空席

 上野國水鵠衆として正式に認められた後も阿城木たちは舞奏披を繰り返していた。阿城木家の舞台で、廃神社で、時にはインターネット上で。変わったことと言えば正式に認められたことにより、そこに上野國舞奏社にある舞台が加わったことくらいだ。
 忙しすぎると思わないでもないが、水鵠衆にとっては観囃子の歓心こそが力だ。それに結成したばかりの自分達はこうして場数を踏んでいくしかない。おかげさまで地域の観囃子にもかなり認知されはじめている。
 最近は観囃子の振るサインライトや身につけている小物の色でなんとなく贔屓の覡も可視化されつつある。
 例えば七生のことを好きな観囃子は女性が多い。美味しそうにお菓子を食べる様子を動画に載せたせいか、差し入れの数はダントツだ。阿城木はもともと顔見知りが多いこともあり、観囃子も知っている顔が多かった。大学の友人や近所の人たちも阿城木を応援してくれている。それだけでなく、最近彼の舞奏を見て新たに観囃子になってくれる人もいるのだから、この上なく嬉しかった。
 去記を贔屓にしている観囃子はとにかく熱烈だ。元々廃神社に住み着いていた頃から頼りにされてきた自称九尾の狐。熱心な歓心を──さらに言えば信仰に近いものを向ける観囃子も多かった。
 それに去記はよく観囃子の顔を覚えている。一度舞奏披に訪れた観囃子の顔を彼は忘れないばかりか「あの人の子は入彦推しだぞ」と舞台上で阿城木の肩を叩く。
 魅了、という言葉が頭に浮かぶ。まさしく拝島去記は人を魅入らせる天才だった。

 阿城木が舞奏社に向かったのは三限の講義が休講になったからだ。夕方まで授業がないので、この空いた時間も稽古に充てるつもりだった。舞奏競までさほど猶予はない。
 自宅ではなく舞奏社を選んだのは、距離の問題というよりは、たまに顔を出そうかという阿城木の気まぐれに近い行動だった。
舞奏社と対立して以降、水鵠衆として正式に認められても彼らは積極的に舞奏社を頼ることはなかった。もちろん舞殿の舞台は阿城木家にあるものとは比べ物にならないほど立派だし、舞奏競に向けて三人で練習することもある。けれど、水鵠衆にとって舞奏社はアウェイであることに間違いない。
 一方で、阿城木にとっては舞奏社は長年足繁く通った場所だった。懐かしさもあるし、所属しているノノウたちは良い仲間でもあった。だからこそ、七生や去記とは違って未だにホームだという気持ちがあった。
 舞伝の入り口で礼をして中に入る。平日の昼間だったから他のノノウもおらず、阿城木の貸切だった。一時間ほど舞の確認をして一呼吸ついたところで、舞殿の扉が開いた。
「精が出ますね」
 舞殿に入ってきたのは上野國舞奏社総掌横瀬貞千代だった。背筋をピンと伸ばした姿で静かに音を立てずに入ってくる。
「お疲れ様です」
 彼女はグラスが載った盆を持っていた。
「今日は暑いでしょうから」
 そう言って阿城木に差し出されたグラスにはカルピスが入っていた。懐かしいなと、阿城木は幼い頃に引き戻される感覚がした。こうして飲み物を差し入れてもらったことが何度となくあったことを思い出す。
「ありがとうございます」
「舞奏競に向けて順調ですか?」
「はい。俺たちの舞奏を見にきてくれる観囃子もどんどん増えてますし、俺たちも──勝つために練習してます」
「それは何より」
 彼女はしっかりと頷き、それから目を細めて阿城木を射抜いた。
「ひとつ、忠告しましょう」
 阿城木は思わず首をすくる。彼女の言う忠告が耳に痛くないはずがない。
「あなたたちが素晴らしい舞奏をすることで観囃子はあなたたちに歓心を向けることでしょう。あなたたちが観囃子に応えることは結構、けれど観囃子である個人の感情に適おうとするのはおすすめしません」
「それってどういうことです?」
「他國の話ですが、かつてそれはもう見目麗しく優れた覡がいたそうです。彼に歓心を寄せる観囃子は多く、彼のためなら死んでもいいと過剰な好意を寄せる者もいたとか。観囃子たちの歓心は日に日に過激になり、とうとう刃傷沙汰にまで発展したそうです」
「それで……どうなったんですか?」
 横瀬は底冷えのする笑みを浮かべた。
「さて、どうだったでしょうか」
 風でカタンと戸が揺れた。阿城木は声も出せずに横瀬を見つめていた。彼女は緊張を解くように小さく息を吐いた。
「あまり観囃子に入れ込むと、もしくは入れ込まれると大変なことになるという話ですよ。あなたたちもゆめゆめ忘れることがなきように」
「……はい」
 横瀬は入って来た時と同じように静かに舞殿を出て行った。阿城木がグラスを傾けるとカランと氷の擦れる音がする。カルピスは氷が溶けて少し薄い味がした。

