朝の先できみを待つ

 この世は不公平だ。だから、生き抜くためにはどんなことだってしなくちゃならない。
 その言葉をカインは自分に言い聞かせるように何度も噛み締めながら、深夜の船内を滑るように移動する。目的の船倉まであと少しだ。
 明かりがなくても自由に行き来できるくらいにカインはこの船をよく知っていた。なにしろ物心ついた頃からカインはこの船に乗っている。
 両親の記憶はない。おそらくどこかで略奪した際に、金目のものと一緒にこの船に連れてこられたのだろう。海賊というのはそういうものだ。今までこの船に乗り続けているのは、労働力として使えると見込まれたからだ。そうでなければどこかに売り飛ばされているか、海に突き落とされている。
 まだこの季節は夜になると肌寒い。裸足の足が冷たい床を蹴る。カインには計画があった。明朝、フォルモーントランドに寄港するこの船から逃げ出す。そのために──。
 船倉に忍び込むと、カインは目的の区画に向かった。この船に積み込まれたお宝の中でも特に価値のあるものがそこにある。こっそり持ち出した鍵を扉に差す。緊張に応えるようにドクンと強く鼓動が耳の奥で響いた。
 鍵のかかったその場所は狭く、暗かった。けれど、闇の中をここまでやって来たカインの目にはそこにいるものの形が見える。静かに忍び寄る。まずは口を塞ぐ。それから──。
 ズボンのポケットの中にあるものを一つ握りしめてから、カインは奥にある小さな寝台に近づいた。顔のある場所を布で押さえようとしたそのときだった。
「こんばんは」
 背後から声をかけられてカインはパッと背後を振り返る。そしてそこに人影を見てとると、自分が向かっていた先──寝台に目をやる。暗闇でなら人間のように見える形で毛布が丸められていた。
「おまえ……!」
 そこにいたのはカインと同じくらいの年の少年だった。細い体に対して大きすぎる服を着ている──というよりも被っているというほうが正しいだろう。
 天井に空気を取り込む窓がはめられていてそこからわずかに月明かりが差し込んでいる。その頼りない明かりの下であっても整った顔立ちであることがわかる。髪は白に近い銀、肌も月明かりと同じ色だが、唯一首には黒いあざのようなものが浮かんでいた。
「何か用?」
 少年は侵入者であるカインに向かって臆せずに声をかけた。向けられた瞳は、鮮血のように澄んだ赤。
「俺は……
 カインは答えに窮した。ポケットの中にあるものを戸惑いながら握る。
「用があるんじゃないの? ねえ」
 少年がカインに近づく。腕の届く距離。カインにとっても、彼にとっても。
「動くな。口も閉じろ」
 カインはポケットの中に隠していたナイフを突きつける。少年の方はさして驚いた顔もしなかった。
「どうせ欲しいものがあるんだろう?」
 カインは息を呑んだ。彼の言う通りだ。ずっとこの船でこき使われて来たカインには何一つ自分の自由になるものはない。この船からたとえ逃げ出せたところで一文無しだ。生き延びるには奪うしかない。それはこの船の海賊たちが常日頃口にしていることだった。奪うほうが生き延び、奪われる方は死ぬ。
 だから、カインはこの船で一番価値のある宝を奪うことにした。
「髪? それとも血? ああでも最近一番価値があるのはこれなんだっけ」
 少年は笑いながら左目の下瞼に触れた。
「目」
 この船に捕らえられているスクアーマをカインは見たことがなかった。しかし、スクアーマが高値で取引されることは知っている。たとえ体の一部分であったとしても、カインが目にしたことがないほどの金貨と交換できるだろう。
 スクアーマ自体を攫うのは難しい。暴れられたら困るし、どんな奴かは知らないが逃亡の足手纏いになる可能性のほうが高い。だからカインは、一番高値で売れる瞳を狙うことにした。瞳を抉ってそれを奪ってこの船から逃げ出す。
 しかし、いざこのスクアーマの少年を目にして、カインは完全に出鼻を挫かれた。なにしろ、カインにとってスクアーマは水の精霊の子供──知識として人間とそう変わらぬ姿形をしていることは知っていたが、自分と当たり前に言葉を交わせる存在だとは思っていなかったのだ。
「俺は……
「抉るなら抉ってみろよ」
 ナイフを突きつけているのはカインの方なのに、むしろ追い詰められているような気がした。しばらく無言の時間が続いた。
「悪い。深夜に邪魔したな」
 カインはナイフを収める。これから先どうなるかはわからないけれど、今の自分は目の前の少年を傷つけたくはなかった。
「待てよ」
 少年が不機嫌な声を上げる。
「なんだ?」
「おまえ、この船から逃げ出そうとしてるんだろ」
 「なんでわかった」と言おうとしたが、積み荷に手を出した船員がどうするかなんて予想の範疇だと思い直す。
「そうだけど」
「取引をしよう」
 スクアーマの少年はにやりと笑った。
「おまえに片目をやる。その代わり僕も一緒にこの船から連れ出して」
「なんでそんな……
「僕だってここから出たい」
 ごくりとカインは唾を飲み込む。カインからすれば願ってもない取引だ。何かの罠ではないかと疑わないでもなかったが、ここまで来たカインは賭けに乗るしかない。
