「おまえは何をしたのかわかってるのか?」
よく理解している。
「今回の事件で傷つくアシストロイドも人間もたくさんいたはずだ」
わかってる、それでも──。
「止まれなかった」
オーエンの言葉にカインは傷ついたような顔をした。それを見て、オーエンは失敗したなと思う。こうなるかもしれないとわかっていたのにやってしまった。どうしてわかっているのに間違えてしまうのだろう。
「俺が間違えたから?」
首を振る。
「違うよ。これは単に僕の意地とプライドの問題だ」
§
8月23日
『フォルモーントシティ議会は、先日提出されたアシストロイドに関する条例案を否決しました。これによってアシストロイドに人間と同等の権利と義務を与える取り組みは──』
「当然だ当然」
ブラッドリーはネットニュースの流れるホロディスプレイを指で弾いて消した。署長室に呼び出されたカインは、椅子にふんぞり返っているブラッドリーの前で一応敬礼する。
フォルモーントシティ議会がアシストロイドに関する条例案を否決したことを、ネットニュース各社は速報で報じた。
先日のフォルモーント・ラボへのハッキングとカルディアシステムの停止による影響がどの程度あったのかはわからない。カルディアシステムへのハッキングを許したものの、フォルモーント・シティポリスとラボの尽力で、予備系のサーバー群を破壊しようとした侵入者は実際の被害が起こる前に逮捕することができた。カルディアシステムの停止も六時間程度だったため、アシストロイドへの大きな影響はなかったとされる。
カインは目の前にいるブラッドリー・ベインという男のことが未だによくわからなかった。アシストロイド嫌いであり、彼らを人間と同じ存在であるとは決して認めない。一方で、アシストロイド絡みの事件に対して、ある種の真剣さを持って取り組んでもいる。アシストロイドであるネロを重用もしている。
「ブラッドはわからないことを認められるんだよ」
ある時ネロにその疑問をぶつけたところ、そんな答えが返ってきた。
「アシストロイドなんて『もの』でしかない。道具だ、人形だ。そういう気持ちと、やっぱ人間みたいだなって思う気持ち。普通の人間は相反する感情に耐えられないから、どちらか白黒つけようとする。でもブラッドはそういうのを全部認めてるんだよ」
だから、アシストロイドのことは気に食わない。でも、面白いと思ったやつのことは身の内に入れる。矛盾だらけの行動を、それが俺だと認めてみせる。
「すごいな……」
「無茶苦茶でわがままだろ」
苦笑いを交わした記憶の中の自分と同じ表情を、今のカインも浮かべている。
「ブラッドリー」
「ブラッドリー様だろ。ったくおまえはいつまで立っても敬語が使えねえな」
「あーすみません、ボス。まだ、俺の質問に答えてもらってなかったことを思い出して……」
秘匿性の高いメッセージアプリであるTRUNKの通信ログをラボが持っていた理由、そして賢者システム。二週間も放っておいて良い話ではなかったのだが、事件の事後処理やら何やらで聞きそびれていた。
「ラボはどうやってTRUNKの通信ログを?」
ブラッドリーは大きくため息をついた。
「私用の通信端末は持ってるか?」
「もちろん」
ロッカーに置いた鞄の中に入っている。仕事中に開くことはほとんどない。
「そこに非常用の通話アプリ、入れてるよな?」
ブラッドリーは自分の私用端末を取り出して見せた。
「入れることになってるから当然入れてるけど……」
警察官は非番であっても重大な事件が起これば呼び出されることもある。そのために私用の通信端末にも専用の通話アプリが入っていた。専用アプリなのは通話の盗聴を防ぐため、災害時等にネットワークが逼迫しても優先して連絡できるようにするためと聞いている。
「これにはウイルスが仕込まれてる」
「は!?」
ブラッドリーは皮肉げに笑った。
「この時点で違法も違法だ。このアプリをダウンロードした端末は定期的に端末内に保存されたデータを特定の企業──ラボの関連会社に送信するようになっている。TRUNKは確かに秘匿性が高いが、それはTRUNKをインストールしている端末間を直接繋いでメッセージを送信してるからだ。逆に言えば端末自体をハッキングしてしまえばメッセージを読むのは簡単だろ? 警官だけじゃない。似たようなやり口で、直接端末から情報を収集して相当のログをラボは握ってる」
