ジェシカの目の前にはとても美しいひとが立っていた。今までこの家でも、この街でも、こんなひとを見たことはない。冬の寒い日に降る雪のように白く、美しい形をしていた。
キッチンの外では母がジェシカを探している。自分の名前を呼ぶ声をジェシカはキッチンの戸棚の下にすっぽり収まって聞いていた。戸棚の扉は開け放たれて、開け放した張本人のそのひとは、無感動な目でジェシカを見ていた。
「おまえ、何で隠れてるの?」
その問いにジェシカは答えなかった。名前を呼ぶ声はまだ外から聞こえてくる。このままだと彼女は遠からず見つかるだろう。なにしろキッチンの出入り口は一箇所で、誰かがここに入ってきたらもう隠れることはできない。
「さらってやろうか」
美しいひとは意地の悪い笑みを浮かべて少女に手を伸ばした。
それから数分後、キッチンに入ったジェシカの母親は、テーブルの下から戸棚の中まで全部探して、彼女がいないことを確認した。
「私、どこに連れて行かれるの?」
「さあね。怖い?」
きれいなそのひとは唇の端を上げるようにして笑った。
「……別に」
これは少しだけ嘘。
「甘いものが食べられるところ知ってる?」
「甘いもの?」
彼の問いにジェシカは指を川向こうに向けた。
「あそこでアイスが食べられるよ」
「じゃあそこにしよう」
姿を消してキッチンを抜け出した二人だったが、外に出ると魔法を解いてアイスクリームを売るワゴンへと歩いていく。ジェシカはちらりと背後に遠ざかる彼女の家の姿を見た。
「何がいい?」
彼は無造作にジェシカに聞いた。ワゴンには六種類ほどのフレーバーが並んでいたけれど、ジェシカの身長では何も見えない。彼は面倒くさそうにため息をついてから彼女の肩に手を置いた。
「《クアーレ・モリト》」
ふわっと彼女の体が浮いた。ジェシカは思わず「わっ」と声を上げる。
「ほら、早く選んで」
奇妙なことにジェシカの周りの人たちは宙を浮くジェシカに気づいていないように見える。
「ルージュベリーと群青レモン」
本当はいつもアイスは一つだけ。でもジェシカは二段のアイスにずっと憧れていた。
「いいよ。────ルージュベリーと群青レモンをのせたやつをひとつ、バニラとチョコレート、それに蜂蜜をのせたやつをひとつ」
「三段……!」
アイスを三つも載せられるなんて知らなかった。彼はふん、と得意気に笑った。
「あなたは魔法使いなの?」
「そうだよ。北の魔法使いオーエン」
オーエン。なんだか彼にぴったりの名前に思えた。
オーエンはアイスを受け取ると、驚くことにお金を払わずにワゴンに背を向けた。ジェシカは「えっ」となってアイスを売るひとに目をやったけれど、特に呼び止められることもなければ追いかけてくることもない。
「オーエン、アイスのお金」
「きみが払ってくれるの?」
「わたし、お金持ってないよ」
「僕も」
だからといってお金を払わなくていいわけがない。
「お金がないとアイスは買えないよ」
「だから奪った」
オーエンはにいっと口元を緩めてそれからアイスを舐めた。
「悪いひとだ……」
「そうだよ。僕はオーエン。悪い魔法使いなんだ」
ジェシカは先月七歳になった。学校では一番勉強ができるし、周りの大人にも「ジェシカはいい子ね」とよく褒められる。それなのにアイスの無銭飲食なんて悪いことに手を染めてしまった。
「……いらない」
「ん?」
「悪いことをして手に入れたアイスなんて食べたくない」
「そう」
オーエンはジェシカの手からアイスを奪うと、何の躊躇いもなく食べ始めた。
「オーエン……?」
「何?」
ジェシカは開いた口が塞がらない。こんなに堂々と悪いことができるなんて。オーエンはあっという間にアイスを食べ尽くすと、指先についたアイスも舐めた。
「それで、どうして隠れていたの?」
オーエンに問われてジェシカは自分が姉の結婚式から逃げ出したことを思い出した。もうあと一時間ほどで結婚式が始まってしまう。
