夜の盲点

音が聞こえる。意味を為す音楽でも言葉でもない。ザーっと荒れた音が鳴り続けていた。それは、かつて実家にあったアナログテレビのスノーノイズにも似ていたが、あれほどうるさいものでも規則的なものでもない。響きは時々強く、時々遠く聞こえる。
総じて皋にとってそれは好ましい音だった。このまま目を閉じたままでいたい気持ちと、耳を打つ音が彼を目覚めさせようとするのとがぶつかって、結局皋は瞼を震わせた。
目を醒まして最初に視界に入ったのは無音のテレビだった。当然、過去実家にあったテレビと違ってデジタル放送を受信するそれは、白い砂嵐を映すこともない。実家を出て一人暮らしをしている皋所縁の部屋にあるテレビだった。
次に昏見と目があった。皋の家にある四角いちゃぶ台は一辺がテレビに向けられている。その向かいに皋が、テレビから皋に向かって垂直に伸びる辺──皋の右手側、部屋の入り口から一番遠い場所──に昏見が座っていた。
「おはようございます。所縁くん。私たちがお鍋を囲んでからもう三日ですよ」
「いや、それは嘘だろ。俺、どれくらい寝てた……?」
部屋に置いてあるデジタル時計を見ると時刻は一時を回ったところだった。確か最後に時計を見た時は、日付が変わるまであと三十分はあろうかという時間だったから、一時間以上眠っていたらしい。肩にかかっていた毛布が滑り落ちた。ベッドの上に置いていたものをおそらく昏見がかけてくれたのだろう。昏見は「所縁くんったらつまんないですねー」と唇を尖らせて抗議している。
眠りに落ちる前に見ていたはずのテレビの画面はそのままで、音量だけが無音まで絞られている。それから、雨が降っていた。皋の耳に届いたノイズは雨音だったようだ。
「悪い。お前がいるのに寝るとかマジないわ」
「それだけお疲れだったということでしょう。今日も──ああ、もう昨日になっちゃいましたが、ハードなお稽古でしたしね」
昏見本人はさして堪えていない風に言う。昨日は譜中の舞奏社で稽古をする日だった。萬燈は用事があって来れないということだったので、昏見と二人で午後九時過ぎまで合わせ、それから昏見に丸め込まれてなぜか皋の家で二人で鍋を突くことになってしまった。強引ながら隙のない手口だったと言っておこう。
テレビで録画しておいたドラマを再生しつつ豆乳鍋を食べ、お腹がいっぱいになったあたりからの記憶がない。鍋の支度をしたのは例の如く昏見で、流石に片付けくらいは自分がやるべきだと思ったのだが、結局それも昏見が掻っ攫っていった。実際のところ、鍋の支度も片付けも昏見の手際は皋の数倍良い。そうして昏見がキッチンで洗い物をしている間にふと気づいたら寝落ちていたようだった。
「さて、所縁くんもお目覚めですし、私はそろそろお暇します。ちゃんとベッドで寝てくださいね」
昏見はそう言うと腰を浮かせた。
「えっ……」
皋が声を上げると昏見がぱちりと瞬きをしてそれから皋の方を向いた。
「どうしました?」
外では未だ雨が降っている。雨音から察するにそれなりの勢いで降っているようで、傘があったとしても五分も歩けば濡れてしまうように思えた。
これだけ自宅に押しかけられているというのに、皋の方は昏見の帰る家の場所を知らない。聞けば案外あっさり教えてくれるのかもしれないが、昏見は秘密を作るのが上手くて、尋ねようと思う瞬間さえ与えてくれなかった。
たとえ近くても、この時間に雨の中帰らせるのは忍びないという気持ちが皋にはあった。
「いや、雨降ってるし……時間も遅いし……。別に朝になってから帰ってもいいんじゃないの」
段々と声が小さくなっていったのは、これではなんだか昏見を家に泊めたいと言っているような気がしてきたからだ。実際、昏見の口元は段々と笑みの形を作っていく。これはこれで腹立たしい。
「傘持ってますし、大通りに出たらタクシー拾って帰ろうって思ってたんですけどね。でも、そこまで言われたら所縁くんのお言葉に甘えちゃおっかなー」
昏見は嬉しそうに笑う。
「……変なことはすんなよ」
「えー? 変なことってどんなことでしょう」
昏見は目を輝かせると、皋の方にずいと体一つ分身を寄せた。
「お前この時間なのに元気だよな」
「怪盗の活動時間は夜ですからね」
「そこはバーテンの……って言うところじゃなくて?」
「もちろんそれもありますよ。お店を開けてる日も怪盗行為をする時も、夜働いて朝寝てますからね。この時間は私にとって絶賛活動時間中なんです。ゴールデンタイム有貴ってやつですね!」
昏見は人差し指を立てた。
「テレビのゴールデンタイムは割と遅い時間だけどな」
