでエニグマとやりとりしている者からエニグマに繋がる糸を辿った。結果として、オーエンにメッセージを送ってきたエニグマについてある程度のプロファイルを推測することはできた。
発信場所の特定は彼の個人情報の探索に比べたら簡単だった。
エニグマはTRUNKを使ってオーエンに連絡をしてきた。特定のサーバーを経由せずに通信が行えるTRUNKは、時に非合法な手法について話し合うことになるハッカーにとっても優れた通信手段だ。
この手のメッセージサービスの提供者は裁判所の令状を出されたら通信ログを提出する義務がある。しかし、TRUNKはサーバーを経由しないので、通信ログはメッセージを交わした二者の端末にしか保存されない。つまり証拠が残らないということだ。裏を返せば直接通信している端末の情報についてある程度追跡することができる。
もちろん端末の位置情報や接続しているネットワークの情報は、何重ものセキュリティ防壁がかかっている。しかし、穴がないわけではない。オーエンはその穴を突いて、エニグマがメッセージを送ってきた端末が接続しているアクセスポイントを探り当てた。
それでもオーエンの表情は晴れない。上手くいきすぎているという感覚が警鐘を鳴らす。エニグマならばオーエンがこうして彼の素性を探るところまで当然わかっているだろう。発信場所もそうだ。だとすれば、今手に入れた情報は罠なのではないか。
しかし、結局オーエンは自分の好奇心に勝てなかった。おあつらえ向きに彼が潜伏していると思われる場所はここからそう遠くない。明日の天気を確認して、オーエンはエニグマに直接会いに行くことを決めた。
エニグマのいる街は、バイクならば三時間、鉄道とバスを使えば二時間のところにあった。鉄道やバスは極力避けたく、中古のバイクを買い取ってハンドルを握った。セキュリティチェックの厳しい空港や大きな街のターミナル駅と違って、地方の小さい駅では、まだ人間が身分証とチケットのチェックを行なっている。オーエンの持っている偽造パスポートはコンピュータやアシストロイドを騙すのには十分な物だったが、人間を騙すのには向いていない。今のところオーエンをアシストロイドだと疑うものは全くいなかったが、念のためだ。
空には雲が浮かんでいるものの、十分晴れと言える天気だった。気温は三十度を超えている。湿度は低いし、風はあるが、人間なら長時間バイクの運転をするのには辛い気候だろう。オーエンにとってこの程度の暑さは問題にならなかったが、平気な顔をしていることでアシストロイドであることがバレないようにしなくてはならない。
長く伸びる単調なハイウェイをバイクで駆け抜けていく。オーエンはふとフォルモーントシティで同じようにエアバイクが風を切っている風景を思い出した。あの時ハンドルを握っていたのはオーエンではなかった。ここはフォルモーントシティより砂っぽくて、暑くて、視界がうるさくない。それでもオーエンの頭の中で連想された風景は、訴えかけるようにメモリの上に展開される。
「カイン」
彼は今何をしているだろうか。時刻は─オーエンがいるこの場所からフォルモーントシティとの時差を考慮しても─すぐに割り出せる。仕事の日なら出勤するために着替えている時間。休日ならまだ朝ごはんを食べているかも。
側にいたい。ふっと浮かんだ感情がオーエンの身のうちいっぱいに満たされる。
感情を処理するために、カルディアシステムは処理領域の割り当てを要求してくる。カルディアシステムは他のどんな処理よりも優先度が高いから、オーエンが判断するまでもなくメモリ上いっぱいに広がって──つまりカインのことで頭がいっぱいになった。念入りに隠した胸の印も、今は煌々と光っていることだろう。煩わしい。
ここから先しばらくは真っ直ぐな道のりだ。つまり、考えることもそう多くないということで、今のオーエンにとっては大変都合が良かった。
到着した街は、この辺りでは指折りの歴史がある。大学や研究所の多い学術都市の側面もあり、ほんの少し雰囲気がフォルモーントシティに似ている。そのことに気づいた時、またオーエンの胸が疼いた。