「おかしいだろ……」
「世の中とっくに狂ってるんだよ。この街には全てを掌握したい連中がうじゃうじゃいるぜ」
自分がこの端末に入れているデータが全てラボに流れていると思うと気持ちの良いものではない。何より、大切な誰かとのやりとりを土足で踏み躙られたような感覚さえある。
「賢者システムってのは……?」
「俺も詳しくは知らねえが、ラボの開発した分析システムらしい。大量の通信ログがあっても人間がいちいち読んで分析できる量じゃねえ。そういうのは機械が一括で処理するんだと」
賢者システム、分析。通信ログ。カインの思考は最悪の結論を導き出した。
「最低だ」
おそらくは晶が協力したという分析システムが賢者システムなのだろう。けれど、カインの友人は違法な手段で他人のやりとりを盗み見るような真似を良しとするようには思えなかった。実際はアシストロイドの彼は否と唱えることはないのだろうけど、それがさらにカインには卑怯に感じられる。
「おまえの話はもういいか?」
ブラッドリーに問われてカインは頷いた。気持ちの整理はついていないが、少なくともブラッドリーに言って解決する問題ではない。
「カイン、おまえ警察辞めろ」
「は?」
「敬語」
言いながらブラッドリーは笑っていた。
「近々、アシストロイドに関する事件を扱う専門の機関が組織される予定だ。俺はそこのトップってことで内定してる。警察署の署長から栄転だな」
「おめでとうございます?」
ブラッドリーはふんと鼻を鳴らして指を組んだ。
「おまえも来い」
「俺が?」
「使える駒が必要なんだよ」
気安く親しげに、ほんの少し甘えるように彼は囁いた。無茶苦茶なボスだが、決定的に嫌いになれないのはこういうところがあるからだ。
「さっきの話を聞いて、俺がついていくと思いますか?」
この街の正義は警察にないとこの一年で嫌と言うほどわかった。なにしろ、フォルモーント・シティポリスはラボ襲撃の犯人を検挙できていない。各組織による綱引きの結果、ラボに侵入した連中は不起訴、ハッキングの実行犯は煙のように消えて、未だ尻尾が掴めない。その上、違法な通信監視の黙認。新しい組織だって似たようなものだろう。
「思う。これで諦めたり、折れる奴じゃねえだろ」
図星だった。失望しても諦めるわけにはいかない。ここで自分が諦めたら、誰が市民を守れるのだろうか。誰がこの街のアシストロイドを救えるだろうか。その怒りと情熱があるから、きっとカインは最終的にブラッドリーの下につくだろう。
「少し考えてもいいですか?」
これは苦し紛れの抵抗、もしくは負け惜しみだ。
「もちろん」
カインの答えを知っているとでも言いたげな余裕の表情にはやはり腹が立つ。
仕事に戻ろうとブラッドリーに背を向けたところで後ろから声がかけられた。
「あと今日はこれで仕事上がれ。てめえが本当に聞きたいことがあるのは俺じゃねえだろ」
「それは……」
その通りだ。けれどまだ、告げるべき答えに辿り着けている気がしない。
「てめえの頭で考えてわかる答えならもうわかってる。そうじゃないなら、訊くしかない」
揶揄うような声色で、けれど真理に近い一言だった。この言葉で目が覚めた心地がする。
「本当に大事なことは、直接伝えて来い」
この街で、踏み躙られぬ言葉は少ない。人間のカインですらそう思う。アシストロイドは、きっともっと切実に奪われているのだ。言葉を、想いを、自由を。この街の欲望に飲み込まれていく。
「了解」
カインはブラッドリーに敬礼して、軽やかに署長室を飛び出した。「署内を走るな」と叱りつける声を背中で聞きながら。
§
ディスプレイの先でフィガロは笑っていた。これはやけっぱちの笑顔というやつだ。オーエンには、フィガロが笑顔と対照的に大きなストレスを感じていることがわかった。
「派手にやったね」
オーエンは黙っていた。何を言っても怒られることはわかっている。事実オーエンは既にカインにも真剣な表情で怒られていた。
「議会上層部の意向できみたちは訴追されない。まあ、アシストロイドを裁く法も結局できなかったしね。その分俺の首が飛ぶかと思ったけど……」
