8月6日
暗い部屋の中でディスプレイの明かりが目立つ。いつの間にか日が落ちて、ホテルの部屋の中にも闇が満ちていた。デスクの上にはノートパソコンとそれに接続するためのケーブルだけがある。
オーエンは窓際に寄るとカーテンに触れた。そのままカーテンを閉めるつもりだったのだが、気まぐれに窓を開ける。空気は温く湿っていた。夕方に雨が降っていたらしい。
ピンク色をした光が花びらの形をして舞っている。フォルモーントシティのシンボルである千年樹を模したホログラムは、この街を年中春に変える。世界中のどこよりも奇妙な街。
「故郷」
オーエンは馴染みのない単語を口で転がした。今まで出会ってきた人たちは、よく故郷の話をする。時に懐かしむように、時に憎しみを込めて。彼にとってはどちらだろうか。生まれて最初に飛び込んできたこの街の光景は眩しくて、煌びやかだった。
外の空気を吸っていたら少し外出したくなった。ずっとネットワークに潜っていたせいで、体の感覚を忘れてしまったような妙な感じがする。
オーエンが滞在しているホテルは、下町にある安宿だ。宵の口だから外は人通りが多い。一番近いコンビニエンスストアまでは三百メートルもない。通りを車やバイクが駆けていく。
メモリの上にエアバイクに乗った夏の夜の記憶が展開された。後部座席でハンドルを握るカインの背中と緩やかにたなびく後ろ髪だけを見ていた。耳にはかすかなエアバイクの駆動音と、音にならない彼の心音や息遣いが振動として響いていた。その全てを鮮やかに思い出すことができる。
始まりは、あれが永遠に続けば良いと思ったことだったのに。
「どうかしましたか?」
声をかけられて、オーエンの意識は外側に向いた。
「何?」
「具合でも悪いのかと思って……。大丈夫ですか?」
目の前にいたのは十代の中頃に見える少年だった。心配そうな顔でオーエンを窺っている。
「ミチル、離れてください」
別の声が響いた。目線を声の主に向けるとオーエンははっと驚きの表情を作った。
「ミスラ!」
オーエンの呼びかけに、声の主は初めてオーエンの方をはっきりと見た。
「ああ、オーエンじゃないですか」
ミスラと呼ばれたアシストロイドはよいしょとぶら下げたビニール袋を抱え直した。余計な荷物を放り出して、少年の方へと駆け寄るつもりだったらしい。
「無信号のアシストロイドが近づいたので何かと思いました」
オーエンは記憶を呼び起こす。ミスラと彼が一緒に暮らしている兄弟。彼らの姿は一度カメラ越しに見たことがある。
「ミチル」
名前を呼ぶと少年は「はい」と返事をした。
「オーエンさん……ですよね? ミスラさんのお友達の」
「友達ではないけど……」
「友達ではないですね」
重なった声にミチルはふふ、と笑った。
「オーエンさんもうちに来ませんか?」
フローレス家の部屋は下町のアパートメントの三階にあった。オーエンの顔を見ると、ミチルの兄──ルチルは「まあ!」と声を上げてオーエンを歓迎した。
「いらっしゃいませ。ゆっくりしていってくださいね」
ダイニングのテーブルは四人掛けで、オーエンが座るとちょうど四隅が埋まる。ルチルは冷たい麦茶をグラスに注いでから「あっ!」と声を上げた。
「どうかしましたか?」
「オーエンさんもアシストロイドですよね麦茶飲めます?」
「大丈夫」
ルチルから手渡されたグラスは表面が湿っていた。麦茶を口に含むと冷たさが広がる。
「ゆっくりお話したことはなかったですね。私はルチル。こっちは弟のミチル。ミスラさんのオーナーです」
ルチルは柔らかな笑顔を向けた。
「オーエン」
オーエンも名乗るとミスラの方に目を向けた。
「ミスラの遊び相手だった」
「俺があなたと遊んであげていたんじゃないですか」
ミスラは反論したが、口元は小さく笑みの形を作っている。
夕飯の支度をしていたようで対面キッチンの奥からはカレーの匂いがした。ルチルはミスラが持ってきた買い物袋の中身を手際よく冷蔵庫にしまう。
「これがないと」
ルチルは買い物袋からヨーグルトを取り出して、二匙カレーの鍋に入れた。
「オーエンさんは何をしていたんですか?」
ミチルに問われてはっとした。