 この日の舞奏披は舞奏社の舞殿で行われた。日が暮れて、神社の灯籠や並べられた提灯に火が灯される。舞奏披の夜は境内に屋台も並びちょっとしたお祭りの風情が漂っていた。
 水鵠衆は控えの間で装束に着替え、幕が上がるのを待っていた。
「貸せ」
 七生が右手首のボタンを止めるに手こずっているのを見て、阿城木は声をかけた。七生が無言で差し出した右手のカフスボタンを止めてやる。ちょうどその時だった。
「我、ちょっと」
 去記はそう言うと控えの間をするりと出ていった。大方トイレにでも行ったのだろうと阿城木は気に留めなかったが、七生は「ねえ」と声を出した。
「最近さ、稽古が終わった後に観囃子の人たちが僕たちを待っていてくれることがあるでしょ」
「ああ……」
「応援してくれることはありがたい……んだけどね。最近ちょっと雰囲気がおかしい気がしてて。ひりついてるっていうかなんていうか……」
 七生は口籠もりながら言った。
「いや、お前の言いたいことはわかるよ」
 はっきり言えば険悪なのだ。それはインターネット上を見ていてもわかる。同じ覡を応援する観囃子の間でどちらが前から目を付けていただとか、どれだけ舞奏披に通ってきただとか、そんなことで争っている様子が阿城木の目にも留まっていた。そこまで熱心に応援してくれるということが嬉しい反面、同じ衆の観囃子同士で争うなんて馬鹿馬鹿しいという気持ちもある。
「それだけ一生懸命に応援してくれてるってことで……。何かあったら社人の人たちにも相談してみようぜ」
 七生は渋々という顔で頷いた。まだ彼は社人たちに対してしこりがあるようだった。
 ふと、阿城木は去記のことが気になった。水鵠衆の観囃子の中でも去記を応援する観囃子たちは特別熱心に歓心を寄せていた。「悪い。俺もちょっと」
 なんとなく嫌な予感がして、阿城木は去記を追った。トイレの方にはいない。廊下を早足で歩き、舞奏社の裏手に差し掛かると声が聞こえた。
「ここは立ち入り禁止ゆえ、舞殿の方に戻られよ。我らの舞奏ももう少しで始まるのでな」
「ねえ、なんで。なんで私のことだけを見てくれないの。私が一番去記君のことを好きなのに」
 足を止めかけたが、曲がり角を曲がってしまったので声の主の姿が見えた。一人は去記、もう一人は見知らぬ女だった。彼女の姿を見た時、阿城木の背筋をぞぞっと冷たいものが這った。見てはいけない、声を交わしてはならないものだと本能的に感じて、半歩後ろに下がった。それでも逃げなかったのはそこに拝島去記がいるからだ。
 足音が思ったよりも響いたのだろうか。去記と女の目が阿城木に向いた。
「入彦君」
 彼女の声がどんなものなのか、阿城木には理解できなかった。ただ、甘やかで阿城木の目を彼女に留めさせるのに十分な声だった。阿城木は声も出せず彼女を見ていた。彼女は去記に視線を戻すと、同じ声色で彼に向かって訴えかけた。
「私が一番水鵠衆を愛してる。舞奏披は全部見たわ。動画にコメントもした。舞奏社に送ったプレゼント受け取ってくれた? 私がね、私が一番水鵠衆と去記くんを愛してるの。あなたのことは全部知ってる。どこで息継ぎをするのかも、あなたがいつ私に気づいてくれるのかも、全部全部私は知ってる。あなたのことをちゃんと見てるから。私が一番ちゃんと見てるわ。他の観囃子なんて私の半分もあなたの魅力に気づいていない。ねえ、私はこんなに愛してるの。去記くんも私を愛してるよね? だって六月十八日に廃神社で舞奏披があった時も私に手を振ってくれたものね。他の観囃子にはやってなかったのに。私には気づいてくれた! 私がそこにいるって、いつもあなたの前にいるって去記君は気づいてくれたね。なのに、最近なんで私以外の観囃子にも手を振ったの? なんで? 去記君にとって知っている顔の観囃子に手を振るのは普通のこと? それなら私にはもっと特別なことをしてちょうだい? だって私は特別に愛してるもの。ねえ。なんで黙ってるの? お願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願いお願い──」
 特別激昂することもなく淡々とした口調なのが阿城木は恐ろしかった。去記は彼女の前で困った顔をして、それから優しく言い聞かせるように彼女に目線を合わせた。
「我は九尾の狐。化生ゆえ、人と共に生きることはできぬ。舞台と客席、分たれてこそ初めてそなたと出会うことができた」
「私は……」
 彼女が言いかけた言葉を、去記は人差し指一本で封じた。触れるか触れないかの距離で彼女の唇の前に去記の指先がある。
「ぬしも我にとっては可愛い人の子よ。どうか末長く我を、水鵠衆を応援しておくれ。そうだ。ひとつだけ特別なはからいをしよう。他の観囃子には秘密じゃぞ」
 それから去記は阿城木に聞こえない声で彼女の耳元で囁いた。すると彼女は笑みを浮かべた。
「ありがとう。嬉しい」
「ずっとずうっと、我らに歓心を向けておくれ」

