顔を弾かれるような強い衝撃と頬のあたりが燃えるような痛みで、カインは目を覚ました。
「オーエン?」
目の前にいるオーエンは右手を拳の形に握りしめていた。真冬の雪の中に立ちすくんでいるように、青ざめた顔をして冷たい瞳をカインに向けている。
「やっと起きた」
彼に殴られたのだと気づくのにカインはたっぷり十秒は要した。
「いってぇ……」
カインは自分の左頬に触れた。熱を持った肌がじんじんと痛みを伝えてくる。ずっと剣術をやっていたから多少の怪我は慣れっこだが、なんの防御もなく思いっきり殴られることなんてそうあることではない。
「いくらなんでも殴ることはないだろ」
喋ると余計に頬の痛みが響く。
「おまえがいつまで経っても起きないのが悪い」
オーエンは淡々と告げる。
カインはベッドの上にいた。辺りを見渡すと、そこは見知らぬ部屋だった。そもそも自分はなぜ眠っていたのだろう。記憶を辿る前にカインは尋ねた。
「オーエン、ここは?」
「やっと気づいたの?」
苛立たしげにオーエンは眉を寄せると一点を指さした。そこには扉があった。ただし――ドアノブがない。
カインはその扉に近づいた。ドアノブのない扉なら知ってる。よく飲みに行く店には押すだけで開くドアがあって、それにはドアノブが付いていない。中央の国ではあまり見ないけれど横にスライドさせて開ける扉もある。しかし、カインの目の前にある扉はそのどれでもなかった。押しても開かないし、横にスライドできるようにもなっていない。鍵がかかっているのかもしれないが、鍵穴もない。
「出られないよ」
オーエンは重々しく告げる。
「ここは、出られない部屋なんだ」
◆◆◆
魔法舎に「昔魔法使いが住んでいた屋敷を片づけてほしい」という依頼が届いた。どう考えても〈大いなる厄災〉とは無関係な、つまり賢者の魔法使いたちの仕事ではない。賢者のために依頼書を読み上げていたカインも途中で苦笑を禁じ得なかった。「これはさすがに断わろうか」と賢者に尋ねようとしたとき、突然オーエンが姿を現した。
「僕が行ってあげるよ」
怪しい。
賢者とカインは同じ気持ちで目を見合わせた。魔法使いが住んでいたという屋敷は中央の国にあるから、普通ならば中央の魔法使いたちの仕事だ。しかし、彼らは先ほど任務から帰ってきたばかりで、その上明日は新たな調査に向かう予定となっていた。端的に言えば多忙なのである。
「この任務は断ろうかと思っていたんですけど」
賢者の言葉をオーエンは鼻で笑った。
「魔法使いの屋敷なんだろ? きっと魔法を使った仕掛けが眠っているはずだよ。今は問題が起きてなくても、〈大いなる厄災〉のせいで主を失った呪具や残された魔法が暴走するかもしれない。それで誰かを殺したら? 全部全部怠惰で無責任な賢者様のせいだよね」
「どうせその呪具とやらが目当てなんだろ?」
カインは賢者と、彼をいたぶろうとするオーエンの間に割って入る。オーエンは小さく舌打ちした。
「とはいえ、オーエンの言うことも気になるな。確かに管理されていない呪具や魔道具でトラブルが起きたこともあったし……。と問題がないかだけ確認してきた方がいいかもな」
「確かにそうですね」
賢者は頷くとすっと視線をオーエンに向けた。
「オーエンにお願いできますか?」
オーエンは意外そうな顔をした。使命感でも奉仕精神でもなく、ただ魔法使いの遺産をくすねることだけを考えているオーエンを、賢者が指名する意図が彼にはわからないのだ。
「僕は人助けがしたいわけじゃないけど」
「でも、異変が起こっていないか見てきてくれるんですよね」
オーエンは面白くないという顔をした。自分で言い出したことではあるが、どうも賢者の思い通りに使われている気がすると思ったのだろう。カインは自分たちの賢者が、優しさに満ちた心の水底に、ほんの少しの大胆さとしたたかさを隠しているところが好きだった。
「他の魔法使いの助けは必要ですか?」