「みんなが私を見る時間ってことですよ。目指せ視聴率百パーセント」
それを聞いて皋は昏見に気取られないように目を伏せて苦笑した。百パーセントとは行かずとも名探偵皋所縁と怪盗ウェスペルの対決はワイドショーで大きく取り上げられ、それなりの視聴率を獲得していたことを思い出す。
「今は視聴率より歓心ですけどね」
「それはそう」
 頷いてから皋は一つ欠伸をした。
「私のことは気にせず寝てもいいんですよ。所縁くんの寝顔を朝まで見守っているのでお気になさらず」
「気にするわ! ──マジで限界になったら寝る。俺明るくても全然眠れるからテレビ見るとかそこにある本読むとか……俺を見る以外のことで時間潰してくれ」
全然眠れる、というのは半分本当で半分嘘だ。正確に言えば眠れる時はあまり外的要因に影響されずに眠れるし、寝付けない時は何をやってもだめなのだ。
「お気遣いありがとうございます。私も横になったら三秒で寝られる方なのでぶっちゃけ所縁くんがおやすみになったら普通に寝ると思います」
昏見はあっけらかんと言ってのけた。実際寝付きも寝起きも良さそうだなと皋は勝手に羨ましく思う。
「ところで、バーでの仕事が夜型なのはわかるんだけど、なんで怪盗って活動時間が夜なの?」
「えーそんなこともわからないんですか?」
「想像はつくけどさ」
古今東西の怪盗たるもの月下で怪盗行為に及ぶものだ。それはロマンとも美学とも言うものだろう。ということを昏見に話すと昏見は大袈裟に吹き出した。
「所縁くんって意外とロマンチストですね」
「え、なに? 不正解?」
「半分正解ですよ」
 昏見は笑みを引っ込めて目を眇める。
「もちろん所縁くんや世間の皆様が想像するような、血湧き肉躍る怪盗でありたいというロマンもありますが、もっと実際的な理由だってあるんです」
 昏見はすっと部屋の隅に置いていた彼の鞄からマッチ箱を取り出した。クレプスクルムの店名が刻まれたそれを皋の目の前に置く。
「さて所縁くん。あんまり考えずに答えてください。──次回食べたいお鍋は?」
「えっ……。キムチ鍋?」
「ありがとうございます。さて、私は所縁くんと私は運命と宿命が織り成した関係。魂が呼び合う仲ってやつです。つまり所縁くんの考えていることはなんでもお見通し〜ということで私は所縁くんが次に食べたいお鍋を事前に予言していたのです」
昏見の手がマッチ箱を指す。皋は怪訝な顔をしつつマッチ箱を取り上げる。
「これは知ってる。マッチ箱の底面や側面、あとは箱の中か? それぞれ回答者が言うであろう答えを何パターンか書いてるんだろ?」
マッチ箱をひっくり返すと「しゃぶしゃぶ」という文字が書かれている。皋に向けられたのと反対側の側面には「寄せ鍋」の文字がある。皋はマッチ箱を開けて、側面を押し込んで中身を確認する。
「はい。有名な手法ですし所縁くんなら当然知っていると思っていました」
マッチ箱の中は空っぽだった。紙も入っていなければ直接文字が書かれていることもない。「なんだこれは」と昏見に尋ねようとした皋が顔を上げると、目の前のちゃぶ台にちょうどマッチ箱を何倍にもした大きさの箱が置いてあった。ちゃぶ台より一回り小さいその箱には「人生ゲーム」と書かれている。
「さて、この箱を開けてもらえますか?」
マッチ箱に目を落としたのはほんの数秒のことだった。それでもこんなに大きなものが目の前に置かれたことに皋は全く気づかなかった。してやられた悔しさもあり、皋は嫌々ながら箱の蓋を持ち上げる。蓋の裏には紙が貼られていた。「キムチ鍋」と書かれたその紙にはご丁寧に鍋を囲む闇夜衆とおぼしき三人のイラストが添えられている。
「この人生ゲームはこの通り両手で抱えるくらいのサイズがあります。普通に取り出したら当然所縁くんは私がこれをどこに隠していたのか気がつくでしょう。でも、気づけなかったんじゃありませんか? ほんの数秒ですが、所縁くんの意識は完全に手元に集中していた」
その通りだ。タイミング的にちゃぶ台からそう離れた位置ではないだろうから、テレビ台の下かテレビの裏が有力だろうと後付けの推理をすることはできる。だが、昏見が取り出した瞬間は、完全にマッチ箱に意識が向いていた。
「これが盲点です。何か注意を惹かれるものがあると人の意識はその一点に集中して、大きな盲点を作り出します。そしてね、怪盗という生き物は、人の盲点から盲点を渡り歩いて犯行に及ぶものなんですよ」
昏見は講義するように生き生きと語る。
