「レノ、星を見に行かない?」
レノックスの部屋にフィガロが訪ねて来たのは、季節が冬めいてきた夜のことだった。
「はい。俺でよければご一緒します」
唐突な誘いだと思いつつも、断る理由はない。レノックスの答えを聞くと、フィガロは口元だけで笑った。
「それじゃあ十分後に温かい格好をして玄関で」
「わかりました」
レノックスは部屋で羊を撫でてやっているところだった。つまり、暇を持て余していたということだ。厚手のジャケットを羽織ると、羊たちに「行ってきます」と告げて部屋の外に出た。
フィガロはちょうど十分経ってやってきた。右手に古い革かばんを持っている。
「行こうか」
魔法舎の外に出るとフィガロは箒を取り出す。てっきり魔法舎の周りを散策するのだと思っていたから、レノックスはわずかに面食らった。
「どちらまで」
遠くに行くのならそれなりの支度がいるだろうか。そう思って尋ねるが、フィガロは首を振った。
「そう遠くには行かないよ」
そうですか、とひとつ頷いてレノックスも箒を取り出した。フィガロの後をついていくように空を飛ぶ。空中はしんと静まり返っていて、風の音だけが耳に響く。空には雲がなく、銀砂をひっくり返したような星空が広がったいた。
フィガロは言葉通り、五分と経たずにレノックスへと合図を出した。降り立ったのは魔法舎からそう遠くない町外れの丘の上。
「星が綺麗ですね」
レノックスがそう告げると、フィガロはわずかに驚いた顔をしてそれから頷く。
「《ポッシデオ》」
短い呪文を唱えると、革かばんの口が開く。中から二脚の椅子と水筒、マグカップが飛び出した。フィガロはどうぞと椅子を促して、自分もどさりとそこに腰を下ろした。体を包み込むような麻布と骨組みで出来た質素な椅子だ。
「ありがとうございます」
「あとこれ。コーヒー」
フィガロは水筒からマグカップにコーヒーを入れてレノックスに渡す。白い湯気が立っていた。
「至れり尽くせりですね」
「本当はお酒が良かったんだけどさ」
フィガロはマグカップを軽く揺らした。
当然のように人の気配はない。ここにいるのはフィガロとレノックスだけだった。マグカップの中のコーヒーは温かくて、苦い。
「フィガロ先生が望むのなら、お酒でもなんでもお付き合いしますよ」
レノックスは努めて優しく、それでいて気負わない声で言おうとした。
「……そう」
「ええ」
あなたが望むなら。酒で時間を忘れることも、眠れぬ夜を共に過ごすことでも。ほかに誰もいないところに行くことだって。
望んでさえくれれば、自分のできることを叶えてやるのに。
けれど、フィガロは本当にしてほしいことだけは言わなかった。口にすればかかっていた魔法が消えてしまうとでも思っているかのように、用心深く避けている。
「知っているんだけどね」
フィガロは困ったような、戸惑ったような顔をしてぽつりとこぼした。
「わかっていないでしょう」
それでも、あなたが望むなら素知らぬ顔で夜の散歩に付き合おう。本当の望みを告げられなくても、彼がそれに気づいていなくても。
「本当に星が綺麗だね」
彼は幾千回、幾万回と見上げた夜空に向かって感嘆を零す。自分の望みを口にできぬまま。