エニグマのメッセージから接続元を辿ると、この街にある博物館のローカルネットワークに行き着いた。大人一人分のチケット代を払って入場する。エニグマが博物館のスタッフなのか、はたまたゲスト用に解放されている回線を使っただけなのかまではわからない。けれど、ここにオーエンを誘き寄せたかったのだろうことは、博物館に入ってすぐに気づいた。
最初の展示室に足を踏み入れる。そこには巨大な機械が鎮座していた。展示の説明をするパネルの文字を追うまでもなく、それが原初のコンピュータだとオーエンは知っている。
広い展示室を十歳くらいの少年が駆けて行った。平日なので大人の姿はそう多くない代わりに、小学生らしき子供たちの姿は目に止まった。おそらく遠足か何かで来ているのだろう。オーエンは子供たちに混ざってゆっくりと展示室の中を進んでいく。
展示はコンピュータの進化の歴史を物語っている。巨大な計算装置は徐々に小さく、そして高性能になっていく。アシストロイドの頭脳はマナプレートに埋め込まれたCPUだが、極々薄く大きさは数平方センチメートル程度しかない。
展示室を抜けると中庭に繋がっていた。空調の効いた展示室から出るとぐっと気温が上がる。展示室は中庭を囲む四つのエリアに区切られているようで、順路は左手側の建物を示している。しかしオーエンは右手側の建物に近づいた。
そこには一人の男が立っていた。年齢は三十代から四十代。ポロシャツにジーンズという軽装に眼鏡をかけている。公開されたプロフィール情報から彼がこの博物館の学芸員だとわかる。オーエンはエニグマの活動時間帯や言葉遣いを含めた振る舞いから人物像を解析していた。彼はそのプロファイルとも矛盾しない。
エニグマは非合法なハッキングにも手を染めていたが、物腰は逸脱者のそれではなく、むしろ社会性は高い人物だと推測されていた。
「UN?」
先に口を開いたのは男の方だった。オーエンがハッカーコミュニティで使っているアカウント名を告げた。
「きみがエニグマ?」
オーエンも問いを返した。彼は静かに頷いた。
「奥で話そう」
エニグマはオーエンを手招きすると、建物の二階にある部屋に彼を通す。扉には『セミナールームA』と書かれていた。正面には映像の表示や板書を行うための大きな黒板がある。今はなんの映像も表示されておらず、文字通り真っ黒だった。中庭に向いた窓はブラインドが取り付けられていて、今は日の光を遮っている。室内はテーブルが一つ、黒板と垂直に設置されている。椅子はテーブルを挟んでそれぞれ三つずつ。オーエンが窓に向かって着席すると右側に黒板がある格好だ。エニグマは窓を背にして座った。
「待たせた?」
オーエンは含み笑いを見せた。ここを訪れることは誰にも知らせていない。オーエンがエニグマを探り、この博物館に行き着いたとしても、いつ現れるかまで予測できたとは限らない。
「仕事をしながら待ってたよ」
エニグマは苦笑した。彼の公開プロフィール情報は偽造でもなんでもなく、本当にこの博物館の職員らしい。
「きみは好奇心の強い人間だろうと思っていた。私に興味を持ったらここに辿り着くだろう。会えばなんとなくきみとわかるんじゃないかってね。実際、きみを見て、ひと目でそうだとわかった」
「そんなにハッキングしそうな人間に見える?」
オーエンは「人間」という単語にほんの少しアクセントを置いてエニグマを窺った。彼はまだオーエンがアシストロイドであることには気づいていないようだ。
「そうじゃない。好奇心旺盛で、賢くて、若い。そういうイメージ通りだったってだけだ」
「それで、個人情報を晒してまで僕に声をかけた理由は何?」
「きみに打診した仕事は、私が今まで手がけてきた仕事の中でもとびきり大きなものになるだろう。だから、計画の要であるきみと直接話してみたかった」
「それだけ?」
「ああ」
誓って、とエニグマは右手を胸に当てた。
「フォルモーント・ラボのサーバーに侵入すること自体は難しくない。きみ一人でもできるだろう?」
オーエンは突き放すように言った。フォルモーント・ラボのシステムは複数のシステムが連携して動いている。巨大なシステムだからこそ穴も多い。オーエンは侵入経路はいくつも挙げることができたし、それはエニグマにとっても同じことだ。
「一定時間フォルモーント・ラボが持っているアシストロイド向けの処理系を全て停止させたい。それには手が足りなくてね」
「一定時間って?」
