六月某日、書庫にて

 退屈だと、構ってほしい気持ちを何一つ隠さない声に、いよいよ来たかと思わず拳を握る。
 梅雨時の本丸は毎日雨が降っている。さらに都合の悪いことには主は数日この本丸を不在にしており、当然ながら出撃も遠征もない。主不在の中で怪我でもされたら困ると、手合わせですら内番表に名前が挙がったもの以外は禁じられていた。
 そうなればこの屋敷の中で時間を潰すより他にない。なに、永遠ではない。たった数日の辛抱のこと。いつもは出撃に遠征に、本丸にいれば内番にと忙しくしているのですからたまの休みだと思えば良いでしょう。
 それでこの方が納得するなら私は然程困らない。
「読書でもいかがですかな。鶴丸殿」
 私は努めてにこやかに、どう切り抜けようかと思案していることはおくびに出さずに伝える。
「晴耕雨読と申しますし」
「本なあ……。ただ文字を追うよりは話をしているほうが好きなんだ」
「と言っても飽き飽きとなさっているのでしょう?」
 おそらく飽き飽きとしたのは鶴丸よりもむしろ他の者たちではないだろうか。「退屈だ、面白い話でもしてくれ」とせがまれれば、最初の内は反応の良い聞き手に気分を良くしても、しばらくすればそろそろ許してくれと席を立ちたくなるものだ。
 鶴丸殿は存外我儘者だ。皇室に長く置かれていれば分かるが、神が宿る道具というのはおよそ気位が高く我儘だ。我儘というのはおよそ頑固と同義である。自分の言うことを粘って通した者、決して己の欲望を諦めない強欲者が我儘と呼ばれる。
 しかしこの一期一振、我儘ということでは鶴丸殿に引けは取りませぬ。
「しかしなあ……それよりも一期よ、将棋でもオセロでもなんでも構わん、付き合え」
「いいえ。今日は読書にいたしましょう」
 半ば強引に鶴丸殿を本丸の書庫へと連れ出す。彼が私の元にやってくるのは大抵他に何人か暇つぶしに付きあわせた後だと知っている。試しに今日は今までどうしていたのかと問えば、彼は悪びれずにこう答える。
「朝は大倶利伽羅のところに行った。つまらぬから相手をしろと言っていたら部屋から追い出された。次に燭台切光忠だ。台所に籠って朝からやたらと手の込んだ料理に勤しんでいるから、手伝ってやろうかと思ったんだが……にこにこ笑いながら『鶴さんでも許してあげられることと許してあげられないことがあるんだよ」って脅しやがった。あとは君の弟たちに……」
 こんな具合だ。そうやって邪険にされている様子は可哀想でもあるが、ここで同情してはならないことをこれまでの長い付き合いで嫌というほどわかっている。
 本丸の書庫はこの屋敷では珍しい洋室の造りをした部屋の一つだ。おそらく屋敷が出来たのよりも後になって改装されたのだろう。扉にはいつも鍵はかかっていない。先客はいないようで、壁際に取り付けられたスイッチを押す。これを押せば明かりが付くということは、人の世を眺めて知識として得てはいた。しかし実際に触るのはこの本丸に来てからが初めてで、触れるだけで明かりが灯るというのは、まるで幻術のようで密かに面白いと思っている。
 書庫は書棚の間にある人一人分の通路を除いてはぎっしりと本棚が詰められている。奥の窓際にはテーブルが一つ、椅子が四脚並べられていた。そして窓と反対の壁には審神者が使っているものよりも旧式の液晶型のモニタが取り付けられている。これは指先一つで部屋を明るくする道具よりもさらに不可思議なもので、あらゆる知識や情報を教えてくれる。
「しかしまあこんなによく集めたものだ。主の住まう世界では紙の本というのは時代遅れの骨董品だと聞いたぜ」
「主が御尊父から借り受けたものが多いそうですよ」
 その言葉に鶴丸はわずかに目を見開く。
「あの主にも父親というものがいるとは。いや、人の子であれば当たり前とはいえ……」
 鶴丸の少々失礼な物言いを窘めることができなかった。私も初めて聞いた時、この他者との縁をすべて断っているような審神者にも、父と呼ぶ者がいたのかと驚いたからだ。
 主の時代において、紙の書籍というのは趣味の一品、それも高価なものだと聞いている。それをこうして気前良く貸し出すのだから、主と御尊父の関係はそう悪くはないのだろう。
 私たちは常に意識を保っていたわけではない。特に武器として使われることがなくなってからは眠りに付くことも多い。その眠りの周期は時代が下るにつれて長くなっていったように思う。そのせいか私たちが良く知っている人間の技術や生活といったものは、審神者の生きる時代より遥か遡った年代のものであることが多い。
 審神者の時代においては壁に取り付けられたモニタやそれに類似した道具を使用して本を読むのが普通とはいえ、私たち刀剣には馴染まなかった。それを訴えれば審神者はこうして方々から紙の本を集め、書庫を作った。
 鶴丸殿がこの書庫に出入りする所を見たことはなかったから、もしかしたら初めて足を踏み入れたのかもしれない。彼は瞳に興味を浮かべて本棚の中を歩いていた。
「ですから大切に扱わなければなりませんね」
 私は目の前の本棚に並んだ背表紙を一度手で撫でた。
「それで、君の好きな本はなんなんだ?」
 つい答えを言いそうになるのを堪える。ここで答えたが最後、優雅な読書ではなく賑やかなお喋りになってしまう。
「私の好きな本について語る前に、鶴丸殿が気に入る物語でも見つけましょうか」
「そうは言ってもこれだけあると何から手を付けていいのか……」
「そうおっしゃると思っていました」
 私は奥の壁にあるモニタを操作する。紙の本は確かに骨董品だが、それを管理するのには主の時代には当然備わっているシステムが利用されているらしい。「このモニタで本を検索すると、その本がどこに置かれているのか、本に取り付けられた極小のタグでリアルタイムに分かる」という主の説明は、私にとって半分異国語であった。けれど、使い方は理解している。
「鶴丸殿。どういうものが読みたいですか?」
 モニタを起動して片っ端から条件を入れていく。
「そうだなあ。長い話よりは短い話がいい」
「では短編ですね」
「あとはそうだなあ。異国の話よりは身近な話がとっつきやすくていいかな」
 短編で日本人作家の日本が舞台の話。時代もあまり審神者の時代に近すぎないほうがいいだろう。
 鶴丸殿はあれこれと注文をつける。やれ人情味のある話が良い、でも恋物語は気分が乗らない。いや待て、人間が主人公の話なんて感情移入というやつができないぞと。
 だんだんと鶴丸殿の企みがわかってきた。条件に見合う本がなければいいと思ったのだろう。けれど鶴丸殿、それは人の想像力を見くびりすぎているようですよ。
「いくつか見つかりましたね。どれを読みますか?」
 私は勝ち誇った心地で尋ねる。鶴丸殿は「げっ」という顔でモニタを睨んだ。
「俺の負けだ」
 鶴丸殿はそう呟くと、候補の一番上の本を選択した。すると場所が地図上に示される。
「今日は読書にしよう」
「納得いただけて嬉しく思います」
 鶴丸殿は眉根を寄せて「しかし……」と口ごもった。
「君は本当にいい性格をしているな」

