朝食の後、フィガロはいつものように私の部屋を訪れた。
「賢者様。お加減はどう?」
「変わりありません」
「朝ごはんもあまり食べられなかったみたいだけど」
「すみません。あんまり食欲がなくて」
「それは良くないね。食べないと体力が落ちちゃうから」
それからフィガロは聴診器で私の胸の音を聞いて、首筋に触れた。
「食べたいものがあったらフィガロ先生になんでも言って。北の国の果てにだって取りに行っちゃうよ」
私は曖昧に笑った。冗談めかしているけれど、このひとは本当に取りに行ってくれるだろう。
私が病に臥せるようになったのは三ヶ月ほど前からだった。
最初は疲れやすいな、休んでも溜まった疲れが抜けないなという感覚だった。でも、そういうことってたまにある。だから誰にも言わずに放置していたのだけど、任務中に倒れてからは流石に自分の体がおかしいことに気づいた。
私を診察したフィガロは特に病名を告げなかった。ただ、ゆっくり休んでねとだけ言い残した。ああ、これは結構重いやつなのかもしれないと私は察してしまった。
それから三ヶ月、私はまだ生きている。まだ。
体を起こしているのが辛くなって、私はベッドに横たわる。あまり食べられなくなったせいか、長く起きているのが難しい。
「もうすぐ死んじゃうのかな」
口にするとぞっとした。
私はもうすぐこの世を去るのだ。
「旅に出たいって?」
「はい」
驚いた顔をしたフィガロに私は強く頷いた。
「賢者様が元気になったらどこにだって連れて行くよ」
「今がいいんです」
きっぱりと、まっすぐにフィガロの目を見て私は伝える。今、行くことに意味があるのだと。フィガロは私の視線を受けて、落ち着かない顔をした。しばらくしてからフィガロは「わかったよ」と答えた。
「それならちゃんと支度をしないとね」
口にはしなかったけれどこれが旅に出る最後のチャンスだって、私たちはわかっていた。
私の最後の旅に同行してくれるのは南の魔法使いたちだ。
「祝祭のことを覚えてますか? まるであのときみたいですね」
ルチルは私の荷造りを手伝いながら歌うように言った。
「はい。あのときの旅を思い出して、行きたいってフィガロにお願いしたんです」
「それならあのときと同じくらい――ううん、もっと素敵な旅にしましょうね」
荷物を鞄パンパンに詰めて、それをフィガロにぎゅっと小さくしてもらう。他の魔法使いたちがいろいろなものを私に預けてくれた。短剣、コンパス、望遠鏡。
「賢者様の薬もしっかり持ちましたからね」
「頼もしいです」
ミチルはちょっと寂しそうに笑って私の手をぎゅっと握ってくれた。
出発の前日にはレノックスとフィガロが私の部屋にやってきた。
「本当に行くの?」
もう何回聞いたかわからない問いだった。私はいつもと同じように「はい」と答える。
「賢者様のことは俺たちがお守りします。だから安心して旅を楽しんでください」
「ありがとうございます。レノックス」
フィガロはやれやれという顔を崩さなかった。最後までこの旅に反対しているのが彼だった。
「フィガロも。私のわがままを聞いてくれてありがとうございます」
「いいよ」
口調とは反対に表情には不満の色がある。一泊――それもいざとなればその日のうちに戻ってこられる場所への旅行にしようと言ったフィガロに対して、私は南の国に行きたいと言った。祝祭を執り行うために旅したあの日のように。結局妥協の末、南の国を二泊三日で旅することになった。何かあればミスラが迎えにきてくれる。
「よろしくお願いします」
念押しするように私は頭を下げた。
南の塔を出て、私はフィガロの箒に乗せてもらう。彼の背中に私は額をこつんと付けた。
「《ポッシデオ》」
彼の魔法が私を包む。
「守護の呪文をかけてあるから居眠りをしても落っこちたりしないよ。疲れたら眠っていいからね」
「はい。ありがとうございます」
空は晴れていた。心地の良い風が吹く中を南の魔法使いたちは隊列を組んで飛ぶ。ルチルとミチルを先頭に、その後ろをフィガロとレノックスがついている。
最初は青空や眼下の美しい大地を目に焼き付けようとしていた私は、少しすると疲れて眠ってしまった。フィガロの背中は思っていたよりも温かくて大きい。なんだか安心してしまう。
「賢者様」
「フィガロ……」
目的地に着いたのかと思いきや、まだ私たちは飛んでいた。
「下を見てご覧」
「うわあ」
眼下には湖が広がっていた。不思議なほど青い水面。
「綺麗……」
「でしょ。これを賢者様に見せたかったんだ」
「ありがとうございます」
忘れられない光景になる。私は何度も心の中でシャッターを切った。
「こういうものを俺はまだいくつも知ってる」
フィガロはぽつりと溢した。
「賢者様とその全部を見に行きたいな」
その言葉には期待より祈りに似たものがこもっていた。だから私もそっと言葉を重ねる。
「はい。私も見に行きたかったです」
今日の野営地は丘の上だった。南の魔法使いたちはテントを張って、夕食を作る。私は魔法で取り出してくれた椅子に座って彼らの様子を見守っていた。彼らの元に駆けて行って、何か手伝えることはないかと尋ねる。そんな簡単なことがもうできない。
「賢者様」
夕食を終える頃にはすっかり空が暗くなっていた。フィガロは私にマグカップを差し出した。中身は温かい紅茶だ。湯気と一緒に優しい香りが漂った。
「ありがとうございます」
「体は大丈夫?」
「はい。今日はいつもより調子がいいみたいです」
私が笑うと、フィガロも表情を綻ばせた。
頭上を見上げると星空が広がっている。まるで光る砂をぶち撒けたみたいにきらきらと輝いている。
「綺麗」
「本当だね」
言わなくては、と思った。今こそフィガロに伝えなければいけない。
「フィガロ」
「何? 賢者様」
「私、もう長くないと思うんですけど」
できるだけ深刻にならないように、軽い口調で私は告げた。フィガロは口を挟まなかった。ただ、静かに私を見ている。
「最後に素敵な思い出ができました。本当にありがとうございます」
フィガロは言葉を探しているようでも、見つかった言葉を言うことを躊躇っているようでもあった。
「賢者様も俺を置いていくの?」
その言葉が存外子供っぽく響いて、私は苦笑した。
「ごめんなさい」
「いいよ。わかってる。一番辛いのは賢者様なんだから」
フィガロは私の隣に座ると手のひらで額を覆った。
「きみにそういう顔をさせたくないと思っていたんだ」
私もフィガロにこういう顔をさせたくなかった。だから、誤魔化していようかとも思った。終わりの日まで何も知らない顔をしていた方が、上手く収まるんじゃないかって。でも、それではきっと伝わらない。
「フィガロがそばにいてくれたことが私は嬉しかったです」
「俺はあなたに何もできない」
「だからこそです。私の神様になれなくても、こうしてそばにいてくれてありがとうございます」
フィガロは小さく息を呑んだようだった。
「最後までそばにいてくれますか?」
私の問いかけにフィガロは頷いた。
「もちろんだよ」
私たちは近いうちにお別れをする。でも、それまではこうして寄り添い合うことができる。神様だったらこうはいかない。ただ、あなたが友人であったから、私は最後まで幸せなのだ。