斜線堂有紀「本の背骨が最後に残る」のパロディです。
ハッピーエンドルートは多分ない。
「あんた運がいいな」
その国に足を踏み入れ、カインが「本」について尋ねると、人々は口々にそう言った。ちょうど近く版重ねが行われるのだという。
「しかもいばら姫だ。これは面白い版重ねになる」
カインはそれを聞いてなんとか口角を上げ、「それは楽しみだ」と無理やり言葉を絞り出した。
版重ね。それは人を焼く儀式だ。
カインはある国の騎士だ。今はやんごとなき第一王子に仕えている。その主君からの密命でこの人を焼く国を訪れた。
広場には大勢の人が集まっている。彼らの視線の先に二つの大きな籠がある。両方に人間が――この国の言い方をするならば「本」が入れられていた。
「版重ね――題は『いばら姫』」
校正使の宣言で版重ねが始まった。それはカインの目には異様としか思えぬ光景だった。籠の下では煌々と炎が燃えている。にも関わらず、籠のなかの本は落ち着いているように見えた。
「そちらからどうぞ」
声が響いた。カインから見て右側の籠にいる本が発したものと気づくのに、数瞬を要した。驚いたのはそれが男の声だったからだ。本は女が多い。といっても、本になった瞬間から性別など関係はなく、その本も性別というものを超越した異様な雰囲気を纏っていた。
本はその物語を際立たせるために飾り立てられるのが通例だが、それを差し引いても美しかった。銀の髪、細い首筋。言葉を発するとこくりと喉仏が動く。その首筋を引き立てるように胸元から何本ものタッセルがついた華美な洋服を纏っていた。服の重さに負けるように、その本は右手を籠の底につき眠たそうに目を伏せている。
そして何よりも目を引くのは色違いの双眸。夕焼けの赤、朝焼けの金。
その特徴でカインはその本こそが八度の版重ねを乗り越えた「いばら姫」であることがわかった。
挑戦者である左の籠にいる本も美しかったが、いばら姫と比べると凡庸に見えるのだから不思議なものだ。
「――眠ったままの姫の元に隣国の騎士がやってきます。彼は姫に口付けします。相違ありませんか?」
「相違ない」
物語の終盤になって、双方の籠は始まった時よりも随分と様子が変わっていた。左の籠の方は炎により近く、右の籠は遠くなっている。左の籠の本は明らかに焦っていた。一方で右の籠にいる本は――あの美しい男は、至って落ち着いている。
「すると姫は目覚め、魔女のかけた呪いは全て解けるのです」
「きみの言うとおりなら、なぜ騎士は姫に口付けたの? 好意を持った? そうだとしたら、眠ったままの女性に断りなく口付けるなんて、きみが語ったような誇り高き騎士様がするのかな」
「それは……」
がこん、と左の籠がまた一つ炎に近づき、小さく本が悲鳴を上げた。
版重ねは正しい本を、正しい物語を定めるために行われる。しかし、それを決めるのは校正使だ。いかに彼らを、そして観衆を納得させられるか。それこそがこの場における正しさだった。
「じゃあなぜ騎士は口付けたと言うんです!」
「彼には思惑があった。主君の命により、彼は姫にかけられた眠りの呪縛を乗り越えて、彼女を殺す。彼が口付けたのはそのための秘薬を彼女に飲ませるためだ」
観衆が沸き立つ。いばら姫のクライマックス。右の籠のいばら姫はぐったりと籠の鉄柵に体を預けると、歌うように告げた。
「しかし、姫はその秘薬を飲んで目を覚まします。そして彼女は魔女から力を与えられたことを思い出しました。この世界を本当に治める主は彼女自身なのです。いばら姫は目の前にいる騎士を殺し、その力によって自分の国も騎士の国も滅ぼしてあたり一帯を支配することになりました。めでたし、めでたし」
「違う! いばら姫はそんな話じゃ――」
左の籠の本の声は最後まで続かなかった。籠が炎に包まれる。人々は歓声を上げた。カインは思わず目を逸らす。反吐が出る。何が本を焼くだ。これは人間を焼いているだけだ。
逸らした視界にいばら姫が映った。彼は生き延びたにも関わらず、何の関心もなさそうに目を閉じて眠っていた。その身に宿した物語のように。
本のことを調べてるように主君が命じたのは、いばら姫の噂がカインの国まで届いたからだった。
「それで、いばら姫に合わせてもらえるんだな」
「はい。もちろん。前金は」
カインは本屋の主人に黙って金を握らせた。それを見て彼は機嫌良さそうにカインを奥の間に通した。
「あれの装丁は気に入りましたか?」
「は?」
「装丁ですよ。ああ――あなたは外国からいらっしゃったんでしたっけ? 見た目です。あなたと同じ色違いの瞳でしょう。あれを作るのには骨が折れました」
その言葉にカインは一つ主君の目的に近づけたことを悟る。
「あれはどうやって?」
「いい薬があるんですよ。おっと……これ以上は企業秘密です。他の本屋に真似されちゃいけねえ。内密に頼みますよ。旦那」
そう言って彼は部屋を出て行った。
いばら姫はさらに奥の間にいた。ベッドに横たわり、ぼんやりと天井を眺めている。
「あの……」
カインはどう声をかけたものかと迷った。あの壮絶な版重ねは前夜のことだ。