 読書が嫌いなわけではない。ただ紙に書かれた物語というのは未来永劫不変のもので、それが少しばかり面白くないというだけだ。
 進んで本を手に取ることはないが、他の刀剣たちが部屋に置いている本を拝借して読むことはある。だから作者も傾向もばらばらだった。どれもそれなりに楽しむことができるのは自らの美点の一つだ。
 一期一振に引っ張られ、本丸の書庫に足を踏み入れるのは二度目だ。一度目はいつだったか、自分一人で屋敷を探索していた際にふらりと立ち寄ったことがあった。
本丸では珍しい洋室に積み上げられた書物――それはまるで普段の生活とは隔絶した異世界のようで眩暈がした。眺め回すとこの書庫には小説が多いのだなと気が付いた。次に多いのは図鑑や絵画の図録。固められて置かれた化学の本にはどこかの大学の蔵書印が押されている。ある程度分類して置かれているとすれば八割ほどは小説だろう。
 ここは物語の詰まった空間だ。一冊一冊に本の中の登場人物の人生が詰まっている。けれど俺がどれほどそれを必死に読んでも、祈っても、願っても、結末はもちろん変わらない。そんな閉じた人間の生き様に触れると当てられた心地になる。
 本を捲るのは人々の手を渡りながらその人生を眺めてすごしてきた長い時に似ている。それは人に例えるなら人生と呼ぶべきものだろうか。だとすれば俺の人生というのは傍観だった。
 読書をすると、その本がどれほど面白くても、そんな飽き飽きしていた日々を思い出す。
 けれどここまで見事に逃げ場を塞いだ一期一振には完敗だ。ここでじたばたするのはいくらなんでもみっともないから今日は読書に勤しむこととしょう。
 相変わらず雨は降り続いている。昨日の夜は一度止み、今日は晴れるかと思いきや明け方からまた降り始めた。この部屋は日光で本が焼けないようにという配慮のせいか、分厚いブラインドとかいう日除けがかけられている。窓も厚いガラスが嵌めこまれているせいか、雨音は低い波音のような雑音として響いていた。
 一期一振は椅子に腰かけて本を読んでいる。無防備に本をめくる様子につい後ろからわっと声をかけたらどうなるだろう。怒られるだけならいい。それならいつものように「すまんすまん」と謝って、それで仕舞いだ。けれど今そんなことをしたら俺はきっと失望されるだろう。軽蔑されるだろう。それはとても辛いことに思えたので、俺は彼の斜め向かいの椅子に浅く腰かけた。
 選んだ本の作者は太宰治。彼の初期作品集と銘打たれたそれは掌に収まる文庫本だ。確かにこの本は短編集で昼下がりの退屈な時間を潰すのには丁度良い塩梅だった。