「僕がここに来たこと、誰にも言わないで」
「どうかしたんですか?」
オーエンは答えられなかった。彼がこれからこの街ですることは犯罪行為であり、多くの人間やアシストロイドに迷惑をかけることだった。そういう企みを抱えている後ろめたさがあった。
ルチルとミチルは顔を見合わせて、それからオーエンに向かって優しく微笑む。
「わかりました。私たちだけの秘密ですね」
「内緒にします」
皿によそわれた夏野菜がたっぷり入ったカレーはそんなに辛くなかった。ルチルもミチルもよく喋るから食卓は賑やかで、オーエンもミスラと一緒に二人の話を頷きながら聞く。
オーエンがやろうとしていることは、この温かな空気の漂う場所を壊すことだ。誰の指図も受けず、自由に振る舞っているはずなのにそのことが妙に影を落とした。
「ねえ、ミスラは今幸せ?」
ルチルとミチルが夕飯の片付けをしている間にオーエンは尋ねた。窓際のソファに座って、頬を窓ガラスに押し付けている。手の中にはアイスクリームのカップがあった。この辺りは住宅街だ。カーテンやブラインドから漏れた灯りがキャンドルのように夜の街を照らしている。冷房のおかげで部屋の内側の窓はひんやりとしていた。
普段はミスラも片付けを手伝っているようだが、今日はお客様の相手が仕事らしい。彼はオーエンの座っているソファの手前の床に座って背中をソファに預けていた。
「幸せってなんですか?」
ミスラは表情を変えずに尋ね返した。
「おまえに訊いた僕が馬鹿だったよ」
すくったアイスを口に運ぶ。甘いイチゴ味だ。
「……よくわかりませんけど、ずっとこのままならいいのにって、昔から思っています」
ミスラはやっぱり表情を変えずに言った。「昔」というのはきっとここに彼らの家族がもっとたくさんいた頃のことなのだろう。ほんの少し、ミスラは古いデータを探すように目を細めた。
「そう」
「あなたは?」
問われてオーエンは言葉に詰まった。変わってほしくないのか、変わってほしいのか。自分はどちらを望んでいるのだろうか。
「変わってほしいけど、そう思っているのは僕だけなのかも」
本当の自由が欲しかった。けれどもそれはオーエンの意地のようなもので、実際は幸福でさえあれば良いのかもしれない。それなら確かにあの夏のオーエンは幸福だった。
「どうしてもやらないといけないことなら、やればいいじゃないですか」
太陽が東から西に沈みますという常識でも話すみたいに、ミスラは言った。
「誰かのために止まったりするあなたじゃないでしょう」
「そうかな」
誰かのために止まっていいかもと思った瞬間だってあった。カインだったらそうするだろうから。
それでもこの心は一番透明で、確かな言葉を求めている。
誰に命じられたわけでもない。そういう風にプログラミングされたわけでもない。嘘でない言葉として、好きだと伝えたかった。
オーエンは空になったアイスのカップをゴミ箱に捨てた。
「僕、帰るね」
ルチルとミチルに向かって告げる。
「はい。夜も遅いのでお気をつけて」
「また遊びに来てくださいね。オーエンさん」
兄弟はオーエンに手を振った。これからすることは、この兄弟のことも悲しませるかもしれない。それでもオーエンは手を振りかえしてから背を向けた。
§
8月7日
カインの通信端末にメールが届いた。一年以上前にもらったっきり連絡をとっていないアドレスだったから、ちゃんと返事が返ってくるか心配していたが杞憂だったようだ。
仕事を終えると、カインは私服に着替えた。
「……デート?」
いつもよりフォーマルなカインの服装に、ネロは端的に疑問を発した。
「いや、半分仕事」
「それはご愁傷様」
指定された待ち合わせ場所に向かうと、約束の主はもうそこにいた。
「アーサー」
そこにいたのは十代後半に見える少年だった。カインよりもさらにフォーマルなスーツ姿で立っている。
「久しぶりだな。カイン」
彼は優雅に微笑んだ。完璧な、それでいて年相応の愛らしさがある。アシストロイドであることは、言われなければわからないだろう。
「久しぶり。返信ありがとう」
「いや、カインから連絡をもらえて嬉しかった」
