猛獣使いの夜

 その頃オーエンは南の国で暮らしていた。鬱蒼とした山奥に突然現れた家は、場違いにまともな作りでカインは初めて見た時大笑いしてしまった。その結果、そのまま三日家に上げてもらえなかった。
 最近めっぽう人間の増えた南の国は、オーエンにとって心地よい場所らしい。人間が増え、街が発展すれば自然と諍いごとも増える。そういうものに触れることが、彼が魔力を得るのには最適なのだという。その点、情勢も人も落ち着いた近頃の中央の国は、彼にとって退屈だったのだろう。カインと暮らしていた家をある日突然出て行ってしまった。
 腹が立たないと言ったら嘘になるが、長く共にいるうちに、たかが百年程度の家出なんて外出と変わらないという気持ちになっていた。今回はちゃんと便りも来たことだし。
 オーエンの家を訪れるのは確かこれで四度目だ。カイン自身もここ数十年は世界中を放浪している。かつて賑やかだった魔法舎も、今は数人の魔法使いが時折立ち寄るに過ぎない。各地を周れば、その土地にゆかりある賢者の魔法使いと再会することもできた。
 そして今、オーエンの家を訪れたカインは、立派なたてがみを持ったライオンと共に眠っているオーエンの姿を見つけて硬直していた。ライオンはオーエンよりも大きな体を丸めている。オーエンはその横でライオンの前足を枕にして眠っていた。ライオンの姿にばかり目を取られていたが、彼の周りには犬や山羊の姿もある。
「オーエン……?』
 カインは他の動物たちを起こさないようにオーエンの肩を揺すった。どうしても彼が頭を載せているライオンの前足が気になる。
「ん……騎士様?」
 オーエンは薄目を開けた。大きなあくびを一つ。
「勝手に邪魔して悪い……けど、これどういう状況なんだ?」
 ぐるりとオーエンは部屋の中を見渡して、「ああ」となんでもないようにあくびまじりの声をあげる。
「勝手に入ってくるんだよ。この辺は動物が多いから」
 オーエンが起きたからか周りの動物たちも動き出す。
「そうだよ。お客さん。だから今日はお前たちも外に行って。いいでしょ。晴れてるんだから」
 オーエンは周りの犬や山羊たちと言葉を交わす。甘えたような声をあげている動物たちだったが、オーエンに促されると鍵のかかっていない扉から外に出ていった。残ったのはライオンだけだ。
 今のカインにとって、野生動物は大した敵ではない。剣でも魔法でも退治する自信はある。けれど目の前にいる獅子の堂々たる様子に、いささか気圧されていることは否めない。
 ライオンはのっそりと起き上がると片目を開けた。
「これが騎士様。満足した?」
 オーエンはライオンに語りかけた。猛獣を前にしても、彼は子猫にするのと変わらない様子で声をかけている。動物とどんな会話をしているのか、カインはオーエンの言葉から推測するしかない。けれど、ライオンが自分に対して向ける目線は明らかに「品定め」といった風だ。これはこれで居心地が悪い。
 しばらくライオンはぐるりとカインの周りを回っていた。のそのそと歩きながら時折彼のズボンの裾や魔道具である剣に鼻を寄せる。最終的には満足した様子で、オーエンに何かを告げて外へと出ていった。オーエンは微妙な顔をしている。
「なんて?」
「なんでもない」
 オーエンの周りに動物がいるのは珍しくなかった。前に訪れた時もどこからかやってきた動物たちが家の中にいた。けれど、ライオンに会うのは初めてだった。
「この辺ってライオンがいるんだな」
「ライオンは力関係に敏感だから、僕の前には姿を現さなかったんだけどね。あの子は特別。好奇心が強くて、僕の側にやってきた。とって食われるかもしれないのにね」
 オーエンはくすりと笑った。馬鹿にしたような物言いだが、それだけ気に入っていることもカインにはわかった。なにしろ、向ける好意の質が自分に対するものと良く似ているので。
 オーエンは動物にするのと同じ手つきでカインの頬を撫でた。
「昔サーカスで見た猛獣使いみたいだな」
 カインが素直に感想を述べると、オーエンは指先でカインの額を小突いた。
「誰が猛獣だって?」
 言われるとは思ったけれど、なんだか面白くない。久しぶりに再会した恋人を、頭から丸呑みにしたいくらいの欲望はあるというのに。
 唇に噛み付くようなキスをする。猛獣使いの彼は拒まなかった。
「久しぶり」
 順番がおかしなことになっていたけれど、カインはそうやって久しぶりの恋人に挨拶した。
「いらっしゃい」

 星がよく見える場所は近頃めっきり減っていたが、ここからはよく見える。ベッドの横にある窓を開けて、カインは星あかりを見ていた。隣にいるオーエンにとっては当たり前の光景のようで、興味なさげにランプに灯りをつけて、カインの預かってきた手紙を読んでいた。賢者の魔法使いたちの何人かが、カインにオーエン宛の手紙を預けていたのだ。
「人はいないけど賑やかだよな」
 この家、とカインが言うとオーエンは皮肉げな笑みを口元に浮かべた。
「お客さんはすぐにいなくなってしまうけどね」
 人間の一生すら魔法使いからするとあまりに短い。山で暮らす動物たちの寿命はもっと儚くて、すぐにいなくなってしまう。
「あの子はきみを見たいって言ってた」
「あの子?」
「ライオンだよ」
 ああ、とカインは昼間見た獅子の姿を思い出した。
「僕とずっと一緒にいるやつが、どんなやつが確かめてくれるって」
「それであんなに見てたのか」
 本当にあれは品定めだったらしい。
「みんないなくなってしまう。変わらないのは、ほんの少しだけ」
 オーエンは手紙を雑に畳んで封筒に突っ込んだ。
「俺は、ずっとおまえの側にいるよ」
 オーエンはそれを聞くとふんと鼻をすすった。
「騎士様は危ないことに首を突っ込むだろ。一番早く死んじゃいそうだけど」
 オーエンはひらひらと封筒を振った。送り主はクロエ。彼と会った時にちょっとした大立ち回りをしたことが、手紙でバラされたらしい。書くなと念を押したはずだったのだが。
「まあいいや」
 オーエンは興味がない、というようにそっぽを向いた。
「別にきみがどうなったって構いはしないんだ」
 自分に言い聞かせるようなオーエンは呟いた。そんな彼をカインは背中から抱きしめると耳元で囁いた。
「あのさ」
「何?」
「しばらく俺と旅に出ないか?」
「なんで?」
「なんで……っていうか、楽しそうだろ?」
 これまでの感じならそろそろここでの暮らしにも飽きてきた頃だろう。それに、ほんの少し寂しさもあるのではないかとカインは推測する。
「旅ね……」
「俺も寂しいんだよ」
 朝起きて、誰の姿も見えない生活は。
 オーエンは少し目を丸くして、それからにやりと悪巧みをする顔をした。
「それなら仕方ないな」
 言い訳をひとつ、与える。カインは猛獣という柄ではない。むしろ、獰猛で美しい獣を手懐ける方がずっと得意だった。
「手紙の返事もしたいだろ」
 もうひと押しして、肯定を引き出す。