「お話する?」
ゆっくりと彼は顔をカインに向けた。あのとき版重ねで見た姿よりもあどけないという印象があった。
「『いばら姫』――」
「悪い、ちょっと待った! 俺はあんたと話がしたくて、えっと――物語を聴きに来たわけじゃないんだ」
そう言うと彼は口を閉じ、それから一言短く告げた。
「変なの」
そうして目を伏せた。
「今とても眠いんだけど」
「悪い。無理に起こさせたな」
「別に。本だから、物語るのが僕の役目」
そう言いながら彼は体を起こそうとする。しかし、ついた腕の力が抜けてふらりとベッドの上に頭が落ちる。カインは慌てて彼の体を支えた
「どこか悪いのか?」
「悪いところなんてないよ。九度目の版重ねに勝利した。この国で今一番美しくて優れた本」
本は本でしかない。物語ること以外の機能がどれだけ損なわれうようとも、誰も気にすることはない。カインが支えたいばら姫の体は不自然なほどに軽く、熱かった。熱があるようだ。あれだけ炎に煽られ続けたのだから当然かもしれない。
彼の足には艶やかなリボンが巻かれ、両足をほとんど開けないようになっている。これでは当然歩くこともできない。けれど、これもまた本にとっては装丁の一部なのだ。
美しい、と思ってしまうことをカインはやめられなかった。一方で、人間に施されていい仕打ちでもないと思う。人間は美しいだけであればいいわけではないのだ。
「飲んでいる薬はないか?」
「これのこと?」
彼は枕元にある薬包に視線をやった。水差しと共にいくらか置かれている。
「今日はおまえが来るからまだ飲まないようにって言われた。これを飲むとすごく眠くなって、話すのが難しくなる」
「そうだろう」
カインはさりげなくその薬包の一つを手につかんだ。
「おまえ変な目をしているね」
「変?」
「右目と左目が違う色をしている。初めて会った」
いばら姫はほとんどその唇がカインの顔に触れるほどの距離まで近づけてからそう言った。おそらく、目が良くないのだ。
「おまえもおんなじように目の色が違うよ。鏡は見ないのか?」
「見たことがないな。本には必要ないから」
カインはそっと薬包をポケットの中に忍ばせる。これこそがカインがこの国を訪れた理由だった。
ある疾患に対する特効薬。子供のうちにほとんどがなくなるという病気の治療薬が誕生したのはカインが生まれて三年後のことだった。お陰様で、大人になることができないはずだったこの身はすくすくと成長し、気がつけば騎士団長にまで登り詰めた。今ではもう死に至る病に冒された子供の面影はほとんどない。唯一、薬の副作用で色が変わり、視力の落ちた左目だけがその名残を覚えている。
その薬が、不正なルートで他国に流れているのを調査してほしいというのが、今回カインが主君から与えられた命だった。何でもその国では人間が「本」として焼かれるのだという。半信半疑で訪れたカインが目にしたのが先の版重ねである。
いばら姫がその薬を与えられているのは見て分かった。不自然な色違いの瞳と視力の低下。それに強い眠気。本来与えられるべきではない量の薬を与えられているのだろう、弱った体。思ったよりも早く、カインは正解に辿り着いてしまった。
「どうして嘘を語るんだ?」
「えっ?」
「『いばら姫』だよ。俺の知ってる話はあんなんじゃない」
カインの国には紙の本がある。本当の『いばら姫』の物語だって当然知っていた。姫はちゃんと助けられるのだ。
「何を言っているの。僕こそが九度の版重ねを乗り越えた本当の『いばら姫』だ」
眠そうな顔を一転させてはっきりと彼は告げる。
「騎士が姫を助けにこないのが?」
「そう」
「それってさ……寂しくないか?」
「寂しい?」
いばら姫はきょとんという顔をした。
「ああ。もしかしたら助けに来てくれる騎士がいるかもしれないだろ?」
いばら姫は何か言おうとしたが失敗した。背を折ると苦しそうに何度か咳をして、それから胸を押さえた。カインがその背中をさすると、彼の体はすっぽりとカインの腕の中に収まる。
「水、飲むか?」
こくりと弱々しく頷いたその口元に、水差しから水を注いだグラスを近づける。しかし、いばら姫は上手に飲めずに咳き込むように水を吐く。
「くるし……」
「大丈夫だ。ゆっくりゆっくり」
カインは自身の指先を水に浸すと彼の唇に近づけた。熱の感じられる唇を湿らせてやるように指で撫でてやると、彼は落ち着いたように息をついた。
「もう眠くて……」
「悪い。無理をさせたな。眠っていて大丈夫だから」
もうこれ以上話をするのは無理だろうとカインはいばら姫の体をベッドの上に横たえて、柔らかい毛布をかけてやる。
カインが買った時間はもう少しある。これほどまでに体調が悪くても、金が支払われれば本は語らなければならない。だから、用事が済んでもカインは自分が払っただけの時間はここにいることにした。
「きみは何だか騎士みたいだね。間違った本が語るやつ」
ふふ、といばら姫は小さく笑むと眠りへと落ちて行った。
カインに救われたら、本としての矜持を失ったら多分死んでしまうので、ハッピーエンドルートはない。