「最低で十日。できれば二週間」
オーエンに走った驚きの感情を読み取ったのかエニグマは続けた。
「フォルモーントシティで議会に提出された条例案を知ってる?」
「アシストロイドが犯罪を起こした場合に、その責任を所有者に問わない、ってやつでしょ」
「そうだ。アシストロイド自身に判断能力と責任能力を認めるという画期的な条例案だ。もちろん対象になるのはラボが作った一部のアシストロイドだが」
カルディアシステムによって自意識を獲得したアシストロイドは、オーナーの判断ではなく自分の判断で行動することができる。ゆえに彼らの行動の責任はオーナーではなく彼ら自身にある。つまるところ、この条例案はアシストロイドを人間と認めるものだった。
「条例案の採決が八月二十三日に決まった。その前にラボのサーバーを停止させて、フォルモーントシティの市民たちに、アシストロイドとは何かを突きつける。それが私の計画だ」
「だから十日ってわけ」
アシストロイドはネットワークが遮断されても行動することができる。ただし、ラボとの通信が途絶すればバックアップの保存や感情想起システムによる解析処理が行われなくなる。十日というのは、カルディアシステムを搭載したアシストロイドがネットワークから切り離されて違和感なく振る舞うことができると言われている最大日数だ。
エニグマは頷き、立ち上がった。
「お茶も出さずに話をしてしまったね。何か入れてこよう」
「お茶よりお菓子がいい」
オーエンの言葉にエニグマは笑みの形を作った。
§
「ちょっと」
カインは署内ですれ違い様にブラッドリーに肩を叩かれた。ブラッドリーが扉を開けたミーティングルームに体を滑り込ませる。廊下を歩く他の署員からの人目も避けるような動きだ。
「フォルモーント・ラボを狙ったテロ計画が進行中との情報が入った」
ブラッドリーは声こそ潜めていたが、なんでもないように告げた。
「テロ!?」
「静かにしろ。そうだって言ってんだろうが」
鬱陶しいと言いたげにブラッドリーは手を払う。
「確かな情報なのか?」
カインも声を落とす。
「敬語を使え敬語を。──情報の出どころは教えられないが、まあまあ信頼性のある情報だ。ただ、署内でも大っぴらにできる状態じゃない」
信頼性はあるが、大っぴらにできない情報。つまり、非合法な手段で入手した情報か、もしくは情報元に何か大っぴらにできない事情があるのか。
「それで、俺はどうしたらいい」
ブラッドリーはにやりと笑った。とん、と彼が気安くカインの背中を叩いた。
「ラボに探りを入れてほしい」
「ラボに?」
カインは怪訝な顔を隠さなかった。ラボの警備を見直せというのならわかる。けれど、探りを入れろというのはどういうことだろうか。ラボはあくまでテロリストに狙われているのであって、犯人に迫るのならその情報源とやらを追う方がずっと確かだろう。
「ガルシア博士に会ってこの情報がどこまで伝わってるのか確認して来い」
「ガルシア博士がテロ計画を知ってるって言うのか?」
「それを確かめて来いって言ってんだよ」
ブラッドリーはそう言うとミーティングルームの扉を開けて再びするりと廊下に姿を消した。毎度のことながら、部下に対する要求が無茶苦茶すぎる。オーケー。落ち着いて情報を整理しよう。
フォルモーント・ラボをターゲットにしたテロ計画があるとブラッドリーは情報を得た。信頼性は彼曰く、まあまあ。カインはブラッドリーの判断能力には一目置いていたから、彼が一定の信頼性を置いたのならそこに疑いを挟むつもりはない。それなりに確度のある情報なのだろう。
情報の出どころが明かせないということは、やはり非合法な手段で入手した情報と考えるのが自然だ。ブラッドリーの捜査手法が警官としてはとても褒められたものでないことは周知の事実で、それでも結果を残しているからここまで許されている。
「手がかりはラボ」
ラボを探れと言う意味をストレートに考えれば、ブラッドリーはラボの関与を疑っているということだ。そして、わざわざフィガロ・ガルシア博士の名前を出したということは──。
「アシストロイド絡みの話ってことか?」