「夜は盲点を作りやすい時間帯なんです。警察の方も基本的には昼間にお仕事をされてますから、どれだけ準備していても夜の時間帯には意識に空白ができます。普段は休んでいる時間帯ですからね。そうでなくても夜は注意を引くものが少ないので、意図的に盲点を作り出すのに都合がいいんですよ」
「よくわかったわ」
皋は降参と腕を上げる。
「で、これ……何?」
「人生ゲームです! 今度所縁くんと萬燈先生と遊びたいなって」
今日の昏見はこのサイズの箱を隠すような袋や鞄は持っていなかった。なにも仕込むのは今日でなくても良いのだ。今まで昏見が来訪した中で何か大きめの荷物を持ってきたことがないわけではない。それこそ鍋料理をするためのコンロや鍋を持ち込んだのも昏見で、そういった大荷物の中に紛れていたなら持ち込むことも十分可能だ。
「お前この部屋に何個こういうの仕掛けてるわけ?」
「秘密です」
昏見は完璧な笑みを浮かべた。おそらくは鍋料理の名前仕込まれた何かが──人生ゲームと同じくらいにインパクトがあるものが──この部屋に仕込まれているのだろう。皋は溜め息を一つ吐いて、けれどそれ以上追及はしなかった。驚かすために仕込みをする昏見は傍迷惑だが、見ようによってはいじらしくもあるんじゃないか。あるかもしれない、ちょっとはあるかなと皋は言い聞かせた。
外ではまだ雨が降っている。昏見はちゃぶ台に肘をついて頬にかかった髪を背中の方へと払った。深緋の瞳は冴え冴えとしていて、なるほど真夜中は昏見有貴のための時間なのだとわかる。
「所縁くんは夜がお嫌いですか?」
皋が黙って昏見の方を眺めていると不意に彼が尋ねてきた。
「俺あんまそういうの考えたことないんだけど……。でも、子供の頃に夜更かしをして眠い目をこすりながら本を読む時間は好きだったな。なんか悪いことしてる気持ちで」
こっそり電気をつけてから、続きが気になって読む手を止められなくなった推理小説のページをめくった。両親も眠りについたのか家全体がひっそりと静まった中で、自分だけが物語に心を弾ませている。その甘くてけれども罪深い感覚は、今思えば昏見に対して感じるのと同じ味をしていた。
なんだかんだ言って、皋は昏見が空っぽの帽子から鳩を取り出すところを期待しているのだ。舞台の上の昏見は観囃子よりも先に、皋や萬燈を驚かせてやろうと挑んでくる。それに文句を言ったことは数知れないが、「やめろ」と言ったことはなかった。正直に言えば皋もまた観囃子と同じように期待しているのだ。そういう歓心を皋は昏見に向けている。
けれど、夜更かしをした次の日に後悔したように、いつか自分は昏見に対しても後悔を覚えるのだろうか。
「超可愛いエピソードじゃないですか。そういうのもっと欲しいなー」
「うるせえ。そんなにあってたまるか」
一つ欠伸が溢れた。思考は睡魔によって途切れてしまった。この思考を遮る眠気もまた、夜の作り出す盲点なのだろう。
「やっぱ眠いから寝るわ」
「はい。おやすみなさい」
ベッドに潜り込んで、閉じかけの瞼の向こうで昏見の姿を見る。その刹那、目が合った気がした。昏見は何かを惜しむような顔をしていた。

皋が目を覚ますとカーテンの隙間から日光が燦々と降り注いでいた。雨はすっかり止んだらしい。
ちゃぶ台の上に手帳を切り取ったメモが置かれていた。
『昨晩は楽しかったです。今度は萬燈先生も一緒にキムチ鍋つついて人生ゲームしましょうね』
昏見はいなかった。玄関のドアにはしっかり鍵がかかっている。皋は髪をぐしゃぐしゃにして頭を掻く。合鍵を預けた覚えはないのだが。
窓のカーテンを開くと目を開けていられないほどに眩しい光が部屋に差し込んだ。窓を開けるとほんの少し湿った雨の名残が鼻をついた。当然ながら、窓の外に昏見の姿を見つけることもない。
深夜が昏見の時間だというのなら、この白い光が満ちていく夜明けは、彼の盲点を生み出す時間なのかもしれない。だからこそ、昏見有貴という人間は夜明け前に書き置きひとつ残して消えてしまうのだろう。盲点とはつまり弱点だ。昏見はそれを明かさず、晒さず、去っていった。
もしも、自分が眠ってしまわなければ夜明けの昏見と言葉を交わすこともあったのかもしれない。そうであれば、自分は彼の盲点を捉えることができたのだろうか。それはきっとショーの舞台裏を覗き込むことに似ている気がした。
朝日は暴力的なまでに世界を光で満たしている。願いを叶えるためには、きっといつか全てをこの白日に晒さねばならない。苛烈で傲慢で荒っぽく、品がなければ粋でもない。それでも皋は舞台上で全てを詳らかにして、カミに祈るのだ。
眩しさに瞼を閉じた。その朝は、まだ先のことだ。