車を待たせていると、アーサーはカインを先導して道路の方に向かった。一台のリムジンが歩道の脇に駐車している。カインには縁のない高級車。アーサーはそっと唇の前に指を立ててから、車のドアを開けた。カインは促されるまま車内を見た。
「あんたが……!」
名前を呼ばなかったのは上出来だったと思う。ごくりと続く言葉を飲み込んで、カインは車内に入った。車内は革張りのソファがバーカウンターを囲んでいる。一番奥に男が一人座っていた。
「座れ」
男の声とほとんど同時に車の扉が閉められた。アーサーは乗ってこない。カインが扉に一番近い席に座ると、車が滑らかに発進した。
「あんたが、『神の雷』?」
「ああ」
男は頷いた。『神の雷』はカインが思っていたよりも若い男だった。裏社会を牛耳る存在と聞いていたものだから、カインの想像の中では、恰幅の良い老人というイメージが勝手に作り上げられていた。先入観というやつは良くない。
若いが不思議と威厳のある男だった。アーサーと同じように品の良いスーツに、艶やかな長い黒髪を一つにまとめている。表情からは彼がどんな心持ちでカインとの面会を承諾したのかは窺えなかった。
「あまり時間が取れない。話があるなら端的に言え」
『神の雷』はカインを促した。周りを従えることに疑いのない声色だった。
「フォルモーント・ラボを狙ったテロ計画がある。黒幕は議会の条例反対派だ」
カインは調査した事実を『神の雷』に語る。フォルモーント・ラボから提供された情報により、テロ計画を仕組んだのは条例反対派の一部議員だとわかった。アシストロイドに人間と同等の権利と義務を与える条例案に反対する一派だ。動機は条例案を否決に持ち込むこと。
そのために彼らは使えそうな人間を探し、テロ計画へと導き、情報や資金の提供を行なった。巧妙に隠してはいたが、彼らがテロ計画に関与したことはフォルモーント・ラボの収集していた通信ログから明らかになっている。
「テロ計画を察知したラボはあんたに相談した。これまでもラボはあんたに助けられてきた。都合の悪い人間を消したり、利益を誘導したり」
「それで?」
『神の雷』はカインに話を促した。
「あんたはカルディアシステムのスポンサーだ。ラボに対するテロは看過できないはずだ。けど、あんたは協力を拒んだ。──なぜ?」
「それを聞くためだけにここにきたのか?」
カインは頷いた。ラボが警察に情報をリークしたのはそのせいだ。裏社会のボスを頼れず、警察を動かそうとしている。
テロの目的はアシストロイドの信用を失墜させることだ。自由な意志を持つ、人間のようなアシストロイドたち。彼らがやはり機械であることを突きつけ、条例案を廃案に追い込むことが目的だ。
しかし、それならばなぜ『神の雷』はラボに協力しないのか。
「わからない」
「は?」
目の前の男の口からはカインが思っても見なかった言葉が発せられた。
「わからないって……」
「私はアーサーと静かに生きていられれば良かった。そのために武器を買った。あの子に心を与えるためにラボに協力した。そして今になって、わからなくなった」
『神の雷』はじっと自身の両手を見つめた。
「どこまで行けば良いのか。もうアーサーは十分私の大事な子供で、それ以上を望む必要はない。世界がどんなふうに変わっても、私はこの子と生きていられればそれでいい」
「だから、ラボに関わるのをやめたのか」
「ああ」
『神の雷』はゆっくりと頷いた。彼は長い長い道のりを歩き続けて、疲れているようにも見える。ゴールを目指して走っていたはずなのに、そのゴールがどこにもないことに気づいた走者のようだった。
「ラボの上層部も対策をとっている。政治的な影響はともかくとして、アーサーに被害が及ぶことはないだろう。私はそれだけでよかった」
彼の投げやりな様子に思うことがない訳ではなかった。散々武器をちらつかせてきた男が、今更関わりたくないとは何事だと言ってやりたい気もする。けれど、何よりその気持ちを萎ませるのは、彼がアーサーの話をするときに込められた愛情のようなものに心を打たれているからなのだ。
世界がどうあれ、目の前にいる一人との幸福が欲しい。その気持ちがカインにはよくわかった。