 本を探しましょう、といった一期一振に告げた条件は口を付いて出た適当なものだった。けれどそういう口を突いて出るものに本当のことというのは紛れているのかもしれない。
 俺がこの本の中で一番気に入ったのは、あのモニタが示した作品だった。
 「貨幣」という短い物語だ。主人公は百円紙幣。この物語が書かれた時代、それがいかほどの価値を持つのかは知らない。ただ読んでいれば一般的な庶民にとっては十分多くのものを買うことができるだけの価値があるということはわかった。
 百円紙幣は人々の手を渡っていく。大工、医学生、軍人。人の手を渡りながら”彼女”は人間の浅ましさも愚かしさも目の当たりにしていく。それでも生きていてよかったと思った瞬間を語ったのがこの話だ。
 紙幣は質量でいえば紙切れ。何かと交換されるためのものだ。当然絶え間なくそれは人の手を渡り続ける。その中で”彼女”の見た絶望と似たものを俺はよく知っている。
 人というのは貴くあることも、浅ましくあることもできる生き物だ。同じ人間ですら変わる。彼らは成長も堕落もする。可変であるという人の在り様が、今はもう神の域に一つ足を踏み入れ、時を止めた俺たちにとっては眩しくも汚らわしくもある。
 ”彼女”も俺たちと同じように人を傍観している。見ることはできても手を出すことができないのが道具というものだ。 物語の最後で”彼女”は赤ん坊の肌着の中に収まる。”彼女”は――百円紙幣はきっと食べ物や衣類に交換され、赤ん坊を太らせ、暖めさせる。その未来を知っているから、”彼女”はその瞬間を思って幸福だと感じるのだ。
 羨ましいと思った。
 俺は刀だから誰かを斬り殺すことは出来ても、子供の腹を膨れさせることはできない。確かに交換価値としては、俺は百円紙幣になど負けないだろう。けれど皇室に献上され、今となっては誰かの幸福のために使われるということは決してない。
 俺はこの短編小説が気に入った。
 気に入ったけれど再び読むにはあまりにもこの物語は綺麗すぎる。
 

 

「いかがでしたか?」
 いつの間にか一冊読み切っていた鶴丸殿に尋ねると、彼は曖昧に微笑んだ。
「いやあ良かった。これは気に入った」
「それは何より。お誘いした甲斐がありました」
 鶴丸殿は表紙を一度撫でると「戻してくる」と言って席を立つ。
 私は彼の横顔に不思議なものを感じた。まるで、その小説と今生の別れをするように見えたからだ。本丸の書庫はいつでも開いている。気に入ったのならいつでもページを捲ることは出来るというのに。
「何故人は物語が必要なんだと思う?」
 鶴丸殿は再び私の向かいに座るとそう尋ねた。
「さて、人の気持ちというのはよくわかりませんね」
 その問いはきっと主に尋ねるのが相応しいだろう。
「じゃあ一期一振、君は何故物語を読む?」
 この本丸の書庫にはたくさんの物語が眠っている。私はそこに生きる人々の葛藤も幸福を味わってきた。
「人の気持ちを知りたいからでしょうか」
「なるほど」
 鶴丸殿は金の瞳を細め、寂しく笑った。
 その時、私はようやくあの本が鶴丸殿に何か一つ傷を残したのだと気づいた。

 それから私と鶴丸殿がそろって書庫に行くことは終ぞなかった。