そのひとのことを、僕の手のひらに載せた雪が溶けた後の水のように、透明なひとだと思っていた。
「カイン! 雪合戦加勢して!」
二つ年下の弟の声が響いた。あんまり迷惑かけたらだめだよ、と母の言葉を繰り返そうとした。でも、僕は結局何も言わずに近くの雪を集めては崩すという作業を再開した。
この街の子どもたちはそう多くない。学校は二学年ずつ合同で、それでもひとクラスには十人もいない。だから大体初等学校の年頃の子どもたちは一緒になって遊ぶ。今も弟や同じ学校の友人たち(少年が多かったが)は雪玉をぶつけ合う野蛮な遊びをしていた。
カインは最近この街にやってきたひとだった。二十歳くらいだろうか。最近は夏や冬にこの街を訪れる人は増えた。でも、突然この街にやってきたカインは、他の観光客のようにスキーをするよことはなく、僕らのような街の人間と過ごすことが多かった。子どもたちとよく遊んでくれるから弟は彼が大好きなようだ。
僕は雪合戦があまり好きではない。よし、と自分の膝を一度叩くと近くに置いてあったバックパックを持って少し離れた場所に移動することにする。
この街には、この国には、何もない場所だけはたくさんある。
開けた大地で僕は凧を上げた。街の中心部から十分ほど歩いたところにある僕のお気に入りの場所だった。風がよく吹くからだ。
一人でも上手く風に乗せれば凧は空を飛ぶ。僕は多分この街の子どもたちの中で一番凧揚げが上手い。空を悠々と滑空する凧を見ているのが好きだった。まるで、この世界で一番自由なものに見えるからだ。
「何してるの?」
突然声をかけられて、僕は思わず握っていた凧の紐を落っことしそうになった。
そこに立っていたのは細くて、白くて、そしてなぜだか透けるように感じるひとだった。
「凧揚げ」
「ふうん。それって楽しいの?」
「楽しい」
「へえ」
見た目の印象よりもぶっきらぼうで、雑な話し方をする。
僕はだんだんと彼のことを思い出した。カインと一緒にこの街に来たひとだ。名前は知らないけれど、彼らがこの街に来たのは療養のためらしい。だから僕の母は、あまりカインに迷惑をかけるんじゃないよと弟に口を酸っぱくして言った。
目の前にいるこのひとを、僕はちらりとしか見たことがない。カインが泊まっているコテージの窓辺に彼はよく座っていた。そこからは僕たちが普段遊び場にしている広場がよく見える。そこから彼は僕らを、そしてカインを見ていた。
「凧揚げ、する?」
僕が尋ねるとその白いひとはちょっと虚を突かれたような顔をして、それからふふっと笑った。
「これを僕が持つと君が一生懸命に走らされるんだろ?」
「凧揚げ知ってるんじゃん」
大きい凧を上げるときや、小さい子が上げるときは、凧の方を持って走って風に乗せてやる必要がある。この程度の凧なら走らなくたって上手くやれるが」
「凧揚げやったことある?」
「ないよ」
「じゃあ仕方がないから走ってやるよ」
そう言うとそのひとは眉を寄せた。ちょっとムッとしたらしい。
「紐をちゃんと持ってて」
僕は凧を持つとピンと糸が張る直前くらいの距離をとってそのまま風の方向に向かって走る。ここだと言うところでぴっと手を離した。
「紐離さないで!」
そのひとはぎゅっと紐を掴んだすると凧が大空を舞う。
「どう?」
「普通」
口ではそう言いながらも、そのひとは空を舞う凧をじっと眺めていた。
「名前、なんていうの?」
僕が尋ねると彼は短く答えた。
「オーエン」
「そう。僕は――」
「いいよ、どうせ長くは覚えてないから」
それは突き放すような無関心には僕は感じなかった。むしろ、自分の分をわきまえたと言えばいいんだろうか。近いうちに去っていく旅人のように見えた。
しばらく僕らは凧揚げをした。それから少しこの辺りを歩く。オーエンは僕の話を「へえ」とか「ふうん」とかつまらなさそうな相槌を打って聞いていた。それはカインとも他の街の大人と話すのとも違う心地よさがあった。なんだか彼は僕を特別に子ども扱いしているようには思えなかったからかもしれない。