「誰に言ってるの?」
オーエンは挑戦的に賢者へと言い返した。
こうして中央の魔法使いたちの代わりにオーエンが魔法使いの屋敷を見に行くことになったのだった。
カインは別にオーエンのことを心配していたわけではない。オーエンが強大な力を持つ北の魔法使いだということは嫌と言うほど知っていた。大抵のことを彼はひとりで解決できるはず。
むしろ、魔法使いの屋敷で余計なことをしていないか、依頼を寄越した近所の人たちが困るようなことをしていないかが気がかりだった。だから、中央の魔法使いたちとの任務を終えるとカインは一人で依頼書に書かれていた住所へと向かった。すでに時刻は日暮れ近く、オズが魔法を使えなくなる頃合いだから、行くと言えば彼に止められるとわかっていた。もちろんアーサーとリケを巻き込むわけにもいかない。
そうしてカインが魔法使いの家に到着したのは夕日が水平線の際を染め上げる頃だった。
「オーエン」
魔法使いの屋敷は街の外れにある。そう大きくはないが一人住まいにしては広い二階建てだ。
玄関の鍵は開いていた。元から開いていたのか、オーエンが開けたのかはわからない。カインは「お邪魔します」と断って、中に入る。一階にはキッチンとバスルーム、それに応接間を兼ねたリビングがある。亡くなったのは数年前と依頼書に書いてあったが、埃っぽさはあれど室内は思ったよりも綺麗だった。一階を一通り見て回ると、カインは階段を上って二階へと上がった。
二階には二部屋ある。カインは右側のドアに近づいた。ドアノブを回すとやはり鍵はかかっていない。そっと押し開く。
「あっ」
目の前のオーエンと目が合った。オーエンは床に座ってこちらを見上げていた。カインとオーエンの間には、小さな家の模型がある。ドールハウスというやつかもしれない。精巧な作りで、家の中にはミニチュアサイズの家具や調度品も揃っていた。
「オーエン」
扉をくぐって部屋を入ったその瞬間に、魔法の気配がした。あっ、と思って反射的に呪文を唱える。
「《グラディアス・プロセーラ!》」
身を守るための魔法をやすやすと破って、カインが踏み抜いた魔法が襲い掛かる。
「くっ……」
急に頭が重くなって、瞼が否応なしに落ちてくる。
「騎士様」
オーエンの声が聞こえる。答えなければと思うのに声が出ない。とても眠い。
そうしてカインは襲い掛かる睡魔に身を任せた。
◆◆◆
オーエンに殴られて目を覚ますまでカインは眠っていたようだった。
「扉は開かない。窓はなし」
カインは冷静に部屋を見て回った。カインが目覚めたのは薄青の豪奢な寝具で整えられたベッドの上だった。調度品はカインの目から見ても高価なものであることが見て取れた。ベッドも二、三人が横になれるのではないかというほど広く、天蓋がついている。クローゼットや鏡台もあったが中身は空っぽだった。
寝室の中には小さなカップボードがあり、そこにはコーヒーカップとグラスが並んでいる。戸棚を開けると、水の入った水差しが出てきた。驚くことにほんのりと冷たい。カインは匂いを嗅いでから、グラスに水をわずかに注ぐと注意深く口に含んだ。新鮮な汲み立ての水の味がする。
「水があるならしばらくはなんとかなりそうだ」
ついでに戸棚にはいくつか菓子の入った箱も出てきた。食料と水があるのなら当面の心配はない。
「この部屋を魔法で壊すのは?」
「試したけど無理」
「オーエンでも?」
オーエンは柳眉を逆立てる。
「さっきも説明しただろ。ここは空間それ自体が手の込んだ魔法なんだ。強い魔法がそもそも使えない」
オーエンによると、ここは魔法によってつくられた空間らしい。空間を構築する魔法はだいたい大がかりなもので準備がいる。媒介となる呪具を用意して、あらかじめ展開される空間を魔法陣や力ある言葉を用いて記述する。そして、魔力を注ぎ込むと編み上げられた通りに空間が展開される。
