表裏バースデー

 スマートフォンの画面に表示されたたくさんの未読通知を八谷戸遠流は指でなぞった。そのひとつひとつを確認しようとして、それから一旦画面を伏せると息を吐いた。
 行儀が悪いと思いつつ、遠流は冷房の効いた車内の窓ガラスに頬を当てた。ガラスの外は駐車場のそっけないコンクリートの壁が見える。すでに深夜と呼ぶ時間に差し掛かった駐車場に人影はないし、こちら側なら誰かに見られることもない。ひんやりとしたガラスが心地良くて、ついそのままもたれて眠ってしまいたくなった。
「ごめんね。プロデューサーに捕まっちゃって」
 車の扉を開けたのは遠流のマネージャーをしている城山だった。うとうとしかけていた遠流ははっと姿勢を正す。
「いえ……。忘れ物、取りに行っていただいてありがとうございます」
 遠流はテレビ局での長い収録を終えて、解放されたところだった。ようやく帰宅できると城山の車に乗り込んだところで楽屋に忘れ物をしていたのに気づく。スタッフも早く帰りたいだろうからと気を使って焦って荷物をまとめたのが裏目に出た。遠流が自分で取りに行こうとしたのだが、見知ったテレビ局とはいえこんな時間に未成年を1人で行かせるわけにはいかないと城山が代わりに取りに行ったのだ。
 城山が運転席に着くと、滑らかに車が発進した。
「こっちのマンションで良かったんだっけ」
「はい」
「明日は浪磯? 今日こんなに遅くなっちゃったけど大丈夫?」
「昼過ぎの電車で向かおうかと。だから、大丈夫ですよ」
 城山はバックミラーごしに僅かに遠流のことを伺った。
「高速使えば1時間くらいだけど。この時間なら渋滞の心配もないし」
「いいえ。本当に大丈夫です」
 遠流はやんわりと、けれど強い意志を込めて答えた。城山が浪磯と東京を行き来する遠流に、浪磯まで送ろうかと提案したことは何度もあったが、大抵彼は固辞していた。あくまでも舞奏と仕事は別で、舞奏のことで城山の手間を増やすのは気が引けた。
 遠流がスマートフォンに目を落として、収録中に来ていたSNSの通知やメールに1件ずつ対応していると、浪磯にいる六原三言からメールが来ていることに気づいた。『明日の練習は15時から来れるんだよな?』という確認の連絡だった。三言からこうしてメールで連絡が来るのは珍しい。送信時間は今日の夕方だから、随分と返信を待たせたことになる。『大丈夫だよ』とすぐに返信しておいた。
「そうだ。お誕生日おめでとう」
「ありがとうございます。SNSでもたくさんお祝いしてもらって嬉しいです」
 遠流は一瞬顔を上げると、テレビの中にいる国民の王子様の顔ではにかんだ。今日の遠流宛に送られてくるメッセージはほとんど全てが誕生日を祝うものだった。
「楽屋で撮った写真ってSNSにあげて大丈夫ですか?」
「ええ。確認したから大丈夫よ」
「ありがとうございます」
 遠流はスマートフォンに再び目を向けた。ケーキを囲んで共演者と撮った写真を添えて投稿しているのだろう。
「一緒に舞奏衆を組んでる子たちもおめでとうって?」
「はい。日付が変わった頃に連絡きましたよ。明日戻ったらお祝いしてくれるそうです」
「良かったわね」
 そうこうするうちに都内に借りているマンションについた。
「それじゃあ次は明後日ね」
「はい。よろしくお願いします。──おやすみなさい」
 城山と別れてマンションのエントランスに入ると、深夜の静寂に似つかわしくない声が聞こえた。
「やっと帰ってきた!」
 目の前にいたのはここにいるはずのない幼馴染の──九条比鷺の姿だった。
「今何時だと思ってるわけ?22時46分って深夜だよ深夜。未成年が深夜労働するのは違法! ブラック!」
 一瞬寝ぼけて歩いたまま夢でも見ているのかと思ったが、文句を言い始める比鷺の声があまりにもはっきりとしていたのでだんだん遠流も目の前で起こっていることが理解できてきた。つまり、浪磯にいるはずの九条比鷺が東京の自分の自宅マンションの前にいる。
「なんでお前がいるわけ? 舞奏の稽古は?」
「今日は休みの日じゃん!」
 そうだっけと遠流はすっとぼけたが確かに休みの日だったはずだ。休みの日の比鷺は家にこもってゲームをしている。しかも明日の練習は午後から。最近は舞奏の稽古が忙しくてなかなか実況があげられないと文句を言っていたから、夜通し配信でもしているのだろうと見越していた。
「三言とやっぱ誕生日にお祝いしたいよねーって話してて、ケーキを届けにきたの」
「ケーキ?」
「そ。最初は三言の作ったやつがいいよねって話してたんだけど、今日むちゃくちゃ暑いじゃん、今日じゃなくて昨日も明日も暑いんだけどさ。流石にケーキは持ってこれなかったから」