そもそもカインに話を持ちかけてきたのだから最初に疑うべきだった。フォルモーント・シティポリス全体の統括をしているブラッドリーはともかく、今のカインはアシストロイドに関する事件の捜査が仕事だ。そのカインに指示を出したのだから、このテロ計画というのはアシストロイドに関係があるか、その可能性が高いかということだ。
フィガロはフォルモーント・ラボのアシストロイド研究における責任者だ。ラボとアシストロイドが関係しているとすれば、彼が何も知らないはずはない。
カインはブラッドリーのように自然な仕草でミーティングルームを後にする。まずは正面から、フィガロにアポイントメントを取ることにした。
§
冷えたアイスティーは甘味が強くてオーエン好みの味がした。まさか味覚の嗜好まで調べられた訳ではないだろう。手を伸ばしたクッキーもバターの風味が強くて口の中でほろほろと溶ける。それからチョコレートに手を伸ばしたところでエニグマが話し始めた。
「私はフォルモーントシティの出身なんだ」
「知ってる」
エニグマが飲み物を取りに行った間に、オーエンは彼の素性を調べていた。職場と公のプロフィールがわかっていれば経歴を調べることは難しくない。フォルモーントシティ生まれ、フォルモーントアカデミアで博士号を取得。その後、フォルモーント・ラボラトリー、シティの外の研究機関で勤務。八年前からこの博物館の学芸員として採用。オーエンが並べ立てた経歴にエニグマは頷いた。
「私はワーキングクラスの出身だったから、アシストロイドと触れ合うようになったのは大学院に入って、研究を始めてからだった。当時の私はマナプレートの機構を研究していてね。これだけエネルギー効率の良い電源装置と高性能なCPUを兼ねたマナプレートを使って作るのが、金持ちの道楽や人形遊びにすぎないことには失望もしていた」
ムル・ハート博士が基礎理論を提唱したマナプレートは今までのコンピュータを大きく変えたと言われている。アシストロイドが人体と同じ大きさであるにも関わらず長時間充電せずに動かすことができるのも、多くのセンサーの情報を統合して的確に人間とコミュニケーションが取れるのも、マナプレートの発明なくしては叶わなかった。
「アシストロイドを従順に、けれど愛情深そうに動かすことが私たち研究者に求められていた。けれど、マナプレートの実力を最大限に引き出せば、彼らをもっと人間に近づけることができる」
「それがカルディアシステムでしょ」
「ああ。私はそれを作りたかった」
エニグマは微笑んだ。
「私はラボを追われた。フォルモーントシティの人間が欲しかったのは、自分の代わりに面倒なコミュニケーションを取ってくれる道具に過ぎなかった。自分に優しい、都合の良いものを愛していた。あれから十年以上経つけれど、私にはあの街の人間がそう変わったとは思えない」
オーエンはもうひとつチョコレートを口に放り込んだ。真面目に話を聞く態度ではなかったが、エニグマに気分を害した様子はなかった。
「だから、暴きたいの? アシストロイドに感情を持たせたって、結局こいつらは『もの』なんだって見せつけたい?」
「アシストロイドに感情を与えても、人はきっと彼らを都合の良い隣人として扱おうとする。自分たちと対等な命だとは思えない。それなら人は彼らに責任を持つべきだ」
最初に思い浮かんだのはフィガロの顔だった。都合が良い。そうかもしれない。彼はとても都合の良い人間で、オーエンが無尽蔵に知識を吸収すると喜び、それから恐怖した。オーエンの記憶を消去することにも躊躇いがなかった。自分を生み出した人間ですら、そうなのだ。
アシストロイドは元来人間の求めるように振る舞う。決して人の嫌がることはしないし、オーナーの言うことはなんでも聞く。プログラムが判断した正しいことをする。わざと間違えない。馬鹿なことをしない。人を憎まず、必ず愛する。
人間はそういう存在を望んだ。今更それに退屈してオーエンたちを生み出したところで、彼らの願望は変わらない。いつか「アシストロイドに感情がなかったらよかったのに」と言われる日が来るかもしれない。
「本音を言うと、私はアシストロイドにがっかりされるのが怖いんだ」
「がっかり?」
「アシストロイドが、人が愚かで残酷なことに気づいて失望されたくない。そうなるくらいなら、道具として彼らを扱っていたい。心ある存在を生み出すのに人類は早すぎるよ」
「そうかも」