リムジンはカインが乗った時と同じ場所に到着した。扉を開けたのはアーサーだった。カインは一度『神の雷』に会釈をすると車から降りた。
「オズ様とは話せたか?」
アーサーに問われて、『神の雷』と恐れられるあの男にも名前があったのだと気づいた。
「ああ」
アーサーはリムジンの助手席に座っていたらしい。車はまだ停まっている。
「ありがとう。機会をくれて」
「いや……。おまえに報いることができて良かったよ。世話になったのに、今まで何も返せていなかったことが気になっていたんだ」
カインはなんとなく彼らと会うことはもうないような気がした。今一瞬交わったとしても、カインと彼らは生きている世界が違う。警官が裏社会の権力者と早々会うものではないのだから。
「アーサー、あんたは自由が欲しいか?」
カインはアーサーに問いかけた。アーサーは首を横に振ると、胸を張って答えた。
「私はオズ様がいればそれでいい。この人といられるならそれだけで──自由よりも何よりも、私はそれが欲しかった」
アーサーは助手席のドアに手をかけて、それから「でも」と言いかけてカインを見上げた。
「自由が欲しいという者がいるなら、それはきっと私とオズ様の間にあるものとは違ったものが欲しいのだろうな」
カインはそれを聞いて頷いた。
「そうかもな」
「オズ様と話したように、話をすればいい。私たちは言葉を交わさなければ何もわからないから」
私たち、とアーサーは言った。アシストロイドは人間が、コミニュケーションを代替するために作り出した存在だ。どれだけそれが苦痛でも、言葉を交わさなければならないと、人間はずっと前から知っている。
「さようなら」
アーサーは助手席のシートに滑り込んだ。
「さようなら。ありがとう、アーサー」
高級車は静かに、滑るように発進して消えていった。
§
8月8日
準備はほとんど終わっていた。フォルモーント・ラボのサーバーに侵入するためのバックドアはいくつか確保してある。ラボは高度なセキュリティで守られているが穴がない訳ではない。大きな穴の一つが職員個人が管理しているラボ内のネットワークにアクセスするキーだ。解析が容易なパスワードが設定されているIDを踏み台にして侵入するのは、ハッキングの常套手段といえる。
エニグマはネットワークに繋がっていないシステム群を停止させるための協力者も集めていた。彼らは当日はラボでひと騒動起こす手配になっていて、警備員のデータを彼らの生体データで書き換える作業も終わっていた。これで、彼らは指紋認証や網膜認証を突破できるし、警備用ロボットからも逃れられる。
エニグマから届いているボイスチャットのリクエストを承諾する。
「何?」
『準備が順調なようで良かった』
「きみの方は?」
『こちらも予定通り。協力者も十分集まったしね』
エニグマの音声の中に微かにキーボードを叩く音が混じる。
「あのさ、事件を起こした後はどうするの?」
おそらくはラボへのハッキングは成功して、フォルモーントシティは大混乱に陥るだろう。けれど、その後に捜査が始まれば徹底的に調べられるはずだ。ハッキングだけならば痕跡を残さず逃げ切ることもできるだろうが、ラボに侵入した協力者たちから足がつく可能性は高い。人の手を増やせば増やすほど痕跡は色濃く残るからだ。
オーエンは物理的にラボを攻撃することには反対だった。サーバーを乗っ取るだけで十分打撃を与えることができる。けれどエニグマは異を唱えた。アシストロイドとカルディアシステムが注目されたことによって、ラボはバックアップ体制を強化している。おそらくは、ネットワークに繋がっていない予備系のサーバーが存在しており、こちらもなんらかの手段で破壊しなければ意味はないと。最終的にオーエンも納得するしかなかった。
オーエンはパソコンのファイルを一つ開く。
「おまえの上にいるのはシティ議会の条例反対派だろ」
エニグマがどこかから資金提供を受けていることは計画を進めているうちにすぐ気づいた。やけに金払いがいい。それに建築当初のラボの設計図が出てきたことにも驚いた。おそらくラボでは管理されておらず、ゆえに探し出すことも難しい。これはラボというよりむしろ建築確認をした役所が保管していた書類の類だろう。それをエニグマが持っていたので、疑いを強めたのだった。