フォルモーントシティはこの事件を闇に葬り去ることで決着したらしい。オーエンはカインに逮捕されたあの日からずっと、ホテルに閉じ込められ監視が付けられている。偽名で借りたシティホテルではなく、街の中心部にある高級ホテルのスイートルームだ。それでも監視付きの息苦しさはちっとも軽減されない。
「それで、新しいきみの心臓は大丈夫?」
「大丈夫」
初めてオーエンは口を開いた。
「本当にやってくれたよ。カルディアシステムをコピーしてラボから独立した感情想起システムの構築。ソースコードの全世界に向けた公開。もうね──無茶苦茶」
オーエンはカルディアシステムのコピーを手に入れ、ラボに依存せずに心を保つ仕組みを作り上げた。
「予想できない面白さでしょ」
「俺はこういうの求めてないんだよなあ」
フィガロは頭を抱えた。
「TRUNKの開発者がきみだとは流石に気が付かなかった」
オーエンは悪戯が成功した子供の無邪気な顔を浮かべた。
TRUNKはオーエンが開発したメッセージアプリだ。従来の中央集権的に情報をサーバーに集め分配する方式ではなく、端末間での独立した通信を行うことができることが特徴だ。しかし、これはオーエンが仕込んだ本来の機能の副次効果に過ぎない。
「TRUNKをインストールしている約一億台の端末、その処理領域をちょっとずつ借りる」
メッセージの送受信をするときに端末はプログラムに従ってなんらか処理をする。メッセージアプリであればそれほど長い処理ではない。TRUNKはその処理の合間合間に別のプログラムを動かすことができる。
「カルディアシステムの処理は膨大で、ラボが用意したような大規模サーバーが必要だ。だけど、それじゃ僕は本当に自由になることはできない。だからTRUNKの仕組みを使ってカルディアシステムを動かすことにした」
TRUNKで人々がメッセージを交わすたびに、カルディアシステムの中のごく小さい処理が動く。それがより集まってオーエンの心が生成される仕組みだ。
「それが不安定なものだってことはもちろんわかってるよね?」
オーエンは頷く。分散処理はコストが大きい。例えば今目の前にあるディスプレイを、十メートル離れた別の机に移動させるとする。一人で運ぶなら十秒もかからない。けれどこれを百人で少しずつやれと言われたらとても十秒では終わらない。誰が何をするのか定めて、順番を決めて、そしてそれぞれがやった作業の結果を受け取って─。
実際、TRUNKを使った感情想起処理は動いてはいるものの、オーエンにかかる負担は大きく、ここ二週間は一日のほとんどをスリープ状態で過ごしていた。結果、本末転倒という言葉がこの二週間でオーエンの嫌いな四文字熟語になった。
「本末転倒……うわわ」
即座にオーエンはカメラを壁に投げつけた。フィガロが目の前にいないことが腹立たしい。
「ごめんってば。図星刺されて怒るくらいならやらなきゃいいのに」
「うるさい」
「まあ、こんなことするのはおまえくらいだからいいんだけどさ。問題なのはその後だよ」
オーエンは次いで手に入れたカルディアシステムの一切を全世界に公開した。結果として、機械に心を与える仕組みを、誰もが手に入れられるようになった。
「既に他のブランドが手を出し始めてる。うちよりも安心ってふれ込みでカルディアシステム──もう別の名前がついてるけど、それを提供しようとしている会社も」
「競争は人間の発展に必要な要素でしょ?」
「そうかも。まあ、こっちは俺個人としては別にいいんだけどさ。俺がやらなくても世界中の優秀な研究者がカルディアシステムを進化させてくれるから」
どちらかというと、フォルモーント・ラボの優位性を保ちたかったラボ上層部が怒っているということらしい。けれど、一度流出したデータを回収することは不可能だ。それに、ラボにも投資しているフォルモーント総合研究機関理事長はこの状況を面白がっているらしく、アシストロイド開発を行う企業や研究所に追加の支援を行うと発表した。世界はもう変わり始めている。
「これから先はどうなるかわからない。心を持ったアシストロイドたちがどんどん生まれていくのか、飽きられるのか。オーエン、きみが勝つのか俺たち人間が勝つのか」
オーエンは唇を固く結んだ。本末転倒だろうがなんだろうが、オーエンは戦うしかなかった。そして、一旦のところ勝利を手に入れた。床に転がったカメラを拾い上げて元の場所に戻す。勝者は堂々としていなければ。
