祈り

 日が落ちた後の廃神社は闇に包まれていた。あたりは林に囲まれている。一番近い道路沿いに街灯があるが、それもここからゆうに十分は歩く必要がある。
 静寂と闇の中、神社の本殿からはわずかに光と音が漏れていた。本殿の中を照らすのは四方と中央付近に置いてある電池式のランタン。そして聞こえてくるのは拝島去記の歌声だった。
 拝島は本殿の中で舞い、歌っていた。それは上野國に伝わる伝統曲で、様々なところで奉じられてきた楽曲だ。拝島が初めてこの舞を知ったのは、まだ文字もろくに書けない幼い頃に、何かの祭りで披露されていたのを遠目で見た時だった。それからずっと舞奏を追いかけ続けている。いつぞやの舞奏披でこの曲が披露される様子はインターネットの動画サイトで公開されていて、その動画を何度再生したことか。
 寸分違わぬ舞を踊り、本殿いっぱいに歌を響かせる。それを見てくれる人はどこにもいない。それでも、拝島は稽古を欠かさなかった。
 もっとも拝島にとって稽古のつもりでは毛頭なかった。舞奏は彼にとって手なぐさみであり、カミに報じるものでもなければ観囃子に向けたものでもない。自分のために舞うだけだった。
 けれど、今はもう違う。
 拝島はとんと右足を傷んだ床につく。数秒、その姿勢のまま止まるとそれからふっと力を抜いた。一曲踊りきって、拝島は自分の舞を思い返した。
 ずっと一人で舞っていたけれど、今はもう一人ではない。彼を水鵠衆に招いた二人の顔を思い浮かべると拝島の頬は自然と緩む。今日も阿城木はわざわざ廃神社まで拝島のことを迎えにきてくれた。それから阿城木の家で三人稽古をして、再び拝島はこの朽ち果てた神社に戻ってきた。
 阿城木からも彼の両親からも、阿城木家で暮らせばいいのにと言われていた。阿城木曰く、居候が一人増えたところで変わらないと。けれど拝島はのらりくらりとその打診を遠回りに断り続けている。
 とはいえ──。
拝島は床にぺたりと座って本殿を見やる。一応は屋根も壁もあるし、あんまり酷い雨漏りはビニールテープで塞いだ。それでも、気温が氷点下になることもあるこの地で暮らすには心許ない。何より九尾の狐の噂はこの辺りですっかり広まったしまった。廃神社を占拠することは、おそらくなんらかの罪に問われるのだろう。そして、拝島去記の名前を少し調べれば拝島事件にたどり着くことも容易い。だから、警察と顔を合わせるわけにはいかず、このあたりが潮時だという自覚はあった。
 それでも阿城木の申し出を断り続けているのは、まだそちら側に──七生と阿城木の方へと踏み込むことに躊躇いがあるからなのだろう。言葉では運命を共にすると誓ったのに、内心まだそちら側に踏み込むのを恐れている。
 拝島去記は自らの影響力をよく知っていた。彼の愛する人の子たちは彼の言葉をよく聞き、彼の意を汲む。であれば、拝島の為すことが発する言葉が七生や阿城木の──水鵠衆の行き先を定めてしまうのかもしれない。そのことがほんの少し、彼が手を伸ばすことを躊躇わせる。
 だからというわけではないが、今日は言おうか言うまいかと迷っていた告白をすることができなかった。
 十月五日は拝島去記の誕生日だ。けれど、それを知っている者は多くない。言ってしまえば七生も阿城木も彼を祝ってくれる。だから、こうして一人で舞う夜はきっと訪れなかっただろう。
 それでも言わなかったのは、祝われてしまったら彼らが特別になってしまうとわかっていたからだ。
 拝島が生まれた日は罪の証が再び拝島家に下された日でもあった。両親から祝われた記憶はあるが、記憶の中にある風景はどこか静かで、暗い澱が沈んでいた。
 唯一彼の誕生日を心から祝ってくれたのは叔父だけだ。彼だけは一年で一番良い日だと笑って両手に抱えたプレゼントを拝島の手に渡してくれた。その記憶があるからそう──千年経てもなお誕生日をちゃんと覚えているのだ。覚えていることにしている。
 拝島は本殿の隅に畳んであった寝袋を引っ張り出す。阿城木家で夕食も風呂もいただいてきたのであとはもう寝るだけだった。部屋の四隅に置いたランタンを消灯する。残った中央のランタンを消そうとしてふっと拝島は笑った。なんだかまるで誕生日ケーキの蝋燭みたいだ。
 水鵠衆としてこれからきっとたくさん舞奏を奉じるだろう。長い時間を七生や阿城木と過ごすことだろう。だからいつか、何かの拍子に自分の誕生日を告げることだってあるかもしれない。それは明日かもしれないし、一年後の今日かもしれない。どちらにせよ、その時は二人とも祝ってくれると信じることができた。
 だから、これは祈りなのだ。今日だけではなくて、この先に希望を持つための。
 彼らが拝島を祝ってくれる日は、これまで貰ったどんな贈り物よりも嬉しく、待ち遠しい。その特別な日がいつか必ず訪れますように。
 電気式のランタンは息を吹きかけても消えることはない。それでも祈りを込めてふうっと息を吹きかけると、スイッチを切った。