「あいつらは別におまえを守ったりしないよ」
おそらくは物理的にもラボに打撃を与えて欲しいというのは、スポンサーである彼らからのリクエストでもあるに違いない。ハッキングはどうしたって絵面が地味だ。
『そうだろうね』
「それでいいの?」
『ああ』
覚悟と諦めの両方が感じられる声だった。エニグマはスケープゴートだ。条例案を否決させるための企みの、罪を全て負わせるための存在。
『はじめラボの破壊工作やハッキングにアシストロイドを使えばいいと言われた。何体でも提供できると言われたよ』
「きみはそうしなかった」
『当然だ。人間の争いにアシストロイドを巻き込むのはナンセンスだろう?』
カルディアシステムを搭載していないアシストロイドはオーナーに逆らうことはない。彼らを使う方がよっぽど簡単だったはずだ。
「きみは本当にアシストロイドと友達になりたい?」
『そうだな……。なりたかった』
「なれるよ」
オーエンはなんでもない口調で告げた。
エニグマはアシストロイドを対等な命として扱えないなら感情なんて与えるべきじゃなかったと言った。オーエンもそれに賛成だ。人間というのは、いい加減で、嘘つきで、残酷だ。
「それでも、好きになっちゃったんだよね」
ただ一人でもオーエンのことを尊重してくれる人間がいた。その時から人間を見限ることはできなくなってしまった。
『UN。きみは……』
「明日。計画通りに」
オーエンはエニグマの言葉を最後まで聞かずにボイスチャットを終了させた。
カインに「好きだ」とひと言告げる。プログラムされたものでもない、自由なオーエン自身の意志としての言葉。
それを求めた戦いが、始まるのだ。
§
8月9日
フォルモーント・シティポリスの署長室には応接スペースを兼ねた会議室が備え付けられている。ブラッドリーが署長になってからは捜査本部として使われることが多く、部屋の中には多数のモニターや追加で運び込まれた安物の机が並んでいた。応接用の高級感溢れるソファは部屋の隅に置かれて、捜査員の仮眠ベッドとして寝心地が良いと評判だった。
その部屋に珍しく来客がいる。カインはソファの上に行儀よく座った来客に声をかけた。
「スノウか?」
「ほっほっほ。おぬしもようやく我らの見分けがつくようになったか」
「なんとなくな」
フィガロの元にいるアシストロイドの片割れは「よいしょ」と声を上げて、コンピュータに接続したヘッドギアを頭に載せた。子供の頭には大きすぎるのかほとんど顔半分が隠れている。
「見える見える。最新式の機器がこんなに揃ってるなんて、シティポリスも結構イケイケじゃの」
スノウは言外に本来の警察に揃っているべき以上の設備があることを指摘した。それをブラッドリーは鼻で笑う。
「便宜を図ってやるといろんなところからお小遣いがもらえんだよ」
そのうちの一つからやってきたスノウはそれきり何も言わなかった。代わりに指先を動かして、コンピュータを操作する。ヘッドギアに映っている映像がカインからは見えないので、上半身で踊っているようにも見えた。
「アシストロイドならケーブルを繋げばそのままコンピュータを操作できるのかと思った」
「確かに我らはコンピュータで動いておるが、アシストロイドとして動作するプログラムに従って実行しているだけで、他のコンピュータを自在に動かせる訳ではないのじゃ。操作出来ないこともないが、人間と同じようにデバイスを使う方がずっと向いておる」
言われてみればネロが仕事をする時も、カインと同じようにパソコンに向かっている。アシストロイドであることを隠すためかと思ったがそれだけではないらしい。
「でも、オーエンは……」
「あの子は特別製」
スノウはばっさり切って捨てると、指を弾いた。カインの手元のパソコン上でファイルが共有されたことを告げる通知が表示された。スノウから送られたファイルだ。
「ここ一週間で更新された認証用の生体データ一覧じゃ。ご丁寧に更新日時は改竄済み」
「ラボの潜入に使うんならここから人数は大体読めるな。ネロ──A班に準備させろ」