「入彦」
 声をかけられて阿城木ははっと意識を取り戻した。目の前で首を傾げた去記がいる。
「どうしたんじゃ、ぼーっとして」
「いや……」
 先ほど見た風景のことを去記に尋ねようとしたが、口に出そうとした瞬間、見たはずの女の姿が解けるようにして消えていった。声も姿も、確かにそこにいたはずなのによく思い出せない。
「お前……誰かと話してたよな?」
 去記は少し驚いたように狐耳を──つまり頭をちょっと動かして、それから何でもない顔をして言った。
「なんのことかの。我、全然わかんない」
「めっちゃ動揺してるじゃねえか」
 しかしながら、阿城木は去記が誰と何を話していたのかさっぱり思い出せなかった。まるで白昼夢のように、急速に見たはずの出来事の風景が失われている。
「案ずるでない。ちょっとしたおしゃべりじゃ」
 去記は観囃子にするような完璧なウインクを阿城木に向けた。正直なところ、いつも目の前にいる仲間であるにも関わらず、歓心を向けてしまいそうになるのでやめてほしい。阿城木はこういう完璧に観囃子を喜ばせようとする覡が、ノノウが嫌いでなかったので。
「それより社人を見かけなかったか?」
「社人? それなら俺たちの部屋の隣に衣装とか小道具を管理してる人がいたと思うけど。どうした?」
「少し頼みたいことがあるのでな」
 控えの間に戻り、それから去記は社人に何かを頼んでいた。どうしてもひと席、最前列に椅子を増やしてほしいと。
「誰も座らなくても良い。ただひと席、我らの舞奏披には空席を用意しておくれ」

 水鵠衆の舞奏披が始まる。舞台上から客席を眺める。曲が始まる前のこの一瞬は一番緊張する瞬間でもあった。ふっと阿城木が目線を落とすと最前席に舞殿には不似合いなパイプ椅子が置かれている。先ほど去記が用意させたそこは空席だった。
 音楽が始まると緊張は次第に解けていく。歌いながら、周りを見る余裕が生まれていく。七生、去記、そして客席にいる観囃子たち。
 その瞬間、「あれ?」と阿城木は違和感を覚えた。ひとつだけ空席があったはずなのに、今こうしてみると空席がない。しかし、舞奏の最中なのでまじまじと客席を眺める余裕はなく、曲を終えて改めて眺めれば確かに空席はあった。

 それから数週間が経って、阿城木は七生から「ちょっと」と声をかけられた。
「この間の舞奏披で話した観囃子の件、何か舞奏社に言った?」
「いや、俺は何も」
「なんか最近観囃子のみんなの雰囲気が良くなってきた感じがしない?」
「言われてみれば……?」
 最近は忙しかったのでインターネットで自分達に対する反応を確認することが減っていた。試しにスマートファンで動画のコメントやSNSを眺めてみる。確かに以前はあった観囃子同士の対抗意識のようなものが下火になっている。
「てっきり阿城木が舞奏社に何か言ったのかもって思ってたんだけど。ま、仲良く応援してくれるならそれでいいんだけどさ」
 七生は嬉しそうに笑って「おやすみ」と屋根裏部屋に上っていった。

 水鵠衆の舞奏が行われる際には、必ず最前席がひとつ開けられている。観囃子の間にはまことしやかに上野國の伝統だと語られているが、本当のところを知るものはいない。