きみしか見えない

 チョコレートが六つ並んでいた。
 オーエンは少しの間じっとそれを見てから、一つ指で取り上げた。魔法の気配がすることには気づいていたが、気に留めず口に入れる。この程度の魔法なんて解呪するのは簡単だ。
 外側のチョコレートがパリッと割れて、バニラの香りがする甘いガナッシュが舌の上で溶ける。十分及第点の味だった。
 このチョコレートが誰のものかなんて知らない。食堂のテーブルに置いてあったものだ。無造作に放置されたものを奪わない道理はない。
「オーエン」
 名前を呼ばれて振り返る。食堂の入り口からカインはきょとんとした顔でオーエンを見つめていた。そしてその横にもう一人、魔法使いがいる。オーエンはすっと目を細めて誰何した。
「おまえはどうして隠れてるんだよ。ムル」
 それを聞いてカインは首を横に捻った。
「隠れてる?」
 その反応におや?と思った。オーエンの目にムルは見えない。魔力の気配だけがする。しかし、カインはムルがちゃんと見えているような反応をした。
「オーエンにはカインが見えているんだね」
 ムルの声には可笑しさが滲んでいた。
「どういうこと?」
「なんでも?」
 姿の見えないムルの物言いが妙に癇に障る。
「それで……俺はこれから城に行かないといけないんだが……。なんの用だったんだ?」
 カインは不可視のムルに話しかけている。
「もう用事は済んだよ」
……? それなら良かったが……
 カインの頭の上にはクエスチョンマークがいくつも浮かんでいた。しかし、この後用事があるからだろう。まあいいかという風に踵を返す。彼は去り際、オーエンに向かってひらりと手を振った。
「何?」
「またな、って」
 オーエンがぷいと顔を背けたのを気にせずカインは食堂を出て行った。その彼の後を追って食堂を出ようとする奴もいる。
「待て」
 オーエンは低い声で言った。
「何?」
 ムルは怯えも恐れもない口調で返した。
「なんなんだよ。これ」
 オーエンにはムルが見えない。カインにはムルが見えている。この不思議な魔法は、ムルの仕業に違いない。
「オーエン、チョコレート食べたでしょ」
 ムルは机の上のチョコレートが入った箱を手に取ると、器用に手のひらの上で水平に一回転させた。
「食べた」
「人のものを食べるなんて悪い子だね!」
 ムルは軽やかにステップを踏む。
「そこに置いておいたのが悪いんだろう」
「そう。別に誰が食べたって良かったんだ。本当はね、カインと廊下ですれ違ったからカインに食べさせてみようと思ったんだけど……
「それで、このチョコレートにはどんな魔法がかかってるんだよ」
 チョコレートに魔法がかかっていることはわかっていた。やろうと思えば効力を消すことは容易い。しかし、ムルの言葉の意味は気になったし、これがどんな魔法なのか興味もあった。
「好きな人しか見えなくなる魔法だよ」
「好きな人……は?」
 ムルはにんまりと特大級の笑顔を見せた。もちろんオーエンには見えなかったが、それでもムルがどんな顔をしていたか想像に難くない。
「オーエンはカインのことが好きだから、カインのことだけが見えるんだよ」
 それは馬鹿馬鹿しくてあまりにも──。
「オーエン。どうしたの?」
「うるさい……
 かっと顔が熱くなる。
 カインのことが好きだって? そんな馬鹿な話があるはずがない。
 オーエンは乱れる息を無理矢理整える。一旦今聞いた話を頭の外に追い出して、チョコレートにかけられた魔法の効力を無効化しようと努める。
「魔法、解いちゃうの?」
「当たり前だろ!」
「そう」
 ムルの問いかけに嫌な予感がした。
「それはつまらない。好きな人しか見えないってどんな気持ち? 嬉しい? 楽しい? そういうのを聞きたいから用意したのに、解いちゃうなんてつまらない」
「自分で食べれば良かっただろ」
「もちろん食べた。俺の〈大いなる厄災〉だけが見えると思ったけど、そうはならなかった。好きな相手は人間か、魔法使いじゃないと駄目らしいね。だから他の魔法使いにも試してもらおうと思ったのに」
 全く迷惑な話だ。このイカれた奴め。そうオーエンが心の中で悪態をつくと、ムルは猫のようにオーエンの背後に回って取引を持ちかけた。
「この魔法は一日もすれば勝手に解けるよ。それまで、オーエンがこの魔法に付き合ってくれるなら、誰にも言わない」
「何を」
「わかってるくせに。オーエンにカインが見えることだよ」
 再び話が戻ってくる。一度落ち着かせた心が再びの強風に波打つ。
……言ったら殺す」
「殺されたくないから言わなーい」
 ムルはきゃらきゃらと笑い声をあげて食堂を出て行った。
 そして、長い一日が始まった。