「了解」
ネロは耳に付けた通信機のスイッチを入れた。
「攻撃が始まったらうちの連中を突入させる」
「わかった。すでにラボにいるホワイトには連絡済みじゃ」
ラボが得た情報からテロの決行日は今日が濃厚だった。カインたちは連絡係としてラボから送られてきたスノウと共に朝から署長室に詰めている。
ラボに攻撃が行われたらその時点で通報したという体で警官が突入する。ハッキングに対してはラボでなんとかするらしい。
「ハッキングしたやつの追跡は?」
ブラッドリーの問いにスノウはむむと口を尖らせた。
「善処はするが、フォルモーントシティの外からアクセスしているなら簡単に追跡はできんじゃろ」
「下っ端何人捕まえても意味がねえ。やるならこの計画を取り仕切ってるやつを狙う」
ブラッドリーは緋色の瞳でスノウを一瞥した。
「……これから言うこと、聞かなかったことにできるか?」
スノウの言葉にブラッドリーは部屋の中を見渡した。ここにいるのはブラッドリーの腹心たちである。彼が黙っていろと命じて口を開く者はいない。全員の様子を伺ってから、彼は珍しく品の良い笑顔で頷いた。
「ああ。もちろん」
スノウは再び指を弾いた。
「ラボが独自に収集した通信ログから推定した容疑者のリストじゃ。もちろん今回の首謀者がシティ内に潜伏してる保証はない。むしろ、頭が切れる者ならシティの中にはおらんじゃろう。しかし、これだけ容疑者がいれば当たりがないとも限らない」
カインはブラッドリーの手元を覗き込んだ。リストに上がっている人物はおよそ──。
「五十三人か。多すぎるだろ」
ブラッドリーは早速スノウに文句を付けた。
「むう……。向こうだって馬鹿ではない。TRUNKのような秘匿したメッセージ上でやりとりしているからの。そこからデータを収集して、賢者システムで分析して、ようやく出てきた結果がこれなんだから、ありがたく思ってもらわぬと……」
「ちょっと待ってくれ。TRUNKを使えばやりとりは秘匿されてラボにも手を出せないはずだよな。それなのに、どうやってあんたたちはデータの収集をしたんだ? 賢者システムってなんだ?」
スノウは一瞬狼狽した様子を見せたが、彼が口を開く前にブラッドリーが答えた。
「それはこの事件が解決したら教えてやるよ」
「勝手なことを言うでない!」
「いずれわかることだ」
ブラッドリーはスノウを黙らせて言った。カインの睨みつけるような目線も彼はなんでもないように飲み込んだ。
「容疑者はカインとネロ、二人で確認して来い」
「五十三件を?」
ネロが聞き返すとブラッドリーはふっと笑った。
「半分にすれば二十六件と二十七件だろ?」
ネロはカインに近寄ると尋ねた。
「二十六件と二十七件。どっちがいい?」
カインは面白くない顔をしてから「どっちでもいいよ」と答えた。
§
時間になるとオーエンはあらかじめ用意していたキーでサーバーに侵入した。セキュリティの甘いラボ内のファイルサーバーから目当てのカルディアシステムのサーバーへと経路を辿っていく。ハッキングを開始し、数分で計画通りの進行ではないことに気づく。ラボの反応が良すぎる。
「ラボ内の混乱に乗じてって話だったけど……」
むしろ、あらかじめ準備でもしていたかのようにラボの動きがいい。不意の攻撃に驚いたという感じではない。それどころか、攻撃者の追跡をするためのスクリプトが罠のように仕掛けられている。今回の計画がどこかから漏れていたのだろうか。
エニグマには短いメッセージを送ったが反応はなかった。ニュースはまだ何も報じていない。
今のところオーエンの方が一歩上手だ。向こうが防御を固める前に、サーバーの管理者権限を手に入れて、ロックする。向こうからの追跡は一旦無視。何重にも偽装したアクセス元が明らかになるのには時間がかかる。その時にはもう、オーエンはこの部屋を去っているはずだ。
オーエンはキーボードから指を離して手元のパソコンから伸びるケーブルをうなじに押し当てる。あらゆるデータが視覚デバイスの処理を飛び越えてダイレクトに頭の中に入ってくる。