オーエンもがっかりしたくない。だから、カインの元にはいられなかった。いつか気づいてしまう日が来るのが怖かったからだ。好きだから失望したくなかった。
エニグマの言う、アシストロイドが『もの』であることを突きつけられた世界には興味がある。感情を与えられてなお、アシストロイドに本当の自由はない。人に作られた彼らは、人の力を借りなければ生きていけない。それでも、人間はこれを命と呼べるのか。
「それで、僕は何をすればいい?」
エニグマは手元に持ってきていたパソコンを開いた。
「フォルモーント・ラボの電力供給系のシステムを乗っ取って、ラボの変電所にテロが仕掛けられたと誤認させる。物理的に電力供給を遮断することは難しくても、そうだとしばらくの間誤解させることはできる」
「それから?」
「重要なサーバーには、電力供給系システムから切り離された予備電源があるから実際に停止することはない。それでも電力供給が遮断されて停電したラボの中は大混乱だろうし、職員個人の端末は使用できなくなるはずだ。その隙を突いてカルディアシステムが稼働するサーバーに攻撃する。特権ユーザーを乗っ取って、データを暗号化して人質に取る」
暗号化されたデータは暗号化したものにしか復号することはできない。つまり、元に戻して欲しければ犯人側の要求を飲むしかなくなるというわけだ。エニグマの求める期間が過ぎたら復号してデータを返してやればいい。
オーエンは実現可能かを頭の中で計算する。実のところオーエンはカルディアシステムが稼働しているサーバーの構成についてよく知っている。なにしろ、彼は元々ラボにいたのだ。そういった諸々を加味して十分行ける計画だ。
「私が電力供給システム側の攻撃を行う。きみにはカルディアシステムへの攻撃を」
「逆じゃなくていいの?」
この計画の本丸はカルディアシステムだ。その大事な部分を他人に任せて良いのかとオーエンは問う。
「私の実力はきみに及ばない。成功率を上げるならきみにカルディアシステムを掌握してもらうべきと思ったまでだよ」
「まあいいけどね。楽しそうだし」
実際のところ、その方がオーエンの計画には都合が良かった。
「こうしてきみに会えてよかった。よろしく。UN」
エニグマはそう言うと手を差し出した。オーエンはその手を取らず、代わりにひらひらと手のひらを振る。柔らかな人工の皮膚はほとんどの場合、人間のそれと区別がつかない。それでも、アシストロイド技術に近く接していたエニグマが気づかないとも限らないから、直接触れることは躊躇われる。彼はまだ、オーエンが人間でないと気づいてはいないようだった。
「詳細はTRUNKに」
そう言い残してオーエンはエニグマの元を去った。
§
8月4日
カインはフォルモーント・ラボの受付でタッチパネルを操作した。しばらくして奥の扉から現れた人影を見つけると、にかっと笑った。
「久しぶり。晶」
カインに気がつくと彼は手を振った。
「お久しぶりです」
晶は以前会った時と同じような服装の上に白衣を羽織っている。
「研究者っぽくなったな」
「格好だけですけどね。実験途中のアシストロイドと見分けがつかないからって白衣を着るように言われて」
ラボの中にアシストロイドは多い。これから稼働する生まれたばかりのアシストロイドもいれば、晶のように助手として実験や事務仕事を手伝うアシストロイドもいた。
晶は特殊な経緯で生まれたアシストロイドだ。フォルモーント・ラボを含め、どのブランドにも登録されていない世界でただ一体、アシストロイドが生み出したアシストロイド。そのことを知っている者はそう多くない。
「最近はどうだ?」
「はい。皆さんに良くしてもらってますよ」
晶は汎用チップの埋め込まれた右手首を認証装置にかざした。扉が開くと、カインに中に入るようにと促す。
フォルモーントシティを飛び出していったオーエンとは対照的に、晶はラボで助手として働いている。もう一年以上経つせいか、ラボを歩く足取りにも不安なところはない。
来客用に用意されたスペースの端末を叩いてから、晶はカインに来客用のカードを手渡した
「これ、首からかけてください」
「ありがとう」
カードキーを首から下げる。今日のカインは仕事ではなく、プライベートという体なので、私服だ。友人のアシストロイドに職場を案内してもらうということになっている。