そういう話を確かにカインも聞いたことがあったかもしれない。中央の国の授業は、オズの話す一を聞いて、十になるようにアーサーがまとめ、リケが百の質問をするものだから、理解するどころでないこともあるのだ。
「じゃあ本当に出られないのか?」
カインの質問にオーエンは顔を逸らした。
「鍵があるはずだ」
「鍵?」
「ドアの開かない家はないだろ?」
オーエンの言葉が当たり前すぎて一瞬理解できなかった。
「ここが僕たちのように誰かを閉じ込めるのに作られた空間だとして、ドアが開かないはずがない。だって僕たちが入ってきたんだから」
「あっ……」
「ミスラの空間移動みたいにドアがなくても移動させることはできる。でもそういう魔法はとても難しい。だから、普通ならこうする。ドアを作って鍵をかける。そして――鍵を隠す」
では、その鍵はどこに。
オーエンは苛立たし気に髪を掻き上げるとカップボードの近くにあるソファにどすんと腰を下した。
「おまえ」
「は?」
「だからおまえだよ。鍵はおまえの中にある」
「俺の中にあるなら、それを使って出られるってことじゃないのか?」
深いため息をついてからオーエンは答えた。
「鍵を使うには取り出さないといけない。だから、騎士様を殺せば僕たちはここから出られる」
オーエンは赤い右目でカインをじっと見た。
「……俺を脅すための冗談?」
オーエンは答えなかった。ただ静かに立ち上がるとカインの傍に寄ってくる。
「きみを殺すだけでいいんだ」
とん、とオーエンの指先がカインの額を突く。
「《クアーレ・モリト》」
ふっと体の感覚が消失する。カインの自由を奪うことは、オーエンにとってこの空間の中でも容易いことだった。どん、と体を押されて先ほどオーエンが座っていたソファの上に仰向けになって転がされる。オーエンはカインの上に覆いかぶさり、彼の背中を柔らかいソファに押し付けた。
「殺すだけでいい」
オーエンの両手がカインの首筋にかかる。本能的な恐怖が背中を撫でた。
「やめ……ろ」
唇は動いたが、腕も足も動かない。それでも体の感覚がすべてなくなったわけではないようだった。なぜなら、首筋に触れたオーエンの指先がびっくりするほど冷たくて、震えているのがわかったからだ。
「オーエン?」
明らかに殺意を向けられているのに、恐れるよりも戸惑いの感情が勝っていた。首筋に食い込むオーエンの指先は凍えていた。確かに気道を狭めているが、それ以上力がこもることも、力が抜けることもない。
「殺せばここから出られるのに……」
オーエンの血の気のない顔に脂汗が浮かんでいることに初めて気づいた。不安定に瞳が揺れている。なぜか首を絞められているカインよりも苦しそうに見えた。
「どうして殺せないんだろう……」
初めて絶望を知った者が発する悲鳴のようにオーエンは声を漏らす。ぽたりと彼の左目から涙が溢れてカインの瞼の上に落ちた。
いつの間にか自分の腕が動かせることに気づいて、カインは自身の首に掛けられたオーエンの指先に自分の手を重ねた。少しずつオーエンの指先の力が抜けていくと、ようやくオーエンの手がカインの首筋から離れた。その右手の指先をカインは体温を分け合うように握り直す。そして、そのまま彼の背中に腕を回すと体ごと引き寄せた。力の抜けたオーエンの体にちゃんと一人分の重さがあることになぜか安堵する。
小さいオーエンが閉じられた空間をひどく嫌がっていることは知っていた。カインは未だにいつものオーエンと小さいオーエンの類似と差異に戸惑っている。性格は全然違うのに、動物と話すことができることや甘いものが好きなところはよく似ている。初めは違うところに驚いていたが、近頃は同じところに困惑を覚える。小さいオーエンとカインの目の前に現れて残酷に目玉を奪ったオーエンが、確かに地続きの存在だと示されているようだからだ。
