小料理屋で一杯

「よう、久しぶり」
 おかえりと書かれた紙を手にした青年に目を留めて、オズは一瞬足を止めた。周りの者は気づかないだろうが、オズは確かに驚いていた。
「どうした?」
「どうしたじゃないよ。あんたを迎えに来たんだよ」
 オズが転がしていたスーツケースをさっと奪ったのはカインだった。さらにあっという間もなく、反対の手に持っていた革の旅行鞄もカインの左手に収まっていた。
「長旅ご苦労さま」
「ああ」
「向こうを出たのは昨日?」
「ああ……そうだな。ほぼ一日経っている」
 欧州からのフライト時間は十二時間。それに日本との時差を加えて二十時間分、飛行機に乗ってから降りるまで時計が進んでいる。
「なぜここに?」
「社長からあんたが今日の便で帰国するって聞いてさ。荷物も多いだろうし迎えにいくことになって」
 オズとカインは同じ探偵社に勤める同僚だった。といっても最近アルバイトを始めたカインと古株の社員であるオズとの接点は少ない。ビデオチャットで顔を合わせたことが数度、直接会ったのはこれが三度目だ。
「社長は用事があって来れないから代わりに俺が。まあ荷物持ちにでも使ってくれ」
「そうか」
「タクシー拾えればよかったんだけど、乗り場も結構混んでてさ。モノレールで山手線の駅まで出る感じで大丈夫か?」
「おまえがいいなら」
 なにしろオズが抱えているのは手持ちのビジネスバッグが一つきりだ。荷物持ちを買って出た青年は軽く頷く。
「オッケー」
 モノレールの車内はすし詰めというほどではないが座席がひと通り埋まっていて、幾人か立っている客がいる程度には混んでいた。カインとオズはちょうどよく二人がけの席に座ることができた。
「向こうはこっちより寒いのか?」
「そうだな。向こうはまだ少し雪が残っている」
「へえ。ロンドンって雪が降るんだ」
 カインはヨーロッパには行ったことがない。だから、普段仕事で海外を回っているオズや、ロンドンの学校に通っているアーサーのことは少し羨ましかった。
「アーサーからの土産を預かっている。迎えにくるとわかっていたらすぐに出せるようにしたのだが」
「いいよ。落ち着いてからで」
 そんな風に言葉を交わしているうちに、モノレールは終点につく。カインはそのままタクシー乗り場へと向かう。ここから日本にあるオズの自宅まではそう遠くない。その足を止めさせたのはオズだった。
「カイン。この後用事はあるか?」
 オズは短く問いかけた。
「いや、あんたを送ったら家に帰るつもりだが」
「そうか。それなら……少し、付き合え」

