月が頭上にあるうちは

 小舟は月明かりが照らす川面に浮かぶ。とん、とオーエンが船に乗るとほんの少し舟は揺れた。カインが櫂を持っているのに気づいて、揶揄うようにねだってみる。
「魔法で動かしてみなよ」
「わかった」
 カインは櫂を舟の中に置く。
「そんなに大仕事をする顔をしなくてもいいんじゃない?」
「うるさいな……」
 一つ深呼吸してからカインは意を決したように呪文を唱えた。
「〈グラディアス・プロセーラ〉」
 呪文は遠く広がるように響いた。風を呼ぶような声だとオーエンは思っている。遠くにいるものまで呼びかけて、彼の作る輪の中に誘い入れるようなそんな響きだ。
 だが、今回は僅かではあるが、勢いがつきすぎている。舟は大きく動いて水飛沫が跳ねた。
「わっ!」
 船首でまともに飛沫を受けたカインを見て、オーエンは未熟者と笑った。飛んできた飛沫を魔法で散らすことは、彼にとって訳ない。
「もっと優しく呼びかけて」
 オーエンからしてみれば、その手で櫂を掴んで漕ぐよりもずっと容易いことに思える。見物人の姿勢で手の中にある瓶に入ったゼラチン菓子を一つ口の中に放り込んだ。指先で摘める立方体はふわふわとして、噛むごとに溶けていく。こんな風に柔らかく、しかし確かな形に魔力を練り上げることで魔法は成立する。
 もう一度、カインが呪文を唱えた。先ほどよりも優しく、精霊たちの手を取るように。すると、舟は静かに川面に映った月明かりの道を滑った。
「どうだ?」
 カインの声は自慢する響きで弾んでいた。
「まあいいんじゃない?」
 わざとつれない返事をした。けれどカインは一人で嬉しそうに頷いて、舟の先に視線を移す。ここから先、どこまでも続く水面。どこまでも〈大いなる厄災〉が照らし続ける。

 カインの生まれ故郷に連れ立って出かけたのは、日が落ちても凍えることのなくなった春と夏の境の頃だ。知人が栄光の街で食堂を開くので、デザートの試食に付き合ってくれないかという誘い文句を受けて、オーエンは彼ともに栄光の街を訪れた。
 食堂は小さくささやかで、カインの知人だという夫婦が切り盛りしている。夕食とたっぷりのデザートをいただいた。食事はネロの料理ほどではないが、デザートは思いの外美味でオーエンは舌を巻いた。カインは「な?」と目配せをする。口の中でべしゃべしゃに溶けるミルクのジェラートに卵をたっぷり使ったふわふわのプティング。鮮血のように鮮やかな木苺のジャム。それからスパイスの効いたクッキーと甘いミルクティー。オーエンが満足するまで甘味が並んだ。
「お菓子屋さんになった方がいいんじゃない?」
「デザート以外はこれから極めるのよ」
 オーエンが遠慮なく告げれば、料理人はからっと言い切る。お土産にとミントの香るギモーヴと星屑糖でできたキャンディを瓶に詰めて渡してくれた。
 それから、二人はすっかり日が落ちて、〈大いなる厄災〉が煌々と輝やく夜の街にでた。夜が深まりつつあるとはいえ、夏の気配が漂う中、道を歩く人の姿は多い。酒のせいか、はたまた元の気質なのか、この街の人間はこんな夜には踊るように歩く。オーエンは馬鹿みたいと呆れながら、カインに手を引かれて同じように歩いていた。少しだけ早足で石畳を跳ねるように。
「それで、どうするの?」
 つまらなくないのなら、彼が手を引く先に行こう。従順さではなく強者の酔狂のつもりで、オーエンは今日一日カインに時間を託した。
「少し舟に乗らないか?」
「舟?」
 水運が発達したこの街で、舟の姿を見るのは珍しくない。とはいえ、それは昼の話で夜の川は静まりかえっている。
 川と平行に走る街路は川より大人の体半身分高い位置にあるが、道沿いにはところどころに階段がついていて、川まで下りることができるようになっていた。
「こっち」
 カインが指差した先からも川に続く階段があるようだった。オーエンの手を離してから、カインはコツコツと音を立てて一人分の幅しかない階段を先導して下りる。そして係留している舟に飛び乗った。
「オーエン」
 名前を呼ぶカインの声はオーエンの耳にはっきり届いた。けれど──おそらくは、街路を歩く人々には届かない。街路沿いの住宅も商店もすぐ近くにあるはずなのに、こことは別の世界に分かれたように感じた。そうなって初めてオーエンは左足を舟底に載せた。