♡♡♡

 オーエンは部屋に閉じこもって一日をやり過ごそうと思っていた。しかし、今日はバレンタインという賢者が異世界から持ち込んだ行事で魔法舎中が色めく日でもあった。
「オーエン! チョコレートたくさんありますよ!」
 チョコレートだらけのパーティーに参加してほしいと賢者から言われていたのを、オーエンは二つ返事で了承していた。チョコレートが食べられるなら悪くない催しだからだ。
 ごねて部屋に篭っていたが、リケもやってきてオーエンの部屋の扉を無遠慮に叩く。
「ネロと僕が作ったチョコレートクッキーもあるんですよ。オーエンの名前も書いてあげました。他に書いてほしい名前があれば書いてあげます」
 結局部屋に篭っていても鬱陶しいことこの上ないだろうと、オーエンは外に出た。目に見えなくとも魔法使いは魔力の気配でおよそ誰がどこにいるかはわかる。それに、チョコレートは食べたい。
 食堂に行くと、テーブルにはさまざまなチョコレート菓子が並べられていた。オーエンの機嫌が少し回復する。
「全部、食べていいの?」
「全部は駄目です!」
 リケが慌てた声で止める。
「知るもんか。先に食べない奴らが悪い」
 まずはチョコレートクッキーをオーエンは手に取った。
「お茶も淹れたからゆっくり飲んでくれよ」
 聞こえてきた声にオーエンはぴくりと肩を動かした。
……城に行くんじゃなかったの?」
「行ってきたよ。王城のパティシエが『賢者の魔法使いの皆さんに』って用意してくれたチョコレートを取りに行ったんだ」
 カインは胸を張ると「そこの皿にあるからオーエンも食べてみてくれよ」なんて笑っている。オーエンにはそんなカインの顔だけが見える。
 まったくなんでこんなことになってしまったのかわからない。オーエンはただ置いてあったチョコレートを勝手に食べただけなのに。それとも、勝手に食べたのが悪いのだろうか。そのせいでこんな目に遭うなんて!
 カインの淹れた紅茶は相変わらず美味しい。今日は騎士ではなく給仕係を決め込んでいるのか、彼は入れ替わり立ち替わりやってくる魔法使いたちにお茶とチョコレートを勧めている。気取った仕草は様になっていて、嫌でも目を引いた。
「オーエン、このチョコレートクリームのサンドイッチも美味しいよ。もう食べたか?」
 オーエンの皿が空くと菓子を勧め、空いたカップには紅茶が注がれる。忙しく動き回るカインの姿を思わずオーエンは目で追ってしまう。なにしろオーエンの目には彼しか映らないのだ。
 時々カインと目が合う。視線がぶつかって、思わずオーエンは目線をあらぬ方向に逸らす。なんだか負けたみたいで非常に悔しい。けれど、見つめ返してやろうにも、カインの光を集めたような柔らかな黄色の目を向けられると頭の中が真っ白になってしまうのだ。
「騎士様はなんのつもりなわけ?」
 サーブされたチョコレートケーキを前にしてオーエンは尋ねた。オーエンの皿にはたっぷりの生クリームも添えられている。「特別サービスな」なんて微笑んでくるのだからオーエンとしては気が気じゃない。
「なんのつもりって……俺は甘いものが特別好きなわけじゃないから、今回はパーティーの企画側だよ」
 オーエンを呼びにきた賢者もリケも、気がつけばもてなされる側にまわっている。むしゃくしゃした気持ちでオーエンはケーキとクリームに齧り付いた。
「いい食べっぷりだねえ」
 口の周りを生クリームとチョコレートクリームでべたべたにしたオーエンを見て、フィガロは揶揄う。
「なんだよ」
「いや、『それ』って何?」
 フィガロの言葉が指すものに気づいて、一瞬眉を寄せる。しかし、わざわざ弱みを見せるつもりもない。それほど強い魔法ではないし、これが何を起こす類のものかまではフィガロだってわからないだろう。
「アクセントだよ。バレンタインってやつの」
 強がるオーエンの目は、目の前にいるはずのフィガロを通り越し、魔法でマシュマロにチョコレートを浴びせかけているカインを見ていた。

