花冷えの日

「花見でもしてこいよ」
 阿城木は軽い調子で七生に告げた。
「去記も桜が見頃だって言ったら明日こっちに来るってさ。夕飯はみんなで食べようぜ」
 明日は日曜日なのに、大学に用事があるとかなんとかで、阿城木は出かける予定らしい。戻りは夕方。ふーん、と七生はなんでもない相槌をひとつ打った。
「わかった。じゃあ、おやすみ」
 明日は特別な日なのに、と七生は言えなかった。

 翌日はあいにくの雨だった。それでも午前中は傘を差さなくても良いくらいの小雨だったので、予定通り七生は去記と連れ立って花見に行くことにした。
 去記は楽しそうに耳と尻尾を揺らしながら七生の横を歩いている。今日は冬が戻ってきたような寒さだから、彼の尻尾が妙に恋しい。
「どうした?」
「別に」
 きょとんとした顔の去記に七生はなんでもないと笑いかけた。左手に持っていた傘を右手に持ち帰ると、空いた左手をブルゾンのポケットに突っ込む。阿城木から借りた厚手の上着は温かかった。
「千慧!」
 目的の公園に足を踏み入れると一段と去記のしっぽが大きく揺れた。その気持ちはよくわかる。七生も思わず目の前の光景に見惚れてしまった。
 馬屋橋公園はこのあたりでは一番賑わう桜の名所だそうだ。そういう阿城木の説明を七生は話半分で聞いていたが、きっと真面目に耳を傾けていたってこの景色は想像できない。目の前にあるのは薄紅色に染まった世界だった。
「なんと綺麗な……」
「いい……。去記、似合うよ」
 去記は桜の木に近寄ると、重たげに花をつけた枝に顔を寄せた。こうして見ると去記の美貌はよく映える。見慣れているのに、思わず賞賛の声をあげてしまう。
 あいにくの雨だったが、雨だからこそ、湿った土の匂いと少し曇った視界の中で桜の花は一層美しく見えた。阿城木の言う通りちょうど満開の見頃で、この雨でだいぶ散ってしまうことだろう。
 小雨だった雨は今やどんどん強くなる。そこそこ見物人の姿はあったが、徐々に帰ろうかと出口に向かう人が増えているように見えた。それでも七生と去記は、人の流れに逆らって公園の奥へと足を進めた。
「寒くはないか?」
 去記が七生に問いかけた。
「大丈夫だよ。去記は?」
「我はこのふかふかの尻尾があるからの」
 ふふ、と笑いあって、公園の中を流れる川沿いを歩く。風が花びらを散らし、雨が花びらを流す。流れた花びらが川面を覆う。去記はスマートフォンのカメラを七生に向けた。水鵠衆の中で一番写真を撮りたがるのはこの千と二十四年を生きている狐なのだ。どういう顔をしようかと迷っているうちにシャッターが切られた。どんな顔をしていただろうか。
「花冷えの日だな」
 去記がぽつりと言った。
「花冷え?」
「桜も咲いて春が訪れたこの時期に、突然寒くなる日のことをそう言うのだ」
「ああ」
 そう。毎年そういう日がある。春と冬の境目の、流れゆく時を止めようとする日だ。七生千慧が生まれた日は今まで、半分は春の日で半分は冬の日だった。今年はそう、冬の名残を流すような雨の日だ。それでも、桜は美しく咲いて春を謳歌する。たとえ、足を止めても時間は止まらない。足を止めた者が置いていかれるだけだ。
「千慧」
 それから去記は七生の方に手を伸ばした。何気なく当たり前の仕草で。その手をとるのを七生は少し躊躇して、それでもそっと手のひらを重ねた。去記はぎゅっとその手を掴む。
 去記の手は冷たかった。七生の手と同じくらいか、それ以上に冷えていた。
「去記。何か温かいものでも食べに行こうよ。お汁粉とか」
「よいな」
 手を繋ぐと傘は差しづらい。傾けた傘の隙間から腕を雨が濡らした。七生の体温と同じ冷たさで、桜雨は降る。

 去記とお汁粉を食べ、これまた桜の木が並ぶ川沿いを歩いて阿城木家に帰ってきた頃には、夕方になっていた。雨は少し弱まっている。
「ただいま」
 七生が玄関扉を開けると、パンっと乾いた音がした。
「ちーくんお誕生日おめでとうー!」
 明るい声が響いた。それからぎゅっと横から抱きしめられた。
「千慧! お誕生日おめでとうだぞ!」
 去記に抱きしめられると全く前が見えない。しばらくして息苦しくなってきたところでようやく解放された。
 玄関先にはクラッカーを持った魚媛と阿城木がいる。
「よう。誕生日様」
「なにこれ」
「いいから。早く上がれって」
 阿城木に言われて長靴を脱ぐと、そのまま居間に連行された。右側に阿城木が、左側に去記がいる。まるで舞奏の舞台に向かうように。
「ほら、どうだ」
 居間にあったのは特大のケーキだった。ホールケーキを三つ分重ねたくらいのサイズがあって、真っ白なクリームがたっぷりと塗られている。
「すごい……」
「だろ?朝から大変だったんだからな。めちゃくちゃクリーム泡立てたし」
「大学、行ってたんじゃなかったの?」
「午前中にちょっとだけな」
 阿城木と去記が目を合わせている。ここでようやく全部二人と魚媛の仕込みだと気がついた。
 足を止めても時は過ぎて、季節は回る。七生の側でも。
「ありがとう」
 どんな顔をしているのか自分でもわからない。突然シャッターを切られた時のような顔からもしれない。目の前にいる阿城木は嬉しそうに笑っていて、去記はふふんと胸を張っていた。

 春が来る。明日はきっと春の日だ。