「〈大いなる厄災〉は何でできていると思う?」
いつもそうであるように、今日もムルは唐突に問いかけてきた。バーカウンターを挟んだ向こう側で、先程までは何かを必死に紙に書き留めていたというのに、今度はグラスを傾けてこちらを窺う。気まぐれな猫のように。
シャイロックはマドラーの動きを止めずに答える。
「さあ」
「考えるのをやめないで」
「生憎、空に浮かぶ災いについて考察するのは私の手に余りますよ」
マドラーをグラスから抜く。そのグラスを、友人が先程の問いを発する前に空にしたグラスと入れ替える。ペンを置くと彼は当たり前のようにその酒で唇を湿らせた。
気まぐれといえば、夏の間中天文台に篭っていた彼と会うのも久しぶりだった。シャイロックのバーにムルが訪れるのはいつも突然で、日を置かずに一週間毎日通うこともあれば季節が一巡りして顔を見せることもある。それでもムルはいつも昨日別れた友人の顔でシャイロックの元を訪れる。
「シャレド・ウィルソンはあれを生き物だと書いた。メリル・ウィンスパーグは大いなる精霊だろうと考察を残したね。ああ、植物だなんて説もある」
この世界に影響を与える〈大いなる厄災〉について調査した学者の名をムルは淀みなく語った。
「それで、ムル・ハートの見解は?」
「わからない」
はっきりと彼は告げた。
「確証が得られるほどの材料は残念ながらない。性急に結論を出そうとすれば見誤るからね」
シャイロックは肩を竦めた。
「あなたにわからないことが私にわかるわけがないじゃありませんか」
「そうかな。わからないからこそ、無限の想像ができる」
シャイロックがムルの与太話に付き合っているのは、このバーに訪れる客が今夜は少なかったからだ。ここ数刻ほどドアは動かず、こうしてムルの話を聞いている。
「やめておきますよ。私は突拍子もない想像から真実へと迫る架け橋を用意することなんてできそうにありません」
「だからそんなに真面目に考えなくてもいいのに」
ムルは猫のように瞳を細める。再びペンを取ると口にした言葉と別の文字をそこに書き記す。
「どれだけ考えてもわからないことがある。触れられないものがある。これって幸せ?」
数々の世界を解き明かしてきた彼ならば、〈大いなる厄災〉のベールすら剥ぎ取ってしまうのではないかとシャイロックは思う。
けれども──それでも彼が彼である限り、おそらくは最後まで気づき得ないこともあるだろう。
「あなたにとっては幸せでしょうね」
グラスに氷と水を入れてムルの前に差し出す。彼はそれをなんの躊躇もなく飲み干した。
久しぶりに西の国にあるバーを開けようと準備をしていると、バックヤードの奥で何かを探していたムルが姿を表した。
「あった!」
ムルが掲げているのは手のひらほどの大きさの紙片だ。小さな字で数式と記号が書かれている。
「いつのものですか?」
「んー百八十年前くらい?」
ムルはカウンター越しの椅子に座る。
西の国へと戻るシャイロックに珍しくついてきたかと思えば、どうやらその紙切れを探すのが目的のようだった。シャイロックにはその紙片が何か記憶はない。正確に言えば、彼がこうやって適当な紙に書き残したメモはバックヤードの隅にたくさん積まれていたので、それがいつ何のために書かれたものか判別ができない。いつだったか遠い昔、そうやって残っていたムルが書き残した紙切れを捨ててしまったところ「あれは大発見だったのに!忘れちゃったけど!」とムルに文句を言われて以来、とりあえず保管しているものだ。
「それで――そこには何が書かれているんですか?」
「わかんない! 今からそれを思い出すところ」
そう言うとムルは頭を抱え始めた。やれやれとシャイロックは首を振ると魔法をかけてグラスを磨く。
「ああ……ん……そういうことか」
「どうしました?」
「いや、なんか昔解いたような気がする問題を思い出したんだけど、解いてなかった」
「おや」
「解いてなかったっていうか、その時も途中まで考えて……そしたらシャイロックとお喋り始めてその問題のことを忘れちゃったみたい」
「私のせいにしないでもらえますか」
ムルは目を細めて答えた。数式の書かれた紙片をシャイロックに見えるように差し出す。
「ほら」
崩れた字で書かれたものはシャイロックには解せない。シャイロックが瞳で疑問を投げ掛ければムルは面白がるように答えた。「君とどれだけ考えてもわからないものの話をしたことが書いてる」
「その紙に?」
「そう」
魔法ですらなく、ムルがムル自身にしかわからない形で残したメモだ。シャイロックには彼の頭の中を理解することなんて到底できない。
ムルの書いたメモは読めなくとも、その会話の記憶はシャイロックにもあった。あの時もこんな風にここで話していた。
「今でも、わからないことは幸せですか?」
触れられないはずの〈大いなる厄災〉に、彼は無謀にも手を伸ばした。その代償にあの時シャイロックが話した彼はそこにいない。それでもシャイロックの予想通りの答えをムルは返した。
「君はどう思う?」
ムルが問いで返すときはいつだって、シャイロックに不都合な答えの時だ。
シャイロックは細長いグラスに砕いた氷を入れた。そこに度数の強い蒸留酒とそれよりも甘い紫色のリキュールを混ぜると、ソーダ水で割って、静かにステアする。赤みのある紫色のそれを、シャイロックは手の甲にほんの少し載せて味を見ると、それからムルの目の前にそのグラスを置いた。
ムルはその瞳に好奇心をいっぱいに詰め込んでグラスを見つめている。その目の前でシャイロックはカウンターの中で厳重に保管していたものを指先で摘んで取り出した。几帳面に折り畳まれた薄い紙だ。開いて出てきた白色の粉をシャイロックはグラスの中に流し込む。
グラスの中の紫色は薄い緑色へと変化した。グラスを覗き込むムルの瞳と同じ色だ。ムルは喜色を浮かべると手を叩いた。
「これ、どうやったの? 魔法じゃないよね」
紫色を薄い緑に変える物質があるかをムルは頭の中で一通り考えてから聞いたのだろう。
「この粉は猛毒なんです。とある筋から手に入れました。綺麗でしょう」
シャイロックはその美しい色をした酒をムルの前に差し出す。
ムルは、なんの躊躇もなくグラスを手に取ると唇へと運んだ。それはシャイロックが何度もこのバーカウンターの中から見た姿だった。
グラスの割れる音と床に飛び散ってしまった酒を見て「あーあ」とムルは心から惜しいという声を上げた。
「あんなに綺麗だったのに。きっと君の考えたカクテルなんだからとびきり美味しいだろうに」
「はい」
「こんなんじゃ致死量に足りないんじゃない」
「そうですね」
シャイロックはそう答えてムルの唇の端に残った酒を舐め取った。これでは全然死ぬには至らない。それでも舌が痺れた。
「君はさ、俺に死んで欲しくて、でも同じくらい生きて欲しいんだよね。それってなんで?」
シャイロックは答えなかった。毒のせいか唇がよく回らないと言うのは内心浮かんだ言い訳で、本当のところはわからないのだ。
こんな状態では店を開けられないなと自嘲して、今日は開店しないことを表す印を掲げにバーのドアを開ける。空には〈大いなる厄災〉がこちらを見て笑っている。ムルはシャイロックの背中に抱きついて天を指さす。
「愛しい愛しい〈大いなる厄災〉」
差し込む月明かりを受けて、輝くムルの瞳は、毒薬のように美しかった。