だから、予想はできたことだったのかもしれないが、カインの考えはそこまで及ばなかった。オーエンが――カインにとって因縁の相手であるオーエンもまた、出口のない部屋を恐れていることをカインは気づいていなかった。
◆◆◆
鏡台の鏡に映った自分の腫れた頬を見て思わず「痛そ」とカインは口にした。実際痛い。
カインはグラスに入った水をオーエンに差し出した。
「水だよ。飲んだ方がいいと思う」
あの後、オーエンはカインの腕の中で気を失っていた。とりあえずベッドに寝かせて様子を見ていたが、少なくとも顔色は随分ましになった。目を覚ましてからもぼんやりと天井を見ていたが、カインが呼びかけると緩慢に体を起こしてグラスの水を啜った。
ベッドの上に腰を下ろしてオーエンの表情を顔にかかった前髪越しに窺う。大人しく水を飲むとオーエンは手元のグラスに視線を落とした。
カインの首筋にオーエンの指の感触がまだ残っているような気がする。オーエンはいつでもこの部屋を出ていける。鍵はここにあって、オーエンにはそれを取り出して使うだけの力がある。
どうして殺せないんだろう。
そう呟いたオーエンが今も途方に暮れたような顔をして隣にいる。
オーエンが自分を殺せない理由をカインは言葉にしてみることができる。それが真実かは別として、推測できるくらいにはオーエンと同じ時間を過ごしてしまった。
ところが、オーエンには皆目見当つかないらしい。戸惑って混乱している。カインが口にしたら、本当に彼の形が壊れてしまうような気がして口を噤んだ。自分を傷つけて楽しんでいた男に対して優しすぎるなと思う。
けれど、きっとオーエンが自分を殺せない理由は、自分が彼の心を守ってやりたいと思う理由にとても近しいものなのだ。
「悪いけど、俺はまだ死にたくない」
カインの言葉にオーエンは顔を上げた。
「僕を助けてくれないんだ」
嫌味にしては弱々しく、自嘲がこもっていた。カインがオーエンのために死んでやる義理なんてないとわかっている顔だった。
カインは自分の命を惜しむつもりはない。魔法舎にはカインよりも強い魔法使いがたくさんいる。戦略の話をするならこのカインの命一つで彼らを守れるのならいくらだってくれてやってもいい。冷静にそう考えることができる。
でも今は、そうじゃない。まだ自分たちには足掻く時間がある。どれだけオーエンが苦しそうな顔をしていても、カインは二人で生きてここから出ることを諦めるつもりはなかった。
ここから生きて出る方法を必死に考える。扉も物理的に蹴破ろうと試してみたが軋みもしなかった。隠し扉がないかと、オーエンが気を失っている間に部屋中を調べたが見つからない。多分オーエンもカインが眠っている間に同じことをしたのだろう。二人で探してないのなら、本当にないのだろう。
「なあ、なんで俺は眠ってたんだ?」
「知らない。僕が気づいたときにはきみが隣で眠ってた」
オーエンは記憶を辿るように目を閉じた。
「ああ……。でもあの部屋……魔法使いの屋敷の二階の部屋には侵入を防ぐためのトラップがあった。騎士様は気づいていた?」
「トラップ?」
「外部からの侵入者の足止めをするやつ。眠らせるやつだったかも。僕は効果を打ち消す魔法を使ってそのまま中に入ったことは覚えてる」
「全然気づかなかった」
「不注意だな。だとしたらおまえが眠ったのはそれを踏んだせいだろ」
何かが引っ掛かる。
「おまえは依頼にあった魔法使いの家の二階にいた」
「うん……」
「俺は任務が終わった後に一人で魔法使いの屋敷を訪れて――。なあ、あのとき俺とオーエンは会ってるよな」
「知らない」
オーエンは困惑を浮かべた。彼はカインの姿を見たことを覚えていない。
ぱちりとカインの頭の中でバラバラになったパズルが嵌っていく。
「この部屋の魔法を起動させたのは誰だ?」
手の込んだ空間構築の魔法。媒介を作ったのは亡くなった屋敷の主人だろう。では、誰が魔力を注ぎ込んで動かしたのか。カインにはそんなことをした記憶はない。二階の部屋でオーエンを見つけて部屋に踏み込んでからすぐに意識を失っていた。