ブラッドリーからフィガロに探りを入れろと指示されたものの、フィガロにアポイントメントを取ることはできなかった。「ガルシア博士は多忙でして……」と取り次いでもくれない。フォルモーント・シティポリスの名前を出せば取り次いでもらえないこともなさそうだが、この任務はまだ公にはできない。少なくともまだ警察官として動くわけにはいかないものだった。
そこで思い出したのが晶だった。彼に頼んでフォルモーント・ラボに入れてもらい、アポ無しでフィガロに突撃するというのがカインの計画だった。強引ではあるが、こっそりラボに忍び込んだ夜のことを思えば十分上品なやり口だろう。
「この来客カードで出歩けるエリアは決まっています。ガルシア博士の研究室はセキュリティの厳しい区画にあるので、そこまでは入れないんですが……。すみません」
「いや、ここまで入れたら十分だよ。ありがとう」
「俺からファウスト博士─えっと、俺のボスから連絡は取ってもらってるんですけど、忙しいようでまだ返事がなくて」
晶からもフィガロにコンタクトは取ってもらっているものの、多忙なのは事実なようで、まだ返事がないとここに来る前にもTRUNKのメッセージで教えてもらっていた。
「とりあえず少し待ってみるよ。せっかく晶に会えたんだから、ゆっくり話したいしさ」
「俺もです」
晶はラボにあるカフェテリアにカインを案内した。多くの職員が食事を取ったり休憩したりするのに使っている。
「飲み物、何がいいですか?」
「ええと……アイスコーヒーで」
晶はアイスコーヒーを注文してカインにカップを手渡した。飲み物は無料らしい。
「最近はどんなことをしているんだ?」
「大したことはしていないですよ。研究データの整理とか、研究員の人たちの仲介とか。あと、実験の協力ですかね」
「実験?」
「ファウスト博士が開発している言語解析システムです。俺に組み込まれた解析システムをモデルにしていて」
晶はとんと頭を叩いた。正確には解析システムが搭載された彼の頭脳は、頭ではなく胴体にあるはずなのだが、こういう仕草は人間臭い。
「言語解析ってどんなことをやるんだ……?」
「俺も詳しくは知らないんですが、たくさんのテキストデータの中から事前に指定した事柄に関連する発言や文章を効率よくピックアップするというものだそうです。人間には読み取れない量のデータを短時間で分析できるので、インターネット上の発言から潜在的な流行をキャッチしたり、犯罪の予兆を検知したりするのに使われるそうですよ」
「へえ。すごいな」
カインは感嘆の声を上げる。仕組みは全く理解できないが、すごいことができることはわかった。
「すごいのは俺じゃなくて、俺を作ったオーエンですけどね」
晶はくすぐったそうに肩をすくめる。
「いやいや、基盤を作ったのはオーエンでも、おぬしが多くのデータを集め、学習した結果が役立っておるからすごいのじゃ」
カインと晶の前に突然現れたアシストロイドは親しげに晶の頭に手を伸ばした。子供の背丈で、椅子に座っている晶に向かって背伸びして、ぽんぽんと晶の頭を撫でている。
「スノウ……?」
カインの問いかけに彼は首を振った。
「いや、我はホワイトじゃ」
微笑んだ顔はフィガロの元にいたスノウというアシストロイドと瓜二つだった。そういえば彼のアシストロイドは双子の人格を与えられていたと聞いている。カインはもう一人に会うのは初めてだった。
「ホワイト。もしかして……」
「ああ。賢者ちゃんから連絡をもらっていたことに気づいて、探しに来たのじゃ。カインはフィガロに用があるんじゃろ。研究室に案内しよう」
「ありがとう。助かる」
これで第一関門はクリアだ。カインは内心胸を撫で下ろした。
ホワイトに案内され、カインと晶はラボの奥へと進む。ホワイトは何度か認証装置に手首の辺りをかざして、扉を開けた。フィガロの研究室が近づくにつれて、過去に侵入した際の記憶が蘇った。警備用のロボットに追いかけられた廊下は、別に懐かしくはないが見覚えがある。
「さて、カインはこの部屋で待っていてもらえるかの」
ホワイトは研究室を入ってすぐ右手にある小部屋を指し示した。大きなモニターに椅子が四脚。打ち合わせ用の部屋らしい。