「わかった」
「取引成立だ」
 少年は囁くように言って笑った。それから右手をカインに差し出す。
「オーエン」
「えっ?」
「名前だよ。僕の」
「ああ。俺はカインだ。よろしくな、オーエン」
 オーエンの右手を取る。短い握手の後でオーエンが尋ねた。
「それで、脱出の手筈は?」
「この船は明朝港に着く。その前にボートで脱出する」
 ボートが陸地に近づける限界で船から降りる。陸地が近過ぎれば容易に追跡されるし、日が昇れば眠っている船員たちが起き出して、脱出する隙自体がなくなる。かといって十分陸地に近づく前に脱出すれば、陸地にたどり着けずに海の藻屑となるだろう。
「わかった。じゃあ料金は前払いだ」
 オーエンは左目に指先を捩じ込んだ。顔を顰めて唇を噛んでいる。カインは思わず目を逸らした。自分がしようとしていたことの罪の意識が胸の奥を苛んだ。
「何ぼーっとしてるんだよ」
 オーエンは左手に丸い眼球を掴んでいる。左目があった場所からは血ではなく、涙のようなものが溢れている。
「交換だよ。おまえの価値のない目をもらってやる」
 目玉を掴んでいない方の右手がカインの左目に伸ばされる。思わず強く瞼を閉じたが、強引に指で目玉を掴まれる。燃えるような痛みと何かが千切れるような音が体の中からする。
「あああ……っ」
 必死に声を殺す。しばらくすると激しい痛みが幾分和らいだ。思い切って顔を上げると目の前のオーエンが意地悪そうにカインを見下ろしていた。その顔に嵌め込まれた二色の瞳。
 カインは慌てて自分の左目を瞼越しに触れた。引きちぎられたはずの眼球がそこにある。
「ちゃんと見えるでしょ?」
 オーエンに言われて、左目の視界が今まで通りであることに気づいた。まだ目の奥がじんじんと痛むが、動くのにも支障がない。
「あとは好きにして」
 オーエンは投げやりな態度でそう言った。おそらくこの左目にはオーエンの瞳が埋められているらしい。
「ありがとう」
 オーエンは無言だった。どれだけ取り繕ってもカインは彼の瞳を奪ったのだから、当然の対応かもしれない。カインにできることは彼を無事ここから脱出させることだけだ。
 船倉の外を窺う。
「ここから移動しよう」
 当初より想定外のことは多かったが、カインはあらかじめ用意していたルートで非常用のボートへと向かう。オーエンもカインの後ろをついてきた。
「ここでもう少し待とう」
 非常用のボートは船の側面に括り付けられている。夜の甲板に船員はいないが、マストの上には見張りがいる。基本的に海上を見張っているとはいえ、ボートまでは視界が開けているからすぐに見つかってしまう。だからカインが狙っているのは極々短い瞬間だった。
「オーエン、俺が合図したらボートまで走ってくれ」
 オーエンを先に行かせるのは、後から行くカインがボートを船から切り離す必要があるからだ
「わかった」
 オーエンが頷くのを見る。タイミングを図り、カインはここだというところでオーエンの肩を叩いた。
「行け!」
 オーエンが言われた通りにボートに向かって走る。カインもそれに続く。水面を太陽が金色に照らす。日の出だ。眩しく反射する光の線が、走る二人の姿を白く隠した。カインが狙っていたのはこのタイミングだった。オーエンがボートに飛び乗ったのを見て、カインはボートを括っていたロープをナイフで切りつけた。
「うわっ」
 オーエンがボートの縁にしがみつく。ロープが緩んでボートが大きく傾いた。
「悪い」
 ロープを切り付けるとカインも飛び乗った。残ったロープもナイフで引き裂くとボートは波を立てて海水に落下した。カインもオーエンも頭から海水を被ることになる。
「つめたっ」
 オーエンが不満げな顔をカインに向ける。
「しょうがないだろ」
 無事船から脱出することはできた。あとはこのままボートを漕いで、陸地を目指すだけだ。先ほどまで乗っていた船はすでに港に向かって走り去っている。カインはオールを手にする。
 オーエンは水平線を、太陽が登ってくる方角を見つめていた。
「どうした?」
 カインが尋ねると、オーエンは静かに彼の方を振り向いた。その顔は見たことのないものを目にした興奮が浮かんでいた。
「これが朝なんだね……
 オーエンは感極まっているようだった。朝なんて毎日やってくる。カインにとってはいつも見る景色だ。けれど、オーエンにとってはそうでないらしい。
「明日も、明後日も見られるよ」
 カインはそれだけ声をかけた。それ以上の言葉をうまく口の中で作れなかった。
「そうなんだ」
「雨が降らなければな」
「あめ……空から水が落ちてくるやつ?」
 カインはいよいよ呆然としてしまった。雨も知らず、どうやって生きてきたのだろう。急にオーエンのことが頼りなく見えた。それと同時に、あの船から出してやれたことに安堵もした。朝も雨も知らないまま生きていていいはずがない。
「そうだよ。今は降りそうにないけど、港町の天気は変わりやすいからすぐに雨の日が来る」
「そっか」
 オーエンは眩しそうに目を細める。彼が見つめる初めての世界を、自分の瞳が見ているのは不思議な気持ちだった。