♡♡♡

 今日はやたらとオーエンに見られることにカインは気づいていた。オーエンが意識しているのかはわからないが、気がつけばオーエンの目はカインを追っている。初めはなんだか不気味な感じもしたが、別に何か企んでいるわけではなく──なんなら無意識のようなので、だんだんこそばゆい気持ちが勝ってきた。
 カインを見るオーエンの目はよく変化する。なんとなく目で追っているような空っぽの視線。紅茶を淹れたり、チョコレート菓子を用意しているときに向けられる、何をしているのか興味を見せる視線。カインを目の前にしたときに、わざと試したり嫌味を言ってやろうと考えている意地悪な目線。
 けれど、今日は何より特別なものがある。
(あ、また……
 今日はやたらと不意に目が合う。オーエンがわざわざカインに注目しているというのでもない。実際、オーエンは目が合うと気まずそうに目を逸らす。
 それは強いて表現するなら、カインが魔法舎の中を午前中に歩いているときによく起こるタイプの事故に近い。カインは触れるまで人や魔法使いの姿が目に見えない。オーエンという例外を除いては。だから、午前中は見える魔法使いよりも見えない魔法使いの方が多い。そのせいで、自然と見える魔法使いの方を目で追ってしまう。あたりを把握しようとする本能なのかもしれない。
 そういうとき、一番よく目が合うのはオーエンだ。なにしろ、彼には触れなくてもよく見えるから。

♡♡♡

 散々な一日をなんとかやり過ごし、翌朝になるとオーエンの心はだいぶ晴れていた。
 今日はムルを殺すと心に決める。賢者の魔法使い? 知ったことか。弱みを握られたままにしてはおけない。
 そんな物騒なオーエンの内心とは裏腹に、早朝の魔法舎は静けさに満ちていた。昨日は大盛り上がりだったから、余計に落ち着いているように感じる。
 朝ごはんはカリッと焼いたトーストにマシュマロを載せてチョコレートスプレッドを塗ったやつ。パーティーの後の寂しさには、翌朝の楽しみを作っておくこと。
 そんな風にネロが、ミチルとリケにとっておきの秘密を教えるみたいに言い聞かせていた。料理人が目覚めるにはまだ早いかもしれないけど。
 食堂を通り抜けて、キッチンに向かう。誰かの気配がする。
「おはよう」
 瞳がオーエンに向けられる。目が合うと、彼はにへらっと相好を崩す。オーエンは小さく苦笑した。特別じゃない日は目を逸らしたりしない。
 別に好きとかそういうわけじゃない。ただ、少しだけ互いがよく見えるというだけ。
「おはよう。オーエン。朝ごはん作るけど、一緒に食べないか?」
「うんと甘いトーストを作ってくれるならね」

 今日はこれから猫を追いかけないといけないから。