「お姉ちゃんに結婚してほしくないの」
ふうん、とオーエンは気のない返事をした。その不真面目さがジェシカにはちょうど良かった。
「お姉ちゃんが幸せなのは嬉しいんだけど……でも―」
なんだかジェシカの大好きな姉を奪われてしまったような気がするのだ。
「あの家の人たちはみんな嬉しそうだったよ」
「そうよ。だって幸せな結婚式の日だもの」
素直に祝う気持ちになれないのはジェシカだけ。
「じゃあきみは悪い子だ」
「えっ?」
「だってお姉さんの幸せも祈れないんだろ?」
悪い子。ジェシカはそんな風に言われたことはなかった。
でも、姉の幸せを祈れないなんて、それは確かに悪い子に違いがない。
「わたし……」
そのときだった。オーエンは目の前に現れた男にちっと舌打ちをした。
「おい、オーエン」
そのひとはオーエンとは全然違った。髪は夕暮れ時の太陽の色。ぴかぴかと輝くような印象のひとだった。立派な騎士の格好をしている。姉の結婚相手とよく似た服装だ。でも瞳だけが、オーエンのそれと全く同じ色をしている。陽に透かした蜂蜜と煮詰めたベリーのジャムの色。
「ジェシカか?」
騎士は屈んでジェシカに目線を合わせると問いかけた。彼女はこくりと黙って頷いた。
「俺はカイン。きみを探しにきたんだ。オーエンに連れ去られたのか?」
「そうだよ」
オーエンが答えるが、カインと名乗った騎士はそれを無視してジェシカの答えを待った。
「私がさらって欲しかったの」
カインは困ったなあという顔をする。
「お母さんは心配していたけど、まださらって欲しい?」
「わかんない」
「じゃあ、わかるまで少し散歩をしよう」
カインは騎士然とジェシカに右手を差し出した。まるで御伽噺に出てくるようなシーンだ。ジェシカがそっと左手をのせるとカインはにっこりと笑う。なんだかドキドキしてしまう。
どうしよう、とジェシカが傍にいるオーエンを見上げると彼は面白くなさそうな顔でカインを見て告げた。
「こいつは誰にでもこういうことをするから」
ジェシカはしっかりと頷いた。
「この通りの先が商店街、右に入った通りの先が学校」
ジェシカはカインとオーエンに街を案内する。それほど大きい街ではないから、見るべきところも多くはない。商店街の方へと足を向ける。
「カインとオーエンは結婚式のお客さん?」
「ああ。花婿が俺の部下だったんだ」
「部下?」
「騎士の仲間さ」
ジェシカの姉の結婚相手は王都の騎士だった。だから姉は結婚したら王都に行く。それがまたジェシカにとっては寂しかった。王都はそう遠くないよと家族は言うけれど、この街を出たことのないジェシカにとって王都は、もう二度と会えないんじゃないかと思う場所だった。
「オーエンは?」
込み上げてくる悲しさを飲み込んで、ジェシカは聞いた。
「この結婚式をめちゃくちゃにしにきたんだ」
「え?」
カインはオーエンを小突いた。
「そうじゃないだろ」
「そうすることだってできるよ」
その言葉はジェシカに向けられていた。「どうする?」と。きっとオーエンなら言葉通り結婚式をめちゃくちゃにすることもできるだろう。お金を払わずにアイスを食べてしまうように、招かれざる客として。
「俺たちは賢者の魔法使いなんだ」
カインはジェシカを安心させるように告げた。
「賢者の魔法使い?」
「この世界を守っているんだ。俺も、オーエンも」
誇らしげに彼は言った。オーエンはふんと顔を背ける。
「魔法使いは嫌い?」
オーエンの問いにジェシカは少し迷ってから首を振った。
「魔法使いだからって、嫌ったりしないわ」
人間だってそうだ。同じクラスのミラは大親友で大好き。いつもジェシカを揶揄ってくるティムのことは大嫌い。いろんなひとがいる。きっと魔法使いだって。
「きみのお姉さんの結婚相手も同じことを言ってたよ。彼も、きみも、いい奴だなって思うよ」
カインはどこか誇らしげだった。ジェシカの姉が好きになった人は、きっと素敵な人なのだ。