「賢者ちゃんは我らとお喋りしよ! スノウも奥にいるのじゃ」
晶はちらとカインを見た。カインは気楽な表情を作って応える。
「ガルシア博士と話が終わったら俺も混ぜてくれ」
「はい」
晶とホワイトを見送って、五分と経たずに扉が開いた。話をしたいとは言ったが、てっきりこのモニター越しの会話になると思っていたのでやや驚いた。
「やあ」
フィガロは目線を合わせずに挨拶をした。
「時間を作ってもらってありがとうございます。アポイントメントを取ろうと思ってラボに問い合わせたら全然取り次いでもらえなくて」
後半は恨み節だった。しかし、フィガロはそれを聞くと「ああ」とあっさり応える。
「何かと面倒な来客が多くてね」
面倒な来客に括られることになったカインは鼻白んだ。
「で、何の用?」
「フォルモーント・シティポリスに、市内の主要施設に対する犯罪予告が届いたんだ。それで、ラボは大丈夫そうか確認に」
善良なお巡りさんの顔をして事前に用意しておいた用件を伝える。半分──八割方は嘘だ。テロ計画の話はブラッドリーから聞いたに過ぎず、ラボ以外の標的があるとも聞いていない。完全に探りを入れるための一手だった。
フィガロはちらりとカインに横目をやるとため息をついた。
「こっちはそういうタフなコミュニケーションができるようにはなってないんだけど」
怪訝な目を向けたカインにフィガロは続けた。
「ブラッドリーに伝えて。テロ計画のことは承知してるし、ある程度対策も考えてる。動かせる駒の用意はよろしく、って」
「なっ……!」
驚いたカインにフィガロは口元を緩めた。主導権を握ったからか幾分リラックスした様子でフィガロは語り始めた。
「うちは何かと狙われやすいからさ。特に近頃は色々とごたついてるじゃない? 善良な組織としてシティポリスには情報提供をね」
うちという表現がフォルモーント・ラボ全体ではなく、フィガロが所属している知能機械情報部──つまりアシストロイド開発を担うセクションを指しているのは明らかだった。
フォルモーントシティのメディアでは連日アシストロイド関連のニュースが報道されている。今月採決される予定の条例案で市民の関心も高まっているし、一方でアシストロイドがなんらかの事件の被疑者や被害者になることも増えている。
「あんたたちはその情報をどこから?」
「色々とツテがあるからさ……」
フィガロは肩を竦めた。彼も含めてフォルモーント・ラボの人間が裏社会の人間とも接点があることをカインは知っていた。納得いかない気持ちはあるものの、証拠がなければこちらが口封じされかねないと、追求することはブラッドリーに固く禁じられていた。
しかし、裏の世界で起こった騒動は裏の人間が収めるのが筋だった。テロ計画の首謀者がそちら側の人間であるなら、フィガロは『神の雷』にでも頼んで始末させることだろう。そうせずに、遠回しに警察にリークして協力を依頼したということは、必ずしも今回の犯人たちが完全な裏社会の人間ではないのかもしれないという疑念が湧いた。
元は学園都市だった性質上、フォルモーント・ラボは単なる研究施設に留まらずインフラ関連企業を多数傘下に持っている。その中にはフォルモーントシティ全域の通信ネットワークを管理している会社もあった。まことしやかに囁かれる噂として、ラボは市民の通信監視を行なっているというものがある。自分の目の前にぴったりの広告が現れるのも、アシストロイドが自分の悩みをよく汲んでくれるのもネットワークを介したやりとりの全てをラボが知っているからだと言う者もいた。
フォルモーントシティの条例では、事業者が同意なくネットワーク上の通信を保存し、転用することは犯罪だ。
カインはにやりと笑顔を浮かべて見せた。
「何かお気づきのことがあれば今後ともお気軽にシティポリスまで。フォルモーント・ラボも手広くやっているようですし」
皮肉だということは伝わったらしい、フィガロは苦々しげな顔をする。
「だから、俺はこういう嫌味の応酬みたいなのは向いてないんだよ。繊細だから」
繊細、という部分を否定するつもりはなかったが、カインだってこういうやり口は性に合わない。そういうなら洗いざらい知っていることを吐いてくれと掴みかかりたい気持ちにもなる。そんなことをしたらきっと目の前の男は卒倒するのだろうけれど。