オーエンは迷子になったようにそわそわとした様子でカインから目を逸らした。
「もしかして記憶がないのか……?」
「記憶がないのはよくあることだし、魔法のせいだと思っていた。騎士様がいるのも……おかしいとは思ったけど……」
カインとオーエンに魔力を注ぎ込んだ記憶はない。だとしたら、残る魔法使いはもう一人のオーエンだけだ。
はあーっとカインは大きくため息をついた。
「大事なことは先に言ってくれ」
「なんだよ偉そうに」
オーエンはカインの腫れた右頬を指でつまんだ。
「痛っ!」
「痛そう」
「痛いんだよ。ああもう……! ここから出たらおまえのこと一発殴りたいくらいだ」
「いいの? 僕の綺麗な顔、賢者様が気に入ってるけど」
「へっ!?」
予想外のオーエンの返答にカインが固まったのを見て、オーエンはくすくすと笑った。オーエンが笑っていることに安堵の気持ちが湧き上がってきて、文句を言いたかったはずのカインも結局笑ってしまった。
「整理しよう。オーエンはトラップを解除して部屋に入った。そこで厄災の傷のオーエンになった」
「そうだと思う」
「そこに俺がトラップを解除せずに入って眠った」
「間抜けだね」
カインとしてはぐうの音も出ない。
「鍛え直すよ。――そして小さいオーエンが魔法を使ってここに閉じ込めた」
なぜ小さいオーエンがそんな魔法を使ったのかはわからない。本人が意図していたのかそうでないのかも。ただ、これで何が起こったのかはおよそ推測ができた。
「僕が使った魔法か」
「なんとかならないか?」
「さあね。あいつのことを僕は知らない」
でも、とオーエンは言葉を切るとカインの体を上から下へと眺め回した。
「魔法を使ったのが僕なら辿れるかもしれない」
◆◆◆
なんでこんなことにと思いながらカインはオーエンのされるがままになっていた。
「気が散るから動くな」
「だって……くすぐった……いっ!」
ベッドの上に転がされたカインの素肌の上をオーエンの指が滑る。
はじめ全裸になれと言われたのを必死に拒否して下半身は膝までズボンをまくるので許してもらった。しかし上半身は見事にインナーに着ていたタンクトップまでむしり取られている。
「ここでもない?」
心臓の下あたりの皮膚をオーエンは指先で擦る。ぴりっと電流のようにオーエンの魔力がカインの体の中を走り抜けるのだが、なんだかこれがくすぐったいような変な感覚になるのだ。
オーエンが探しているのは魔法の綻びだった。それは洋服の糸端を探すような作業だという。
「僕たちを入れるためのものが扉なら、綻びはこの部屋にある家具のための搬入口みたいなもの。この空間を作ったら当然閉じられるし、普通は魔法を使った本人がなんとなくわかるくらいなんだけど」
魔法を使ったのは厄災の傷によって生まれたオーエン。それでもオーエン自身には違いがない。
「背中見せて」
オーエンがぺちぺちとカインの脇腹を叩く。
「きみを鍵にするならどこかに……」
背骨をつつ、と指先で撫でられてカインはくすぐったげに身を捩った。
「動くなってば」
「そんなこと言っても……」
「おまえはここから出たくないの?」
「出たいさ」
「じゃあ……」
「オーエンならなんとかしてくれるだろ? 焦らなくたって」
むっとオーエンは口を閉ざして、それからわざとらしく話題を変えた。
「なんで僕はきみを鍵にしたんだろう」
「それは……」
小さいオーエンはカインのことを慕っている。その分、カインがオーエンを置いていってしまったことは、彼をひどく怒らせた
「あいつは俺のこと好きなんだよ」
「は? 自分で言う?」
「本当のことなんだからしょうがないだろ」
オーエンは不満そうな顔をする。自分でなくても、オーエンがカインのことを好きなのが気に食わないという顔だった。
