写真

 家業を継ぐつもりじゃなかったんだけどな。
 コーヒーを入れて現像室に戻ってくると不意にそう思った。現像室といっても今はもうデジタルカメラで撮影することがほとんど。だから、ここにあるのはスペックのいいパソコンが一台きり。僕はそれで仕事で撮った写真の現像――明るさや色味なんかを調整して一般的なファイル形式に書き出す作業だ――をしていた。
 趣味でカメラを続けていても実家の写真館を継ぐ気はなかった。今はスマートフォンでいくらでも写真が気軽に撮れる時代で、街の写真館の需要も減っている。それでも結婚式やら何やらでプロに写真を撮って欲しいというひとは一定数いるらしく、元は会社員をしながら週末だけ副業カメラマンをしていた。それがだんだん副業の方が忙しくなり、いっそカメラを仕事にするかと腹を括る。そんな折に父からも「本格的に仕事にするなら拠点があった方がいいだろう」と説得されて祖父の代から三代続いた写真館を継ぐことになってしまった。
 それから一年。なんとかこの仕事をやっている。
 写真は瞬間を切り取るものだ。記念写真を撮る人は大体幸福で、だから僕の仕事は幸福な瞬間を永遠に閉じ込めるものだと思う。そうして閉じ込めた幸福に囲まれていることが僕は嫌いではなかった。
 時刻が八時を回ったのを確認してから、昨日チェックして以降に届いたメールを確認する。撮影の依頼はありがたいことに途切れていない。朝型の僕は現像作業がひと段落したこの時間にメールの返信をするようにしている。結婚式や会社のパーティー、そして自宅での撮影依頼。場所や詳細を確認して返事を出す。
 その依頼もよくある出張撮影のひとつだった。僕にとっては。でも、写真を撮るというのは当事者にとっては何か大きなイベントだと重々承知している。
 あの日、この写真館で「世界は美しい」と語った彼のことを、僕はこの仕事をしている限り忘れることはないだろう。

 

 結婚を記念した写真を撮って欲しいという出張撮影の依頼だった。僕は機材を用意して、その小さくて古い家を訪れた。
「ハーグ写真館です」
 玄関で僕を出迎えたのは髪の長い青年だった。快活そうな笑みを浮かべている。
「カインだ。今日はよろしく」
 カインさんと握手をして僕は家の中に入った。
 リビングの中には趣味の良い家具が揃っていた。僕が光の入り具合を確認するように眺めていると、ソファの上に座っている人物と目が合った。美しい青年だった。少し人間離れしたような、今日のような寒い雪の日を思わせるひとだ。
「こんにちは」
 会釈をすると、その人物は僕を品定めするような目を向けた。
「オーエン。こちらはハーグ写真館の……」
「ロイド・ハーグです」
 僕は名刺を取り出して二人に渡した。
「オーエン」
 ソファの上の青年が名乗る。
「早速だが、撮ってくれるか?」
 カインさんに問われて僕は自分の仕事に取り掛かる。
「はい。ライトをセッティングしますね。撮るのはこのソファのあたりで?」
「ああ」
 折りたたみ式のライトや三脚を広げてセットしていく。背景はそのままでいいと言われたのでそのまま。何枚か試しに撮影して準備が整った。
「では、お二人並んで座っていただけますか? そうです……何枚か撮りますね」
 少し表情が固い。僕はシャッターを切りながら声をかける。
「いつものようにお二人でお話ししましょうか」
「だって。いつも何を話してる?」
「なんだろうな……そう言われると困る」
 カインさんが苦笑したところでシャッターを切る。
「じゃあお二人の出会いは?」
 僕は定番の質問を投げかける。
「僕が目玉を奪った」
 オーエンさんが愉快そうに笑う。
「目玉…?」
「あー気にしないでくれ」
 カインさんが腕を振った。
「まあ腐れ縁だよ。気がつけばこうなってた」
 カインさんとオーエンさんの目線が同じ秘密を共有するみたいに交わった。よくわからないが、いい表情だ。慌ててシャッターを切る。
「お互いの好きなところは?」
「えっ?」
「好きなところなんてない。嫌いなところはいくらでもあるけど」
「そうなんですか?」
 困ったような二人をフレームに収める。
「強いところは尊敬もしてるし……そうだな、好きだって思うよ」
「諦めの悪いところは嫌いじゃない」
 シャッターを切る。
「カメラに目線をもらえますか? ――はい、いいですよ」
 最初よりも幾分表情が和らいでいる。いい写真が撮れたと思う。
「うちで飼ってる犬と猫がいるんだけど、連れてきていい?」
 オーエンさんに尋ねられて頷く。
「はい。一緒に撮りましょう」
 オーエンさんはリビングを出ていくと、それから一匹の犬と二匹の猫を連れて戻ってきた。
「大人しくしてろよ」
 二匹の猫にオーエンさんは声をかけた。カインさんとオーエンさんの足元に犬が行儀良く座る。二匹の猫はそれぞれオーエンさんとカインさんの膝の上に収まった。
「では、撮りますね」
 シャッター音やフラッシュを焚く音に驚く動物もいるが、この家の彼らは大人しかった。むしろ太々しいという言葉の方が似合うかもしれない。
「いい写真が撮れました」
 僕がそう言うとカインさんは「良かった」と安心したように笑った。
「写真は後日写真館に撮りにきていただくということで良かったですか?」
「ああ。それで大丈夫。ありがとう」

