オーエンが賢者に対してはするのに、カインに対してはやらないことがいくつかある。
「じゃあね。賢者様」
二階から三階に続く階段に足をかけると、オーエンはそう言って身を翻した。
「おやすみなさい。オーエン」
そんな二人の姿を偶然目にして、カインは自分の胸のうちに生まれたちょっとした苛立ちに驚く。
オーエンは自分にあんな風にしない。
二階に自室がある自分と五階に部屋を持っているオーエンは当然こうして階段で分かれるはずだ。でも、思い返せばいつだって彼はその前に姿を消す。決まりごとのように「殺されたいか」「殺されたくない」というやりとりを一往復して、それから少し言葉を交わすと不意にオーエンはカインの前から魔法で消えてしまうのだ。だから、こうやって階段の上と下で声を掛け合うことなんてない。
それがなんだと言われればそこまで。こだわるようなことじゃない。でも、なんとなく賢者のことがカインは羨ましかった。
その日の任務は大したことのないものだった。王都からも近いある街の水源を調べて欲しいというものだ。大した以上はなく、中央の魔法使いと東の魔法使いによって難なく依頼は解決した。
「こういう泉の調査って多いよな」
「水源は精霊が集まりやすいからな。厄災の影響を受けやすいんだろう」
ファウストはカインの疑問になんでもないというように答える。カインの何倍も、何十倍も生きている年長の魔法使いたちはこうやって何でもないように彼らの知識を披露する。
ああ、でもオーエンは――こうやって何かをカインに教えると得意そうな顔と不満そうな顔を同時に浮かべる。昨夜の一幕のせいか何故か頭の中にオーエンがちらつく。任務のときは集中しなければ、と気合を入れ直す。
「《グラディアス・プロセーラ》」
カインは呪文を唱えるとこの周辺に残った自分の髪の毛や爪といった媒介になりうるものを消し去る。
「どうしたんだ?」
シノに問われてカインは答える。
「いや、なんか爪が割れちまってさ。どこかには落ちてるだろうからこれでいいだろ」
爪が割れたとして、欠けた爪を気にしたことなんて今までなかった。魔法舎で生活するようになり、他の魔法使いから媒介になり得るものに気をつけるようにと言われてからは、こうして気にかけている。
「この程度の魔法を使うのにそれほど気張る必要はない」
オズがぽつりと言う。
「ああ……。なんか細かい魔法の方が気合いがいるんだよな……」
こういうところが未熟なんだよなと思いながら、カインは爪の欠けた右手の人差し指を庇いながら頭を掻いた。
魔法舎に戻ってくると、同じく任務に出ていた北の魔法使いたちはすでに帰ってきているようだった。なにしろ、魔法舎の一部が吹き飛んでいたので。中央の国の魔法使いも東の魔法使いも苦笑とため息と呆れでそれを受け入れた。カインも「しょうがない奴らだな」と思うと自室に戻ることにする。
階段を上って二階へ。そこでオーエンとばったり遭遇した。
「オーエン。任務帰りだろ? お疲れ」
「ミスラに突然攻撃されるし最悪」
「それは……大変だったな」
オーエンはたいそう機嫌が悪そうだった。カインは人差し指を一つ立てて提案した。
「こういう日は美味い飯でも食って、とっとと寝るに限るぞ」
はあーっとオーエンは深いため息をついてから、ふとカインの人差し指の先を見た。
「爪、どうしたの?」
「ん? ちょっと任務のときに割れちまったんだよ」
「ふうん」
オーエンはカインの指先をまじまじと見た。
「ちゃんと媒介として利用されないように処理してきたよ」
オーエンは呆れたような顔をする。
「当たり前だろ」
そう言うと、笑うみたいに呪文を唱えた。
「《クアーレ・モリト》」
すると、カインの爪は朝魔法舎を出たときと同じ長さにまで戻った。カインはまじまじと自分の指先を見てから、にかっと笑った。
「ありがとな」
「これくらいできるようになれよな」
オーエンは呆れた調子でそう言うと三階へと向かう階段に足をかけた。いつも通りの何でもない様子でその言葉を口にする。
「じゃあね」
それはカインがしてほしかったオーエンの姿で、しかしいざ目にするとそのまま「おやすみ」も「またな」とも言えない。
「この後、おまえの部屋に行っていいか?」
「は?」
オーエンは困った顔と怒ったような顔を交互に見せてそれからパッと姿を消した。
ああ、もったいないことをした。確かにそう思う一方で、この後のことを考えると思わず足が軽くなる。
「ノー」とは言われていない。本当に嫌なときのオーエンは「やだ」とすげなく断るので、まあつまりダメってことはないのだろう。
カインは心を弾ませながら着替えに自室へと戻った。