別れについて

 お別れだと誰かが言った。
 ミスラの船に死体を乗せる。すると生きている人間たちは最後のお別れをしにやってくる。ミスラにはお別れというものがよくわからなかった。
「お母さん」
 泣きじゃくって女の死体に縋ろうとする子供。それを留める大人たち。彼らの中の一人とミスラは目が合った。その目が行けと言うから、ミスラは黙って船を出す。
 お別れだと誰かが言った。
 ミスラの仕事は生者と死者に別れを与えるものだった。

 

 さよなら。
 チレッタは軽やかにそう言って、北の国を出ていった。気まぐれなひとだから、きっとまた帰ってくる。ミスラにとってその別れはほんの少し眠りにつくようなものだった。
 ミスラは帰らない彼女に会いに行った。そうだ。ミスラはどこへでも行ける。どこへでも、いつでも会いに行ける。生きている限り。
「あのまま北の国にいたら、私は彼に出会えなかった。ミスラ――出会うためにはね、別れなくてはいけないの」
 彼女は故郷とミスラに別れを告げて、運命に出会いに行った。

 

 去れ。
 オズは重々しく地面に這いつくばったミスラに告げる。敗北というあらゆる色を煮詰めて作った黒色が胸の中に広がった。恥ずかしいような悔しいような、怒りに近しい感情が腹の底に渦巻く。呪文を舌先で転がす。きっと次に放つ魔法もオズに防がれ、今度こそ自分は死ぬだろう。その予感に己が従っていることも、オズもまたミスラがこれ以上攻撃しないと理解していることにも苛々した。
「いつかあなたを倒してやりますよ」
 オズはもうミスラのことを視界にすら入れていなかった。オズの世界からミスラは切り離される。勝者は敗者のことを忘れることができる。その逆は、そうではない。
 去れ。
 その言葉を次に告げるのはミスラの方だ。

 

 これでお別れかもね。
 ミスラは答えなかった。穏やかに晴れた秋の日。窓の外の眩しい陽光に目を向けてチレッタはそう言った。
「そうですか」
「ルチルとこの子をよろしくね」
 ミスラは何も言わなかった。チレッタは彼女のお腹の中にいる子どもに出会うと決めたのだ。そのために、別れを告げる。
 別れは選択だ。ミスラは今回も選ばれなかっただけの話。

 

 ミスラおじさん、かえっちゃうの?
 ミスラの足元にいる子どもが切実な顔で訴えてきた。
「はい」
 がっかりしたような顔が、そのまま涙を流すように見えたのでミスラは身構えた。どうにも泣く子供というのは苦手だ。言葉が通じるものでもないし、かと言って無視して去るのは後味が悪い。けれどその子供は泣かなかった。
「バイバイ」
 小さく手を振る。その子供はそれが別れの言葉だともう知っているようだった。
 自分はこの子供を選ばない。心揺らされる思いはもうたくさんだった。北の国で、これまでのように生きていけばいい。
「さようなら」

 

 ミスラ。
 その声を覚えている。
 ミスラは選びたくなかった。
 美しく強靭なシードラゴンがミスラは好きだった。空を駆けたあの時間が、再び訪れるものだと信じていたかった。
「晶は賢者だと言ったよ」
 それでも、あのひとは選んだのだ。別れを。

 

 さようなら。
 その日ミスラは久しぶりに船を漕いだ。舳先は死者の国へと向けられる。
 お別れだと誰かが言った。その言葉の意味をようやく分かった気がする。
 ミスラは船を岸につけると、死者の国へと足を踏み入れた。相変わらずとても静かで、生き物の気配はない。
「フウィルリン」
 マナ石をそっと大地に置くと、他の魔法使いに見つからないように魔法をかけて隠した。
 ミスラの仕事は生者と死者に別れを与えるものだった。
 つまりは、死者に安らかな眠りを、生者に限りない出会いの可能性を。

 

 おかえりなさい。
 魔法舎に戻ったミスラの前に賢者がいた。突然現れたミスラに、賢者は驚いてそれから眩しいものを見るような顔をした。
「あなたもいつかいなくなるんですか?」
 ミスラの問いかけに賢者は息を呑んで、それからゆっくりと頷いた。
「はい」
 賢者はずっと前から別れを知っていたようだった。ミスラが知らなかったその意味を。
 別れなければ出会えない。ミスラたちと出会うための別れを、彼はとうにしているのだ。
「でもそれは今じゃありません」
 なぜか目の前の賢者とフウィルリンの姿が重なった。
「俺も選びましたよ」
 美しい別れを。

 

 また、あなたに会えてよかった。
 ルチルとミチルが駆け寄ってくる。
「ミスラさん!」
 ルチルはほんの少し興奮したように駆け寄ってくるとミスラの体を強く抱きしめた。ミチルも腕いっぱいにミスラの足を抱きしめた。
「何ですか」
「心配していたんですよ! あのときボルダ島から消えて、全然魔法舎に帰ってこないから……」
「ミスラさんが帰ってきてよかったです」
 ミスラはこの兄弟を選ばなかった。一度は別れ、しかし、賢者の魔法使いという運命によって再会した。
「戻ってくるに決まっているじゃないですか。俺はあなたたちを守らないといけないので」
 ミスラは雑にルチルの背中とミチルの頭を軽く手で撫でた。
「ミスラさん、私は嬉しかったですよ」
 ルチルがぽつりと言う。
「ミスラさんがもう一度私たちに会いたいと思ってくれたこと」

 ミスラ――出会うためにはね、別れなくてはいけないの。

 この魔法舎にいる者は皆、無数の別れを選んできた。出会うために。ここで共に言葉を交わすために。
 それはきっと、奇跡とかいうものだ。