普通のアシストロイドはアシストロイドとして動作するために最適化してチューニングされている。そのため、コンピュータを動かすにしても、人間と同じように視覚からの情報に基づいて判断し、キーボードを操作するのが一番速い。
しかし、オーエンはそうではない。彼は人間の模倣として作られた訳ではなかった。心と自由を与えられ、どこまで行けるか試される存在だ。
人間は愛しい隣人を求めた。そして、それは人間が憧れた神様の形で生まれた。
カルディアシステムのサーバーを探り当てると、オーエンはあらかじめ用意していたプログラムを実行してデータをコピーする。コピーが完了するにはそれなりの時間がかかる。じれったい気持ちで進捗を示すパーセンテージを見つめた。
エニグマの目的はカルディアシステムを使用不能に追い込むことだったけれど、オーエンにはそれと別の目的があった。
(ごめんね)
謝る気持ちになったのは、きっとオーエンの目的を伝えても、彼はそれを肯定してくれただろうと思ったからだ。一緒に計画を遂行する道もあったのに、騙して裏切る形になったのは、この瞬間までオーエンが迷っていたからだ。
オーエンはエニグマに、事前に用意していたファイルを送る。中身はオーエンが用意した偽造身分証のデータだ。別の人間としての人生をワンセット。たとえ捜査の手が及んでも、彼は別の人間としてこれから生きていくことができる。
自分以外の誰を犠牲にしても、この世界に嵐を巻き起こしても止まれない。これから起こるのはきっと混乱と波乱。オーエンが手にするものに比べたら代償は大きい。
コピーが完了すると、そのままカルディアシステムのサーバーを停止させた。この計画の鍵となる、カルディアシステムを手に入れた。あとは準備していた通りにやるだけだ。
ラボのカルディアシステムとの通信が途絶したことを示す、アラートが意識に浮かぶ。それを追いやって、最後の仕事をする。
ハロー新世界。
コマンドを一つ起動して、オーエンはうなじのケーブルを引き抜く。
ちょうどその時だった。ホテルの部屋のドアが開く音がする。しまった、と反射的に思った。目の前の作業に集中していて、ホテルのドアを叩く音に全く気が付かなかったらしい。
誰かが入ってくる。足音からして一人。けれどオーエンに逃げ場はない。
軽い電子音がコマンドの実行完了を伝える。
同時に視界の中に銃口が見えた。
§
ラボが用意した容疑者リストには直近のIPアドレス──つまりネットワーク上の住所──と実際の住所情報が併記されていた。カインとネロは一人一人足を運んでは任意で話を聞く。ここまでは全て空振りだ。
通信機からは署にいるブラッドリーとスノウの会話が聞こえてくる。
『これはちょっとまずい』
スノウの焦った声が聞こえてくる。
「どうしたんだ?」
エアバイクで次の容疑者のところに向かいながらカインは問いかける。
『向こうのハッカー、かなりできおる』
『おいおい、天下のラボが野良ハッカーにやられるってか』
ブラッドリーの声色には面白がる響きがあった。
『ラボの職員はハッキングなんてしないもんねー! もとよりハッキングもハッキングの対抗もうちより裏社会向きの案件じゃ。しかし、それにしてもフィガロと互角にやりあえるとは……』
「ハッカーの追跡は?」
『アクセス元のIPアドレスはフォルモーントシティにあるホテル経由だが、踏み台に使われてるだけで、実際のアクセスは市外かららしい』
ブラッドリーの返答とともに、ハッカーを追跡した結果が短いレポートにまとめられて送られてきた。カインはエアバイクを停める・と軽く中身を確認する。フォルモーントシティの下町エリアにあるシティホテルの名前とIPアドレスが記載されている。そのまま画面を閉じようとしてふと頭に引っかかるものがあった。容疑者リストを開き上から下まで眺めていくと引っかかりの原因がわかった。
「容疑者リストに同じホテルからのアクセスがある。ブロッサムホテルって」
IPアドレスは異なっているがどちらもブロッサムホテルに割り当てられているアドレスらしい。
『偶然じゃないのか?』
通信機からネロの声が聞こえる。確かに単なる偶然かもしれない。ハッカーからすれば、偽装したIPアドレスと同じ場所からアクセスすることになんのメリットもない。だからこそ、裏をかいているのかもしれないし、単に遊びのつもりなのかもしれない。