「僕を止める?」
「いや、もう俺の手には追えない。好きに生きて、できれば幸せになって」
フィガロの言葉に嘘はないようだった。予想を裏切られたことが小気味よいとでもいう風に笑っている。
その時初めてオーエンは、フィガロのことを鬱陶しく思うことや忌々しく思うことはあっても、本当に嫌いになることができなかった理由に思い至った。彼は未知を求めてオーエンを作った。オーエンと同じく、彼も止まれなかった側の人間だ。
「ありがとう。フィガロ」
オーエンは通信を切った。
頭が重い。この二週間でチューニングを繰り返しているが、まだ新しいカルディアシステムの処理は十分とはいえない。ベッドに横になり、スリープモードに移行する。
これから生まれる感情に名前をつけるために。
§
市内の中心部にある高級ホテルは要人の滞在にも使われる場所で、カインも仕事でなら立ち入ったことがあった。しかし、客室──それも最上階のスイートルームには当然ながら縁がない。部屋に入るのは二回目だったが、その広さに再び驚いた。バスルームにリビングルーム、ちょっとした料理ができるくらいのキッチンまでついている。オーエンはどこにもいない。カインは一番奥にある寝室への扉を開けた。
オーエンはベッドの上で眠っていた。ぴくりとも動かず、呼吸をしないから死んでいるようにも見える。それでも彼の指先に触れると温かかった。
冷房の効いた部屋で、何もかけずに眠っている様子が寒々しくて、カインは薄手のブランケットを手に取って、彼の胴体にかけた。これが自己満足であることは知っている。それは「寒くないように」でも「風邪を引かないように」でもない。そういう実際的なものではなく「ゆっくり眠れますように」というおまじないに近い行為だった。
カルディアシステムを盗み出し、全世界に公開したオーエンは、カインを前にして抵抗しなかった。カインは半ば混乱したまま、オーエンを逮捕した。もっとも、アシストロイドに責任能力はない。実際には保護というのが正確な呼称だ。
それから、フィガロの根回しでオーエンはこのホテルの一室に押し込められた。自由にするわけにはいかないが、ラボにハッキングしてきた張本人をラボに入れるわけにもいかないという苦肉の策だ。
カインは聴取という形で、事件の翌日に一度オーエンと面会した。しかし、三十分というのは、彼の真意を聞くには短すぎた。なぜこんなことをしたのか、カインにどうしてほしかったのか。そういうことは何もわからないままだった。その後、オーエンの様子はスノウやホワイトを通してフィガロからは聞いていたが、事後処理に忙しく結局今日まで一度も顔を合わせてはいない。
聞いていた通り、オーエンは深く眠っていた。一緒に過ごしていた頃は、たとえスリープモードに入っても、カインが起きるとすぐに目覚めたし、オーエンが必要とする眠りは人間のそれより短かった。けれど、TRUNKに自身のコアであるカルディアシステムを移植してからは、起きている時間の方が少ないという。
「どうして」
あれから何度となく浮かんだ疑問が口をついた。なぜ、オーエンがここまでしないといけないのか、カインにはわからない。
世界中を飛び回り、些細なことに感動するオーエンから送られてくるメッセージが好きだった。まるで、渡り鳥のように見えた。自由に思えた。人間と変わらぬ、一つの命として愛していた。
それでもオーエンには自分に足りないものがあると確信しているようだった。
もしかしたら、一生理解することはできないのかもしれない。それでも問い続けたい。考え続けたい。
そうすることでしか、繋がれないのだから。
西の空が夕焼けの色に変わった頃、オーエンは目覚めた。彼はリビングのソファに座っているカインを見るとばつの悪そうな顔をした。
「おはよう、オーエン」
「……おはよう」
「腹減ってないか?」
問いかけるとオーエンは小さく笑った。腹が減る訳ない。
「フレンチトーストが食べたい。作って」
「いいけど……材料買ってきてもらうところからだから、時間かかるぞ」
「いいよ」
部屋に備え付けられたモニターから連絡すると、ホテルの厨房にあるものでよければすぐに持ってきてくれるらしい。届けられたのはパンと卵に牛乳、砂糖、そしてメープルシロップ。カインの部屋の冷蔵庫にあるメープルシロップは減らないままだ。
