己こそが最後に残った知らぬもの

 刀は道具だ。人はそれを主に武器として使う。
 刀は人に使われ、人は刀を使う。けれども人は時に愚かで、刀の魔性に魅入られれば主従が逆転する。まるでその刀を誇示するために、刀のために人はそれを使うようになる。
 鶴丸はそういうものだと長い時の中で理解していった。一見、狂気としかいえないような行いの中にも理屈や理由はある。
 だからこそ何を見ても何をされても特別揺らぐことはなかった。
 ただ一度、墓を暴いて持ち出された時は、欲求というものが信仰や鎮魂を上回るものだと知り、さすがに驚いたのだが。
 世界には既知の事柄しかなく、永遠にそうであるという確信が諦念を生んだ。
 もはや戦うための道具であるという、生まれたときに与えられた意味は失われていた。権勢の証として彼を所持していること自体が価値である。
 その頃から鶴丸は人の顔の区別がつかなかった。彼らは鶴丸から見て一様に同じ人間であり区別をする必要はかったのだ。

 長い眠りを覚ました人間の顔を最初彼は認識できなかった。人という、刀を使う側の種であることだけを知っていれば困ることはない。けれどその人間は久しく鶴丸が忘れていた未知をもたらした。
 刀に一つの人格を認め、肉の器を与えた。にもかかわらずあくまで道具として使うことにこだわる。
 審神者と呼ばれた彼の持ち主は酷く矛盾していた。しかし人間とはおしなべて矛盾を孕んだ生き物でそれ自体驚くに値しない。
 鶴丸の出会った未知は同じ刀たちであった。
 彼らは鶴丸と同じように人の形をとる。幼い子供の容姿を持つものから、鶴丸よりも年嵩の外見のものまで。
 彼らは鶴丸と同じように人の形をしながらも刀であり、戦の道具だ。にも関わらず鶴丸が話す彼らは驚くほど人と似ていた。確かに物であるはずの彼らは人のように喜びや悲しみを得る。
 なにより彼らは審神者という今の主と過去の主を天秤に掛けさえするのだ。

 これに驚かずして、なにに驚こうというのか。

 ぼんやりと屋敷の裏手を歩いていると同じく人気のない場所を探していた大倶利伽羅に出会う。向こうはひどく不機嫌そうに鶴丸を見る。
「サボりどうし仲良くやろうや」
 鶴丸が一つ、苦笑してみせれば彼は一顧だにせず背を向けた。
 季節は秋で歩く度にさくさくと落ち葉を踏む。このままどこかで昼寝と決め込むか、それとも懐にしまい込んだ芋でも焼くか。後者は上手くやらなくてはバレてしまうスリルも味わえる。
 本丸には主の主が訪問していた。審神者というのは一種の役職で、彼らの管理者がまた別にあるということを鶴丸はこの度初めて聞いた。
 古参の刀たちは何度か経験している行事らしく、客人のためにいつもより張り切って掃除をし、支度を調える。そして客人を迎え入れてからも細々とした用をこなす。
 そうした仕事に触れることもせず、鶴丸は職務放棄を決め込んだ。審神者は刀の気まぐれだとさして気にもとめないだろう。本当に必要ならば呼ばれるはずだ。
 大倶利伽羅もまた、いつもより浮足立った本丸の空気や見知らぬ人間の気配から逃げてきたのだろう。いつもよりさらに面白くなさそうな顔をして落ち葉を蹴飛ばしている。
「いつ頃こっそり戻ろうか?」
「夕刻になれば客は帰る。夕飯時にこっそり戻ればいい」
 半ば独り言のつもりだったので返答があったことに驚いた。
「夕刻か。これは暇を持て余すな」
 大倶利伽羅は答えなかったが、鶴丸は気にも留めず軽い口調で続けた。
「屋敷で何かしら仕事をしていたほうがマシだったかもな」
「あんたにはできないだろう」
 乾いた声が鶴丸に鋭く突き刺さった。
「審神者と他の奴の区別も付いてない」
「……こいつは驚いた……」
 鶴丸は人間の区別がつかないということを、誰にも言ったことはなかった。そもそも普段本丸にいる人間は審神者だけで、区別がつかないことで困ることはなかったし、そもそも区別ができないことすら忘れていた。
 今朝、広間で刀を全員集めて審神者が紹介した時、目の前いる五、六人の人間の区別がつかないことに気づいた。ただ座っているだけならばいいが、審神者は比較的話をしやすい刀を集めて接待をさせようとしたため慌てて姿を消したのだ。話を始めたら確実に襤褸が出る。
 しかし、まさかすでにバレているとは思わなかった。
「まさかお前さんに気づかれるとは思わなかった」
「あんたがそういうやつだってのは知ってるからな」
 嘲笑するように言い捨てて大倶利伽羅は鶴丸を置いて去っていく。
 鶴丸の口元には人知れず笑みが浮かぶ。久しぶりの驚きが嬉しかったのか、大倶利伽羅が存外に自分をよく理解していたことが面白かったのか。
 夕刻の訪れはまだ遠かった。

 大倶利伽羅はほとんど適切に見抜いていたが、一つだけ間違っている。
 鶴丸は確かに人間を区別することができない。
 ただ、一人審神者を除いては。
 鶴丸が一番衝撃を受けたのは、審神者と他の人間を峻別することができたことだった。長く彼にとって人間は人間であり、個を認識することはなかった。
 けれど、今日他の人間と並んだ中で確かに審神者だけは他の人間とは違う個であるということがわかってしまった。
 未知は己の中にすら潜んでいる。
「どうだろう。喋ってるうちに他の人間もわかるようになっちまうのかな」
 それを恐れているのか望んでいるのか、鶴丸自身にもわからなかった。
 深く息を吸う。思ったよりも動揺し、わかりやすく早まった鼓動を抑える。
 既知に満ちたこの世界で揺らぐことはないはずだった。けれども、それには観測者たる鶴丸が変化をしないという前提があった。
 まさか大昔に作られた刀が変化するなどあろうはずがない。
 しかし、今の鶴丸には自分がかつての自分と同じ存在であると言い切ることはできなかった。