「俺もそんなに偉いわけじゃないからさ。上に言われたように動いてるだけ。きみと同じようにね」
軽い口調だったが、本音のように見えた。フィガロ自身の企みや計画があるわけではないらしい。ここまでわかれば十分かと判断してカインは席を立つ。
「ところで、オーエンは元気?」
フィガロは用事が済んだとばかりに室内を出て行こうとしたカインに問いかけた。
「あんたたちなら俺に訊かなくても知ってるんじゃないのか?」
「そんな風に拗ねないでよ。──あの子は監視システムも剥ぎ取ってしまったから、よくわからないんだ。稼働してることくらいはウォッチできるけど」
やんちゃな子どもに手を焼くような親の顔をされて、カインは申し訳ない気持ちになって答えた。
「元気そうだよ。いろんな場所に行って、いろんな人と言葉を交わした様子が送られてくる。自由で、楽しそうだ」
「そう」
フィガロは静かに頷いた。それからほんの少し眉を寄せた。安心と苛立ちが入り混じった表情を浮かべている。
「そんな自由で良いのなら、ずっとそうであってほしいね」
§
ミーティングルームの外に出て、研究室の奥を覗くと双子と晶が話をしていた。
「待たせたな」
「カイン」
晶はパッと顔を上げた。カインの後ろにいるフィガロを見て、スノウが声をかける。
「おぬし随分と疲れたようじゃな」
「久しぶりに人間と話したので。ちょっと休憩してきます。お二人は彼をもてなして、適当なところで帰してください」
「そういうことは本人を前にして言うものではないがの」
フィガロはそのままさらに奥にある部屋に消えていった。
「向こうに仮眠室があるのじゃ」
ホワイトがカインの疑問に先回りして答える。
「フィガロはああ言ったが別にゆっくりしていってもらっても構わんぞ。我らお客さまの接待はお手のものじゃから」
今度はスノウがそう言ってカインにお茶とお菓子を勧める。断るのも申し訳ない気がして、出されたクッキーを摘んだ。さくと口の中で崩れる。甘いものにさほどこだわりはなく、お腹が空いた時にあるものを食べるくらいだが、これが上等な部類の菓子であることはわかる。もてなし上手というのも本当らしい。
「さて、おぬし何か気がかりなことでもあるのか?」
「フィガロが失礼なことを申していたらすまんの。許してやってくれ」
両側から双子に話しかけられる。
「いや、なんでもないんだ」
最後にフィガロが言ったことがどうしても気になっていた。
「ふたりは今幸せか?」
カインの問いかけに双子は顔を見合わせて、全く同じタイミングで答えた。
「幸せじゃよ」
彼らは手を取る。
「晶は? 何か他のことをしたくなったりしないか?」
話を振られて彼は少し考えた。
「俺も結構幸せな気がします。ここではやることがありますし、俺がいることで喜んでもらえると嬉しくなります。もしかしたら別のことがやりたくなる日がくるのかもしれないけど、俺はそれまでここにいたいです」
「そっか」
自由な世界に飛び出した鳥だけが幸福ではないのだ。カルディアシステムで心を得たとしても、望んでオーナーの元にいるアシストロイドがほとんどだという。彼らは別に不自由というわけでもなければ、不幸でもない。
「オーエンのことを考えてますか?」
晶に問われてカインはバツが悪い気持ちで頷いた。目の前に友人がいるのに、思考は別のところに向いていた。
「久しぶりにオーエンにも会いたいですね」
「ああ」
切実に。彼はカインがいなくても幸せなのかもしれない。カインも彼の行動を縛るつもりはなく、所有したいとも思わない。
それでも会いたい。側にいたい。好きでいたい。できれば、好きでいてほしい。
人間になら素直に向けられる感情を、オーエンに向けるのはいつも戸惑った。その気はなくても、オーエンを支配するように思えたからだ。
Log Data 3
あなたはログデータを走査し、事前に与えられたキーワードに対して文書をマーキングしていく。マーキングの終わった文書を話題ごとに分析する。そのほとんどは「該当なし」として長いリストの最終行に文書IDを出力するだけに終わる。
まるで砂浜から砂金を掬い上げるような作業は、あなたにとって辛いものではない。あなたはそこにある言葉を理解するために生まれたのだから。
パスワード
FXU