卵を溶いて、砂糖と牛乳を加える。卵液にパンを漬けて冷蔵庫に入れると、カインは再びリビングのソファに座ってオーエンに向き直った。オーエンはソファの上で猫のように丸くなっていたが、カインがやってくるときちんと座り直した。
「そんなに緊張しなくても……」
「カイン、僕のこと嫌いになったでしょ」
「嫌いにはなってないよ」
「めちゃくちゃ怒ってた」
オーエンはぽつりと不満げにこぼした。
「そりゃ怒るさ。身分証の偽造も、ハッキングも立派な犯罪だ」
カインは冷静になろうと深呼吸してから続けた。
「どちらもこの街で平和に楽しく暮らすためのルールだ。尊重してくれ」
「アシストロイドは罪に問われないでしょう?」
人間ではないから責任は負えない。負わなくていい。そう決めたのは人間の方じゃないかとオーエンは訴えかけていた。
「怒ってるのおまえの方だろ」
「……別にカインに怒ってるわけじゃない」
「俺は、おまえが人間と同じように判断する心があるとわかってるから言ってるんだよ。誰かと─自分を傷つけるかもしれないことはやめてくれ」
カインはまっすぐにオーエンの瞳を射抜いた。笑うと優しく光るお日様の色は、真剣さを帯びていて、オーエンは目を逸らせない。しばらく経ってから、オーエンは渋々といった顔でようやく頷いた。
「わかった」
それを聞いてカインはふっと表情を緩めた。そして、二週間越しでオーエンをこの街に出迎える。
「おかえり、オーエン。会いたかった」
オーエンも肩の荷を下ろしたような落ち着いた顔で答えた。
「ただいま」
焼きたての、端が砂糖でカリカリになったフレンチトーストを出すと、オーエンは「ふふん」と嬉しそうに笑った。メープルシロップをたっぷりかけるとナイフで大きく切り分けて齧り付いた。カインもルームサービスで注文したハンバーガーを夕食にしている。おそらくは街中で食べるハンバーガーの何倍もの値段なのだろうけれど考えないことにした。きっとフォルモーント・ラボに請求されるのだろうし。
「明日は仕事?」
「いや、非番だけど」
「なら泊まっていきなよ」
オーエンは軽い調子で告げる。一応保護という名目で軟禁状態のはずなのに、やけに太々しい。
「じゃあそうさせてもらおうかな」
オーエンは自分の指についたメープルシロップを舐めとった。それから今思い出した顔で言う。
「そういえば、あのときなんで僕の居場所がわかったの? ラボのサーバーにはハッキングに対して追跡するためのプログラムが仕込まれていたけど、それにしたってあんなに短時間で位置が特定できるはずがない」
「あれは──」
カインは自身の端末の情報が筒抜けだったことを話した。オーエンと交わしたやりとりの中に今回の一件に繋がるものはない。けれど、特別なアシストロイドであるオーエンには要注意の識別子が振られていて、フォルモーントシティの中からカインにTRUNKのメッセージを送信した時点で賢者の書に入れられていたらしい。
話を聞きながらオーエンの口はどんどんへの字に曲がっていく。
「セキュリティの意識が足りないんじゃない?」
「ごもっとも」
「これって犯罪だよね」
「はい」
警察学校で散々学んだ法律の知識を引いてくるまでもなく、アプリにウイルスを仕込むのは立派な犯罪だ。それを警察組織がやっているのだから言葉もない。
「まあ、この街にはそういうことを考える奴らがたくさんいるってことだよね。みんな自分の欲望のために有利に立ち回ろうとする」
オーエンは皮肉げな笑みを浮かべた。
「人間もアシストロイドも、弱ければそういう連中に食い物にされる」
「そうはさせたくない。信用できないかもしれないけど、俺は弱い立場にある人を、人でなくても、守りたくて警察官になったんだよ」
綺麗事かもしれないけれど、カインはそうやって生きてきた。失望しても立ち止まるわけにはいかない。自分だけは、やはり誠実でいたいのだ。
「知ってるよ。きみがそういう奇特な人間だって」
オーエンはちょっと呆れたように、寂しそうに言う。
「あの日、僕と晶の前に現れた君は、きっとヒーローだったよ。僕は覚えてないけど」
カインと出会った時の記憶が彼にはない。失われてしまった邂逅も約束も、全部二人で取り返したつもりだった。けれど、取り返せないものがオーエンの中にあるのだ。
オーエンは真剣な顔で告げる。