「わかってるけど……寂しいの……」
目頭が熱くなる。泣くなんて子供っぽいことをしたくないのに。
「わかるよ。親しい人が自分のそばを離れていくのは寂しい。なんだか、取られてしまうような気がするよな」
「だから結婚式をめちゃくちゃにしちゃえばいいのに」
「だめ!」
思っていたよりも大きな声が出た。オーエンは本当に結婚式をめちゃくちゃにしかねない。
それは、嫌なのだ。寂しいけれど、それよりも姉には結婚式で笑っていてほしい。
「私、寂しいけどお姉ちゃんには幸せになってほしいの」
「それなら、その気持ちをちゃんと伝えてみたらいいんじゃないか?」
カインはジェシカの両肩に手を置いた。
「笑顔でお祝いを言えなくてもいいんだ。自分の心に正直になって、そのままをお姉さんに伝えてごらん」
「笑ってなくてもいいの?」
「いいよ。それがジェシカの正直な気持ちなんだから」
笑っていなくてもいい。その言葉でジェシカの気持ちは幾分楽になった。結婚式から逃げ出したかったのは、自分がちゃんと笑って姉を送りだせる気がしなかったからだ。
だから、笑っていなくても、泣いていてもいいのなら。
「せっかくだからこういうのはどうだろう」
カインは商店街にある店を指差した。
「ジェシカ!」
心配を含んだ母の声にジェシカは身を竦めた。
「悪いな。花嫁へのプレゼントを選ぶのに付き合わせてしまったんだ」
カインはそう言ってジェシカに目配せした。
「プレゼント?」
「ああ」
カインはジェシカの母にそっと耳打ちする。それで彼女は納得したように頷いた。
「とにかくもう始まりますよ」
「わかった」
ジェシカたちは参列者たちが待つ場所へと向かう。オーエンはジェシカにささやいた。
「本当にいいの?」
「うん」
ジェシカの心は決まっていた。
「ありがとう。オーエン」
「僕は何もしてないだろ」
違う。オーエンが結婚式をめちゃくちゃにするっていう選択肢をくれたから、ジェシカは自分の本当の望みがわかったのだ。
結婚式が始まる。夫婦になる二人が誓いの言葉を述べて、指輪を交換した。そして彼らは参列者の方に歩いてくる。二、三言参列者と言葉を交わしていく。
そして、ジェシカの前に新郎新婦がやってきた。
「ジェシカ」
真っ白なドレスを身に纏った姉はとても綺麗だった。新郎も騎士の正装をしている。彼もまた穏やかにジェシカを見ていた。
「私―」
やっぱり笑うことはできなかった。ただ、震える手で握っていた花束を花嫁に差し出す。カインが贈り物を渡すのはどうだろうと提案して、商店街の花屋で買ってきたものだ。お金は―カインが払ってくれた。
「結婚してほしくないけど、でも……おめでとう」
花嫁がジェシカを抱きしめる。いつもの優しい姉の匂いがした。
抱き合う姉妹の姿を見て、カインはほっと息をついた。
「間に合って良かった」
妹がいなくなったらしいと花嫁から聞き、慌てて探しに出た。まさかオーエンと一緒にいるとは思わなかった。
「おまえが一緒にいてくれて助かったよ」
「一緒にって……僕はさらっただけ」
「それでも。おまえの気配は何となくわかったから。わざと気配を消さずにいてくれたんだろ?」
「ちっ」
「なんで舌打ちするんだよ」
新郎新婦がこちらに歩いてくる。
「僕も一緒に来いって変な奴だよね」
「賢者の魔法使いをかっこいいって思ってくれているのさ」
カインは彼らに向かって呪文を唱える。祝福の魔法は花びらの形になって彼らの元に降り注ぐ。わっと歓声が湧いた。
「オーエン」
仕方がない、とオーエンも小さく呪文を唱えた。カインよりも派手に、会場中に花びらが舞う。
「こら、こんなにたくさん降らせたら大変だろ」
「ふふ。北の魔法使いオーエンを呼んだらこうなるってわからせなくちゃ」
ジェシカがこちらを見ている。オーエンと目が合うと彼女は悪巧みするみたいに笑った。
花の雨が降る。祝福と寂しさを混ぜこぜにして。