「そもそもなんで好きなのにここに閉じ込めておくわけ?」
「わからないのか?」
好きだから自分のそばに置いておきたい。幼くて自分勝手な願いだけれどカインには理解できる。確かにこの部屋にいる限り、カインはオーエンの元から離れられない。ずっと一緒にいられる。
「わからない。誰かをそばに置いておきたいなんて」
「俺のことも?」
オーエンはびっくりした顔をして、それから目を細めた。
「きみで遊びたくなったら会いに行くよ。いつだって、僕はそうできるから」
はじめに去来したのは寂しいという感情だった。けれど、オーエンの孤独には冬の青空のような潔さがあって、それはなぜか眩く、美しい。強い者だけが抱ける寂しさに、カインはほんの少し憧れるような気持ちになった。
「オーエン……」
「あった」
オーエンはカインの肩のあたりに手のひらを置いた。
「《クーレ・メミニ》」
ちりちりと肩のあたりから全身を何かが通り抜けるような感覚がした。熱いのでも冷たいのでもない。自分が解けていくような不思議な感覚。
そうするうちに窓のない室内に風が吹いた。ベッドの天蓋やシーツがパタパタと揺れて、テーブルに置いたはずのグラスが床に落ちる。
「これ――!」
「大丈夫なのか!」と続けるつもりの言葉は風に流されていった。オーエンの手がカインの手首を掴む。冷たいけれど、もう震えていない指先でしっかりと。
鍵のかかっていない部屋の扉は開く。
◆◆◆
カインが目覚めるとすぐ横にオーエンの顔があった。
「オーエン」
揺り起こすと彼はむずかるように眉を寄せてそれから目を開けた。
「騎士様、生きてる?」
「この通りばっちり」
「よかった。分の悪い賭けだったけど」
「勝手に人の命をベットするなよ」
実際のレートは知らない。でもオーエンに勝てる自身があるのなら、カジノテーブルに載るのだって吝かじゃない。勝負事でわざわざ負けるような奴じゃないことくらいはもうわかっている。
カインたちが目覚めたのは魔法使いの屋敷の二階だった。この部屋には窓がある。外はすっかり闇の帳が下りて、〈大いなる厄災〉の光が室内に差し込んでいた。反対側にはドアが開けっ放しの状態で僅かに揺れている。
「これが僕たちを閉じ込めた魔法の媒介。この部屋には使えそうな呪具や媒介がたくさんある」
部屋中央付近には壊れたドールハウスが転がっていた。出られない部屋の中で脱ぎ捨てたはずの服もカインの傍らに落ちていて、カインはそれを拾い上げて身に着けた。
「なんだか危なっかしいものも多そうだし魔法舎で保管できないか相談してみるか……って勝手に」
オーエンは棚の上にあった不思議な色をしたインク壺を手に取った。カインは呆れつつも、苦労したのだから少しくらいはいいかと目を瞑ることにした。
「カイン」
オーエンはじっと棚を見たままカインを呼んだ。
「ん?」
「こんなのは僕じゃないんだ」
言い聞かせるようにオーエンは口にした。
「出られない部屋なんてない。僕は、僕のために生きていく。そのためならなんだってできる。おまえのことだって殺せる」
「うん」
静かに頷く。
それでも、「どうして殺せないんだろう」と漏らしたオーエンの顔をカインはきっと忘れない。オーエンが信じている自分とは違う心が彼にはあって、カインはそれに触れる度に守りたいと誓う。今のオーエンには必要のないものだとしても。
「わかってるのかなあ」
「ちゃんとわかってるよ。身勝手なやつだなって腹も立ててる」
これも本当のことだ。それでもカインは、オーエンの傍にいたいと思う。
「良かった」
オーエンは小さく口元を綻ばせて、彼自身が知らない気安い友達みたいな顔で笑った。
「もう、帰ろう」
カインが促すと、 オーエンは名残惜しそうにまだ棚を眺めている。彼のその手を取って引く。
この部屋にもこの屋敷にも鍵はかかっていない。
どこにでも行ける。
どこにでも行ける二人は、魔法舎に帰る。