「いらっしゃいませ……あら、お久しぶりですね」
 駅のタクシー乗り場から荷物を引きずって三分ほど。路地裏に佇むその小料理屋は、駅前の賑やかさとは対照的な落ち着きがあった。
 夕食には少し早い時間だからか店内に客の姿はなかった。出迎えた女将はオズを見ると破顔した。
「お荷物ここで預かりますね」
「ああ。すまない」
「いいえ。さ、カウンターにどうぞ」
 カインから受け取ったスーツケースと革鞄を入り口のそばに置くと、女将は二人をカウンターに案内した。
「俺はビールで」
「十四代を」
 オズはメニューをちらと見やると日本酒の銘柄を短く告げた。
「はい。もう少しお待ちくださいね」
 カインは温かいおしぼりを手にとる。普段自分一人で入るタイプの店ではない。メニューや黒板に書かれたおすすめを眺めながら彼は尋ねる。
「あんたの行きつけか?」
「行きつけというほどでは」
 そうこうしているうちに女将がビールジョッキと徳利、それにお猪口を持ってきた。
「行きつけというほどではないですけど、何度か来てくれてますよね」
 カインとオズの会話を聞いていたのか女将が明るく話しかける。
「空港の行き帰りだな」
 それからオズはなんでも頼めというようにカインの方に食事用のメニューを押し付ける。
「えっと……今日のおすすめのお刺身と春野菜と山菜の天ぷら、それに肉じゃがください」
 カインが目についたものを注文する。
「はい。今お通しをお持ちしますね」
 最初に出てきたお通しは小皿に三品盛られていた。牡蠣の甘露煮、小松菜のおひたし、それにほろ苦いふきのとうの味噌が乗った豆腐だ。
「オズの帰国を祝って」
 カインは徳利からお猪口に日本酒を注いだ。それから自分のビールジョッキを持ち上げる。
「ああ」
「乾杯」
 オズも軽くお猪口を持ち上げる。
「こういうザ・和食って感じの店は来たことないかも」
「そうか」
「ん。でもお通しどれも美味しいな」
 牡蠣の甘露煮は甘じょっぱい煮汁の味と牡蠣の旨みがぎゅっと凝縮されている。小松菜のおひたしは優しい味、ふきのとうの味噌が添えられた豆腐はアクセントが効いていてビールにもよく合う。これだけで良い店だということがカインにもわかった。
「好きなものを頼め」
「ありがとう」
 昔ながらの風情がある小料理屋で、カウンターの上には五枚の大皿の上に惣菜が盛られている。カインが頼んだ肉じゃがもこの大皿のうちの一つだ。
「お刺身と肉じゃがです」
 女将は肉じゃがを大皿からよそうと刺身と一緒に二人の前に出した。
「まずは頼んだものを食べるか」
 カインは肉じゃがに箸を付けた。ジャガイモが煮崩れないギリギリの塩梅で煮込まれている。一緒に煮込まれた牛肉の旨みがよく染み込んでいた。ジャガイモと肉がビールに合わないわけもなく、あっという間にジョッキが空になった。
「日本酒はどう?」
 オズは軽くお猪口を揺らして答えた。
「飲むか?」
「いいのか?」
 それからオズは女将にもう一つお猪口をもらうとそこに酒を注いだ。
「いただきます」
 そう告げてからカインはお猪口に口をつける。癖のない素直な味わいの日本酒だ。
「美味い!」
 オズはふっと口元を緩めると刺身を口に運ぶ。鯛の白身もまた癖のない上品な甘さがある。
「流石に生魚は久しぶりだ」
「そうだよな」
 カインはカツオの刺身に生姜を乗せて口に運ぶ。日本酒と刺身、定番の組み合わせだが間違いがない。
 それから揚げたての春野菜と山菜の天ぷらがやってきた。
「いただきます」
 カインは何度目かの「いただきます」を言ってから、タラの芽の天ぷらを箸で取り上げた。塩をかけたそれを口の中に運ぶ。さくっと衣が口の中で音を立てる。独特の風味とほのかな苦味。日本酒をひと口飲むと、酒の甘みが引き立つ。
 オズはそら豆の天ぷらを口に運ぶ。ほくほくとした食感は芋にも似ている。いつもよりも少し口を開いて熱さを逃がしてから彼はゆっくり味わうように噛み締めた。
「山菜って子供の頃はそんなに好きじゃなかったはずなのに、いつの間にか食べられるようになったんだよな」
 カインは日本酒を口に含む。
「アーサーはまだ苦手だ」
「アーサーにも苦手なものがあるんだな」
「人前では平気なふりをして食べている」
 それならちょうど良かったとカインは天ぷらを突きながら思う。表情を窺い見るにこの天ぷらはおそらくオズの好みだろう。けれども、アーサーと一緒ならきっと彼は注文しないだろうから。

 帰りはそのままタクシーを拾ってオズの住まいへと向かう。
「やはり日本はいいな」
 タクシーの中でぽつりとオズが言う。カインはそれを聞くとにかっと笑った。
「しばらくこっちにいるんだろ? また飲みに誘ってくれよ」
 ほんの少し間を置いてから聞こえた声は、どこか弾んでいるような響きがあった。
「ああ」