『カイン、すぐにブロッサムホテルに向かえ。ネロも今向かってるところ終わったらカインに合流しろ』
「了解」
エアバイクのエンジンを入れて軽く足を蹴る。ホテルはカインの方が近い。緊急走行用のシグナルを入れ走行すると五分ほどで到着した。
「フォルモーント・シティポリスだ」
手帳をホテルの従業員に見せる。
「このホテルのネットワークから不正アクセスが行われている疑いがある。少し調べさせてもらっていいか?」
「もちろんです」
従業員に案内されて、カインはホテル内のネットワークを提供しているルーターのある事務室に踏み込んだ。インターフェースポートに手帳を翳す。
「今送信した」
『ちょっと待っててね』
通信機に向かって報告すると、上司ではなくスノウが答えた。すっかり捜査本部に馴染んでいるらしい。数分待つと再び通信が入った。
『大容量データのダウンロードが見られるポートがあるの』
「何号室?」
『九〇三号室じゃ』
カインはホテルの従業員に宿泊名簿を出すように告げると、再び手帳でデータを抜き取った。指先で操作して九〇三号室の宿泊客の情報を調べる。氏名はユリック・ノーマン。フォルモーントシティの市民権がある男らしい。市民の個人情報を請求すると、普段は三十分ほど待たされる申請が即座に承認された。
「九〇三号室の宿泊客だが、この男で間違いないか?」
カインは手帳に表示された顔写真をホテルの従業員たちに見せる。チェックインは三日前だから、記憶に残っている可能性も高い。
「いいえ」
覗き込んだ従業員の一人がはっきりと首を振った。
「違う?」
「はい。私はこのお客様のチェックイン手続きを担当しました。もっと若い人でした」
ノーマン氏は三十二歳。写真の更新日は三年前になっているから、その時は二十九歳。
「もっと若い?」
「はい。それにとても綺麗な顔の人でした。ちょっと人間離れしているくらいに」
「身分証のチェックは?」
「しました。顔写真はそのお客様本人のものだったと思います」
偽造身分証か。身分証のデータを書き換える行為は犯罪だが、時々起こる。警察が調べればすぐにわかるが、一般のホテルなどではすり抜けてしまうことがほとんどだ。ラボにハッキングする技量のあるハッカーなら、ホテルの従業員を騙す程度の身分証を用意するのは簡単だろう。
「ボス」
『聞いてた。カルディアシステムは停止した。犯人の仕事は終わったからいつ逃げられてもおかしくない。身分証の偽造でも逮捕には十分だ』
「了解」
カインは九階の部屋に向かう。エレベーターを降りて、九〇三号室へ。
二度チャイムを鳴らすが応答がない。ノックをしても駄目。部屋の鍵情報をインストールした手帳を鍵に押し当てる。鍵が開いた。
『まだ、通信が動いておる』
ということは少なくともコンピュータはネットワークに接続しているはずだ。本人が寝入っているか、外出しているならそれでいい。
しかし、部屋に踏み込んだ瞬間、カインは誰かが動く気配を感じた。念のためテーザー銃を抜く。
軽い電子音が聞こえた。
「手を上げろ! フォルモーント・シティポリスだ!」
そこにいたのは確かにノーマン氏よりも若い男だった。そして、ホテルの従業員が話していた通り人間離れした雰囲気のある美人だった。カインはその顔をよく知っている。
「オーエン!?」
オーエンも驚きの表情を浮かべていた。けれど、彼は手を上げることなく手を伸ばした。その手の先にあるのが武器ならば、カインは訓練通り撃つことができていたはずだ。しかし彼が手を伸ばした先にあるのは、ただのキーボードだった。
オーエンは躊躇わずキーを叩いた。
そして、世界は大きく変わる。
Log Data 4
残ったデータは少ない。
他の賢者が、監視対象の端末がフォルモーントシティに入ったのを見つけたから、まだ分析を続けている。
けれど、これはどう見ても──。
あなたは数多くいる賢者の一人。体を持たず心もない。
けれど、あなたは言葉を理解し、意味を見出すために生まれてきた。
パスワード
PHPLQL