 地域によって多少違いはあるものの、この世界で〈大いなる厄災〉は概ね不吉な存在の象徴だ。異世界からやってきた賢者によれば、彼の世界で月は畏怖というよりも優美さの象徴として扱われることが多いらしい。オーエンはそれを聞いてふうんと一つ頷いた。何事もその場所によって扱われ方は変わるものだ。〈大いなる厄災〉を彼は少し哀れに思った。
 舟は静かに下流に向かって流れる。カインは船首側の席に、船首を背にして腰掛けた。小さな舟は二人膝を突き合わせるとそれだけでいっぱいだ。
 満月手前のひしゃげた月は明るくて、カインの顔はよく見える。けれど行き先は深い闇が広がっていた。
「どこまで行くの?」
「橋を二つくぐってその先の水門のところで折り返して戻ってこよう」
「海までは遠い?」
 真面目な問いではなかった。ここから海に出るためには国境を一つ跨いで海に出る必要がある。オーエンは舟に長く乗ったことはなかったが、長い旅になることも小舟で行ける距離でないこともわかっていた。
 カインの顔に影がさした。舟が橋の下に差し掛かったのだ。一瞬暗闇が訪れる。それから再び、スポットライトのような白い光に照らされる。
「海に行きたいのか?」
 問いは問いで返された。カインの眼差しはオーエンに向けれられている。月明かりのように柔らかで、一つ残らず明かしたてるように容赦がない。
「聞いてみただけ。賢者様が、この世界の海は繋がっていないと言っていたから」
「ああ。ずっと川を下って海に出て、ぐるっと一周すると大陸の反対側に着くんだろう? 想像がつかないな」
 オーエンはもらったキャンディを一つ口に含んだ。舐めるとパチパチと口の中で砂糖が弾ける。何味ともつかない甘さを感じる。
「俺にも一個」
「嫌。あげない」
「意地悪だ」
 水路を一周するだけの舟遊びにぴったりの詮無い会話だ。この世界はどこまで行っても、どこかにたどり着かない。だから同じところを堂々巡りをするのだ。この舟のように。
「昔はさ、菓子だってそんなに美味しくなかった。けど、食べるたびに美味しい菓子が出てくるようになるからびっくりした」
「あのお店の?」
「そう。だからこれから先もたまに付き合ってくれよ。きっと来るたびに美味い料理が食べられるようになってる気がする」
「それならずっと時間を置いてからでいいよ。十分料理を極めた頃に」
 人の一生は短い。だから、堂々巡りの一部分を永遠と思って生きてゆける。カインは自分がそうでないと気づいているのだろうか。出会っては消え去ってまた出会う。全部が等しい川の流れのような中で、留めたいと思うものは少ない。そして、本当にそれを留めておくことはとても難しい。デザートばかりが美味しいレストランを、オーエンはきっと忘れてしまう。
「オーエン」
 呼び声と一緒に頬に温かい手のひらが触れた。口の中に欠片だけ残ったキャンディを奥に押し込めて、唇を重ねた。二つ目の橋の下に差し掛かる。
「甘い」
「盗むなよ」
「おまえがくれないのが悪い」
 キャンディは飲み込んでしまった。それでもまだ、口の中で星屑糖の味がする。オーエンはカインの肩に頬を寄せる。そうするとほんの少しだけ舟が傾ぐ。それから指先でカインの首筋に触れると、頬に感じるものより熱く、脈打つ振動が感じられた。
「騎士様の心臓って飽きないのかな」
「は?」
 結局のところ、生きているということは、延々堂々巡りをすることだ。このよしない会話のように。
「飽きるという概念が心臓にあるのか考えたことがない……」
「考えてみてどう?」
「わかんないけど、飽きるまで動いてるんじゃないか?」
 カインは思ったよりも真剣に考えている。それを感じてオーエンはふふっと笑った。
「舟、止まってるよ」
「あっ」
 カインはぱっと後ろを振り向いて再び呪文を唱えた。オーエンもカインから離れて頭上を見上げた。動き出した舟は橋を抜け、再び月明かりに照らされる。夜が更けて、〈大いなる厄災〉が一層大きく近づいたように見えた。
 暗がりの中で交わされた口づけを〈大いなる厄災〉は知っているのだろうか。
「オーエンって唐突に変な質問するよな」
「そうやってきみを惑わしているんだよ」
「またそういうことを……」
 カインは仕方がないという顔をして、それから舟の先を見遣った。先に水門がある。ここで折り返し。
「海に、行きたいと言ったらどうする?」
 堂々巡りのその先に忘れ得ぬものがあるのなら、忘れてしまうこの夜とどちらが素晴らしいだろう。けれど、カインが答えるよりも早くオーエンは首を振った。
「なんでもないよ」

 舟は岸に向かって進む。けれど、オーエン自身は千年以上生きてきたはずなのに、一度も岸に辿り着いた心地がしない。〈大いなる厄災〉は何かを変えてくれるだろうか。それとも変わらないだろうか。内心問いかけたとて、答えてはくれない。
「今夜だって忘れてしまうかも」
「俺も細かいことを覚えている方じゃない」
「何度でも、舟を漕いでくれる?」
 堂々巡りをしているうちは。〈大いなる厄災〉が彼らの敵であるうちは。
「いいよ。何度でも」
 舟は岸に辿り着く。