ふっと唐突に隣にいたオーエンの気配が消えた。振り返ると僕の二歩後ろでオーエンがしゃがみ込んでいる。
「オーエン、どうした?」
「……大丈夫」
大丈夫には見えなかった。元から白い顔が白を通り越してくすんだ色になっている。呼吸が速くなっていて体を支えきれないように、白い大地に膝をついた。
「カインのこと呼んでくる」
療養、という言葉を僕は思い出した。カインはとても病気をしているようには思えなかったから、病気なのはオーエンの方だったのだろう。僕が遊ぶのに付き合わせたせいでとんでもないことになってしまった。その恐怖で僕は一度背中を震わせる。
「いい。少し休んでいれば治るから」
「でも……」
「きみのことをカインは咎めないよ。ふらふら外に出た僕を叱るだけ」
そうだ。僕はオーエンのことより自分のことを心配している。オーエンがどうにかなってしまうのが怖いんじゃなくて、両親やカインに叱られるのを心配しているのだ。
僕は卑怯者だ。
「そんな顔するなよ。卑怯者」
オーエンの言葉はナイフのように僕の心を突き刺した。
「僕は……」
「ここに座ってくれる? ――そう。少しこうしてて。そうしたら僕はきみが卑怯者だって誰にも言わないから」
僕は言われた通りオーエンの横に座ると、彼は僕に体を預けた。僕よりもずっと背が高いのにびっくりするほど彼の体は軽かった。
どれくらい経っただろうか。しばらくするとオーエンはよろよろと立ち上がった。
「取引だ。このこと、カインには言うなよ。言ったらおまえが卑怯者だって街中に広めてやる」
「……うん」
正直なところ、もう僕は卑怯者と謗られることをそんなに恐れてはいなかった。むしろ、カインに言うなと告げるオーエンのことがなんだか可哀想な気がしてしまって、僕は頷く。
僕たちと遊んでいるときもカインはよくオーエンのいるコテージの方を見ている。そこにいる彼をちゃんと確認するように。オーエンが思っているよりも、カインはちゃんとオーエンのことを見ている。だから、僕が言わなくても気づいてしまうんじゃないだろうか。そして、オーエンもそれをわかっていて、それでも自分の体調がよくないことをカインには知られたくないのだ。そのことがなんだか辛い。胸がちくりと痛む。
少しゆっくりな歩調で街の広場まで戻る。すると、カインが僕らを見つけた。
「オーエン!」
カインは雪合戦の間を抜けて僕らの方にやってきた。
「外出て大丈夫だったのか?」
「平気。今日は体調が良かったから散歩してただけ」
「なんともないか?」
その質問のとき、彼は一瞬僕を見た。僕はわかってるよとひとつ頷く。
「全然平気。ねえ、初めて凧揚げをした」
「凧揚げ?」
そこで初めてカインは僕に気づいたようだった。
「凧揚げか。ありがとな。オーエンと遊んでくれて」
「僕が遊んでやったんだよ。そうだろ?」
二人から見つめられて、僕は思わずぷっと吹き出した。二人ともちゃんと大人の顔をしていたのに、二人になると子どもみたいに言い争う。
「元気でもそろそろ戻ろう。日が傾いてきたから寒くなる」
「うん」
カインはオーエンの手を取ると彼らが仮の住まいにしているコテージへと戻っていく。
「またな。みんなにも続きは明日って言っといてくれ」
「わかった」
僕は二人が去っていく背中を見つめていた。彼らを見ているとやっぱりちくりと痛むような心地がする。それでも彼らの間にはそれだけではないものがあって、僕はそれが本当に綺麗な温かいものに思えたのだった。
あれからしばらくして、とうとうこの街にも春の気配が近づいた頃、二人は彼らの家へと帰っていった。彼らはもともと中央の国で暮らしていた。それからオーエンの病気が良くなったのかどうか、あれから二人がどうしているのか僕は知らない。
こんな子どもの頃のたった一度の冬の出来事を思い出したのは、明日僕が中央の国へと旅立つからだろう。この春から――もう向こうでは春なのだ――中央の国の大学に進学することになっている。
あの冬のひと景色。一瞬自由に空を舞う凧のようなオーエンとの会話。
僕の忘れることのできない冬の思い出だ。