 ボートは無事陸地に着いたが、大変だったのはそこからだった。スクアーマの子供が海賊船から逃げ出したというのはすでに公になっていた。海賊たちはオーエンに懸賞金を掛けて町中を探し回っているらしい。
「ここでさよならだ」
 オーエンはそう言った。
「おまえだって行くところがないんだろ?」
 その上どう考えても陸の世界に詳しいとは思えない。どこに逃げるべきか、誰を頼るべきかもわからないだろう。
「僕はなんとでもなるさ」
「俺だって」
「僕の目を奪おうとしたのに?」
 オーエンは揶揄うようにカインのこめかみを小突いた。
「それは……
「いいよ。おまえはほとぼりが冷めたらその目を売ればいい。しばらく食うのに困らないだろう。僕も当てがないわけじゃないんだ。知り合いがフォルモーント・ネービーにいる。気が進まないけど、最悪逃げ込むよ」
 だから──とオーエンは同じ言葉を繰り返した。ここでさよなら。
「オーエン」
 やっぱりこの瞳を返すよ。カインがそう言いかけると、オーエンはカインの唇を指で塞いだ。
「おまえは海賊なんだろ? 他人から奪って生き延びる。小汚い盗人だ」
 オーエンはわざとカインの心を傷つけるような物言いをした。
「いつかまた会うことがあったら、おまえの罪をなじってやる。だから、小汚く生き延びてみなよ」
 そう言ってオーエンはカインに背を向けた。
「バイバイ」

 結局、カインはオーエンからもらった瞳を売ることはなかった。幸運にも流れ着いた先でカインは今の仲間たちと出会い、なんとか生きている。相変わらず海賊という稼業に身をやつしていることに思うところはないでもないが、今の船長は奪っただけのものを与えようとする人で、カインはその信念に応えたかった。
 そしていつか──。この瞳をオーエンに返したい。あのとき船から逃げ出すことができたのも、そのあとを生き延びられたのも、オーエンの言葉が、そして借り物のこの瞳が後押ししてくれたからだ。

◆ ◆ ◆

「それで、情報は?」
「少しは労おうという気持ちがないのかのう……
 スノウは「はーっ」とため息を着いた。オーエンは一顧だにしない。
「赤髪隻眼の男じゃろ? そんな手配書誰も見ておらんようじゃ」
「ちっ、使えない」
「今なんて言った?」
 スノウが不満げに唇を尖らせる。それから苛々した調子のオーエンを見て、もう一度ため息をついた。
「おぬしが瞳をあげた人間……なんだっけ? もう死んでるんじゃない?」
「僕の瞳を奪ったんだよ。生きてくれてなきゃ困る」
 オーエンはふんと鼻を鳴らした。十年前にオーエンは人間の子供に片目を差し出した。スクアーマの価値ある瞳だ。これを使って生き延びてくれてなきゃ困る。なにしろオーエンは、再会したら散々なじってやると決めているのだ。
「しかし、おぬしの左目も見つからないしのう。死んでないなら案外そやつがまだ大事に持ってたりして」
 スクアーマの瞳は換金すれば相当の値打ちになるものだ。あの少年が生き延びるために使っていないなんてことはないだろう。 しかしスノウの言う通り、オーエンは自身の左目も探しているが、こちらも十年見つかっていない。考えられるのは、売り払った左目が闇市にも出回っていないか、カインが左目を持ったまま海の藻屑にでもなったか、もしくは左目を今も所持しているか。
「ありえない」
 オーエンは自分の妄想を打ち消した。海の藻屑になっているならあまりにも滑稽すぎるし、今も後生大事に左目を持ったまま生きているとしたら輪をかけて馬鹿馬鹿しい。
「また何か情報があればおぬしにも伝えよう」
 スノウはそう言うと身を翻した。オーエンの既知から、海賊の顔になる。

 オーエンはスノウと別れると、港の桟橋を街の方に向かって歩いていく。
 水面は光が揺蕩っている。いつか初めて見た時から何度も朝を迎えて、オーエンにとっては退屈なものとなった景色。それでもこの海と、毎日やってくる朝の先に、あの日別れたカインがいる。理屈ではなくオーエンはそう信じている。