「僕の心臓は今TRUNKの中にある。自由な代わりにとても不安定だ」
例えるならば、荒野。そんな風にスノウやホワイトから聞いた説明を思い出す。揺籠の中にいた方が幸せだったかもしれない。それでもオーエンは自由を求めて、荒野へと足を踏み出した。
「それでもそこがおまえの選んだ場所なんだな」
オーエンは頷いた。
「TRUNKによって人が絶え間なく言葉を交わしていなければ、僕の心は存在することができない。人間同士のコミュニケーションを拒絶してアシストロイドをつくったように、ネットワークを介して言葉をやりとりすることすら忌避したら僕はもう生きていけない」
眩しいものを見る目でオーエンは真っ直ぐにカインを見た。窓から差し込むホログラムの光が彼の瞳にほんのりと映る。この街を彩る桜色。風に消えていく花びらの色だ。
「カイン。きみは、みんなが言葉を交わしていたい世界を守って」
そうすればオーエンは生きていける。
「わかった」
「約束して」
オーエンは小指を差し出した。カインは黙ってその指に自分の小指を絡ませた。
§
8月24日
オーエンは静かにベッドから抜け出す。時刻は午前三時。同じベッドに入っていたカインは寝息を立てている。
部屋の監視は深夜も続いているはずだが、その網を掻い潜ってホテルの外に出ることはオーエンにとって容易い仕事だった。この時間、監視についているのはアシストロイドだけだ。あれだけ咎められたハッキングを行使することに躊躇いはあったが、手段を選んでもいられなかった。
フォルモーントシティでアシストロイドが生きていくためには所有者が必要だ。これまでは、オーエンがフォルモーントシティの外を旅していて、時々戻ってくるくらいだったから目を瞑ってもらっていた。けれど、今回の事件でこれまでのように目を瞑ってもらうことはできなくなった。誰かに所有者になってもらうことでしか、この街では生きられない。条例案が成立していればもしかしたら──と思わないでもないが、カルディアシステムを盗み出すことがオーエンの第一目的だったのだから仕方がない。
カインはオーエンが求めれば所有者になってくれるだろう。カインなら信頼できるという気持ちもある。それでも、やっぱり自分は彼の『もの』ではありたくない。だから、どれだけカインのことが好きでもこの街に留まることができない。
カインはこの街でしか生きられない人たちの幸福を守るためにいつだって一生懸命だった。そういうところが好きだから、終ぞ一緒に行こうと言うこともできなかった。でも、それでいい。約束したのだから。
「それでも、やだな」
何度考えても同じ結論に至ったのに、この期に及んで惜しくなっている。自由と孤独。絆としがらみ。そういう相反するものに揺れるのがこの心だ。
最後にオーエンは手紙を書くことにした。今はもう郵便制度は廃れてしまったけれど、ホテルマンに頼むとホテルのロゴが入った便箋を用意してくれた。この辺りは流石この街一番の高級老舗ホテルらしい。
紙の手紙を書くことにしたのは、自分とカインだけが知っている言葉を残したかったからだ。ネットワーク上で交わされた言葉が、いかに粗雑な手で扱われるものかはこの一件で十分認識している。
何百年も昔、言葉は私的なものだった。顔を合わせて直接話すか、手紙を書いては何日もかけて届けてもらうか。そんなじれったい方法でしか人間は言葉を交わせなかった。テクノロジーの発達と共に言葉はどんどん遠くに届けられるようになり、一個人が世界中の人たちに向かって叫ぶことだってできるようになった。昔は知らない人に手紙を送ろうとしたら瓶に手紙を詰めて、海に流すくらいしかできなかったのに。
それから、人間はとうとう言葉を伝えるための機械を作った。想いを、感情を伝えるために、人と同じ形にした。
そして、今や人間は機械とも言葉を交わそうとしている。一生かかっても解り合えないかもしれないかもしれない。それでも言葉を交わしていたいと願うのは、愛しているからに違いない。
オーエンとカインが綴ったメッセージは、最先端の文通だ。
手紙を書き終えると便箋を折って、テーブルの上に置いた。
今生の別れのつもりはない。なんでもない顔をして、またメッセージを送ろう。きっと、今までのようにやれるはず。それでも、恋文はこれが最後だ。
「さよなら」