雨が止むまで

 そこにいたのは気まぐれだった。

「オーエン?」
 賢者と呼ばれるその人間は、他の人間や魔法使いと同じようにオーエンを恐れている。そのくせ名前を呼ぶ時は淀みなく、黒い瞳を真っ直ぐに向けてきた。
 誰かに会うとは思わなかったから小さく舌打ちをする。賢者にも聞こえているだろうに、彼は何も言わなかった。
「カインですか?」
 オーエンは答えなかった。
 外は雨が降っているから、死にかけた彼の顔を見てやろうと思ったから。そういう言い訳を口の中に転がして、魔法舎の二階にあるカインの部屋の前に立っていた。それをまとめてしまえば、確かにカインに用事があったのかもしれない。
「良かった」
「何が?」
 賢者はカインの部屋の扉に触れた。その時何が仕掛けられているのか気づいた。
「オズ?」
「はい」
 仕込まれていたのは一種の結界だろう。鍵は賢者。近づけばわかるはずのそれに今まで気が付かないなんて、いよいよどうかしている。
 賢者と行き合わなければ、この扉を開けることもできなかった。こじ開けることは可能だけれど、そうすればオズと一線交えることになっていたのだろう。
「僕が今度こそ騎士様を殺しにくるかもしれないからね」
「ごめんなさい」
 賢者はオーエンに頭を下げた。
「魔法を仕掛けたのはオズでしょ」
「はい。でも俺が頼みました」
 オーエンはまばたきを止めて、扉からゆっくりと賢者に視線を向けた。
「もちろんオズに細かい事情は話していません。俺もよくわかっていないから。でも厄災の傷が原因なら、オーエンが望んでいないことが起こるかもしれないと思って」
 言葉を切ると、賢者はもう一度「ごめんなさい」と言った。
「僕が……望んでたら? もしかしたら騎士様のことをずっと殺してやりたくてたまらないのかも」
「俺がそう思ってたら、あなたに謝りません」
 賢者の言葉には迷いや躊躇いはなかった。
「あなたも、もう一人のあなたもオーエンです。だから、こうして疑うのは悪いことだと思っています。それでもあなたのためにオズにお願いしました。赦さなくてもいいです」
 そして、そっと賢者はカインの部屋のドアを開けた。
「一緒にいた方がいいですか?」
「好きにして」
 賢者の答えは、このやりとりが起こることをあらかじめ想像して、何度も何度も反芻していたようだった。何かに祈るように彼は告げる。
「三十分後に様子を見にきます」

 カインの部屋には何度も入ったことがある。自分が足を踏み入れたこともあったし、気づいたらそこにいたこともあった。
 部屋に一人で入ると、知らず知らずのうちに足が止まる。全身が凍りつくような感覚に唇を噛んだ。
 何が怖いのだろう。三十分の間にカインを殺してしまうこと?
 怖いのではなく、自分の知らないところで何かが起きるのが腹立たしいのだ。そう言い聞かせれば一歩、足がベッドに向く。
 眠っているカインの顔は最後に見た時よりずっと血色が良かったし穏やかに見えた。胸が規則正しい呼吸で上下している。
「つまんない……」
 窓の外で響く雨音にかき消されるくらいの声音で呟いた。
 それからどれくらいベッドの脇に立ったまま彼を見下ろしていただろうか。震えるようにカインの瞼が開いた。
「オーエン……?」
 二色の瞳の焦点が、ぼんやりとオーエンに当たった。オーエンはぴくりと肩を動かしてそれから何も言わなかった。不機嫌そうでも愉快そうでもなく、ただじっとカインを見下ろすその顔に表情はない。
「大丈夫か……?」
「それ、おまえが言うの?」
 カインがほんの少し笑った。
「大丈夫だよ」
「違う」
 思ったよりも強い声が出た。カインがゆっくりと伸ばした手を振り払った。
「どうして憎まないの? どうして恐れない?」
 カインの顔に浮かんが困惑を見て、オーエンは言い募った。
「赦すなよ。赦して綺麗なままでいてたまるもんか。おまえは……」
 オーエンが訊いた言葉はカインに届かなかった。遠くで雷の音がした。雨の音が一段と強くなった気がする。
 目を背けるな。こちらを見ろ。
 憎しみと恐れと怒りと──そういう感情の先で、この男がどういう顔をするのか見てやりたい。違う。期待なのだ。きっと。
「ごめん……」
 その謝罪がどういう意味のものだったのか、カイン自身もおそらくわかっていないだろう。眠そうに瞼が落ちると彼はそのまま再び眠りに落ちてしまった。フィガロの魔法によって傷自体は塞がれたが、体力の消耗は激しく、カインは長い眠りと短い覚醒を繰り返しているようだった。
 もしかしたら次に目覚めた時には、この会話なんて覚えていないのかも。そうであればいい。

 控えめなノックの音がした。それから静かに扉を開けて賢者が入ってくる。
「カインと話せましたか?」
 オーエンは首を振った。嘘をつくことに罪悪感なんてない。人間も魔法使いも嘘をついて誤魔化して、虚飾に塗れた姿で生きているものだ。オーエンはそういうものを暴き立てるのが好きだった。美しい嘘と清廉な仮面の下にある汚いものを引き摺り出してやりたい。そして、大抵の者は勝手に破滅していく。そうなったらもう興味はそそられなかった。
 木からりんごが落ちるように、雷の音よりも速く空が光るように、人間や魔法使いの醜さを、不動の真理としてオーエンは知っている。
 それでも、そうでないことがあるのかもしれない。予感のようでもあり、期待のようなものでもある。だから知るために、美しい瞳を一つ奪った。それでも、まだ足りないらしい。
「雨、止まないですね」
 賢者は薄暗い窓の外を見てからカーテンを引いた。
「こんなに強い雨だと、土が流されて埋めたものが出てきちゃうかもね。賢者様は都合の悪いもの、埋めてない?」
 雨が降っているうちは誰も気づかない。けれど、晴れ渡った空の下、陽の光に照らされて真実は明らかにされるだろう。そこにあるものをオーエンはずっと待っている。
 失望と千年のうちに思い知った真理の証明を待っている。
「埋めてませんよ。あ、でもこの間ミチルとリケと一緒に埋めた花の種が流れちゃったら困るかも。ちょっと見てこようかな」
 それから賢者はオーエンに目で問いかけた。「どうする?」と。
「雨が止むまでここにいていい?」
「はい」

 雨はいつ止むのだろう。