 

 写真の現像が終わったのはそれから一週間後のことだった。撮った中から何枚かを二人に選んでもらっている。それをパソコンで調整して印刷するのだ。
 写真の受け取りに来たのはカインさん一人だった。
「こんにちは。今日はお一人ですか?」
「ああ。ちょっとオーエンは体調が悪くて……」
 カインさんは目を伏せた。
「それは心配ですね。すぐ写真を持ってくるの待っていてもらえますか?」
 受付に置いてある椅子を勧めてから、僕はオフィスに置いてあった写真を撮りにいった。戻ってみると、彼は椅子には座っておらず、受付の壁に飾られた写真を見ていた。その彼の瞳がやけに真剣で、どこか潤んでさえいることに僕はびっくりした。
「祖父の代から続く写真館なんです」
 正直なところ、なんと声をかけたらいいかわからなくて、僕は遠回しなことを言った。
「ここにある写真はほとんど父の撮ったものです。そこの右端は僕が継いでから。お客さんの写真をお借りしてここに飾ってるんです」
「いい写真だなと思って……」
 カインさんはそう言った。
「ありがとうございます」
 素直に嬉しかった。
 様々な記念写真がここに並んでいる。ウエディングフォトが半分くらい。そのほかは家族写真や入学式の写真もある。この写真館が見守ってきた街の人たちの人生がここには並んでいる。
「最近、理不尽なくらい辛いことがあって……世界を恨みたくもなったんだ。でも、ここにある写真を見ていたら世界はやっぱり美しい気がして、俺はこの世界を嫌いになれないなって。どんなに酷いことが起きても、俺は……」
 カインさんの声が震えていた。
「悪い。変なことを話した」
「いえ」
 僕は持ってきた写真をカインさんに渡す。
「お二人の写真も素敵なものになったと思います。僕も写真を撮っていて幸福というものがこの世界にはたくさんあるんだって気付かされることがあるんです。世界を呪いたくなるときに、それを思い出します」
 カインさんは写真を手に取って一枚ずつ眺める。
「ああ。すごくいい写真だ。ありがとう」
 カインさんは写真を大事そうにしまった。

 

 あれから、許可をもらって僕はカインさんとオーエンさんの写真を受付に飾った。二人と三匹の写真。温かくて優しい幸福を詰め込んだような写真だ。
 写真は瞬間を切り取る。残念ながら写真の中の幸福が永遠だとは限らない。
 けれど、世界を美しいといったあのひとは、きっと光を失っても世界は呪えないだろう。