 はい、と比鷺は遠流に封筒を渡す。
「仕事午後からだって言ってたからさ、夕方には帰ってくるかなーって三言と待ってたんだよね。でも全然帰ってくる気配ないし、三言にメールしてみてもらったんだけど……」
「あれは比鷺が送らせたのか」
「だって俺が送ったらメール見ても返信してくれないじゃん!」
 比鷺の想像通り、比鷺から送られてきたメールだったら返信しなかっただろう。もしくは、『ちゃんと稽古に来いよ』と念を押したか。少なくとも、メールを見てすぐに返信したのは他ならぬ三言からの連絡だったからだ。
「別にずっとここで待ってたわけじゃないよ。仕事が終われば連絡来るだろうから、その辺の喫茶店に居座って、レス確認して渡しにくるつもりだったの。こんなに遅いと思わなかったけど、マンションに来たタイミング的には完璧だったし、やっぱ俺天才かな」
 比鷺は胸を張った。知らず知らずのうちに比鷺の読み通りの行動をしていたことが遠流は面白くない。
「それで、三言は?」
「今何時だと思ってんの? 三言は明日もバイトだから先に帰った。残念だったってさ」
「そっか……」
 この暑い中をわざわざ浪磯から来て、遠流の仕事が終わるのを見計らっていたのだろう。申し訳なさとこんな日に限って収録が長引いてしまったという悔しさで遠流は顔を歪めた。
「ああ……もう俺たちが勝手にやったことだから気にしなくていいから……」
「比鷺にはしてない」
「ですよねー」
 それはつまらない嘘だった。バイトと舞奏の稽古で忙しくしている三言が来てくれたことに申し訳なさを感じる一方、連れ出さなければ頑なに家から出ない比鷺がわざわざこうやって東京まで来たことも驚いているのだ。
 遠流は渡された封筒を開く。封筒にはカードが入っていた。開くとケーキのイラストが飛び出してくる。
「ここで開けなくていいよお……」
 比鷺がばつの悪そうな顔で文句を言う。
 『Happy Birthday』と書かれた文字の下に比鷺と三言の字が並んでいる。
「このカードは三言のチョイスだから」
「わかる」
 遠流はくしゃりと笑った。テレビを通して見るよりも、幼なく見える笑顔だった。
「これ渡すためだけに来たの?」
「そうだよ。あ、でもね。萬燈先生にラーメン奢ってもらった」
「は?」
 予想外の名前に遠流は笑みの形をしていた顔を困惑に切り替えた。しかもよく見れば比鷺の足元には買い物をした袋が転がっていて遠流を待っている間にもそれなりに楽しんでいたことが伝わってきた。
「あとこれあげる」
 比鷺は遠流にむき出しのまま手のひらにのるサイズのぬいぐるみを渡した。遠流も街で見かけたことのあるキャラクターのぬいぐるみだ。
「UFOキャッチャーで取ったから誕生日プレゼント。しかも三言とおそろいだよ」
「ありがとう」
 比鷺がにやっと笑うと、遠流は憮然とした表情のまま礼を言う。遠流は手の中のぬいぐるみをひとしきり触った後でふと気付いたように言う。
「比鷺は?」
「俺?」
 遠流が言いたいのがぬいぐるみのことだと気づいて比鷺は首を振る。
「いや、それ偶然一気に取れちゃったやつだし……。取ろうと思えば? 俺に取れないものはないんだけどねー。でも、この年で3人お揃いのぬいぐるみはこう……恥ずかしいでしょ」
「そうかな?」
「そうだよ! それに、すでに櫛魂衆として装束もお揃いみたいなもんだしこれ以上3人で揃えなくてもいいじゃん」
 その言葉に遠流は虚をつかれた顔をした。ほんの少し傷ついた顔をして、けれど比鷺が問いかける前に遠流はそれを押し込めてしまう。
「そう……だね。3人で、揃えなくたっていい」
 遠流は遠くにあるものを想うように呟いて、ぬいぐるみの頭を撫でた。比鷺はその言葉の意味に踏み込もうかとして、それから息だけを吐いた。きっと問い掛ければ、遠流はまた傷ついた顔をする。だから、比鷺は何も言えなかった。
「俺、そろそろ行くね」
 代わりにそう告げれば遠流は少し気が抜けたように、「うん」と頷いた。
「今から帰れるのか?」
 気がつけば長く立ち話をしていたが、浪磯へと帰る終電が気になる時間だ。
「帰れないんじゃない? タクシーで帰ろうと思ってたんだけど家に電話したらもう遅いから泊まって来いって言われて、その後ホテルの住所が送られてきた」
 聞けば遠流ですら知っている都内のラグジュアリーホテルの名前が出てきた。夏休みシーズンだというのに、すぐに手配できるということは、九条家の威光は浪磯に留まらないらしい。
「じゃあまた明日」
「また明日」
「ちゃんと遅刻せずに稽古に来いよ」
「わかってるってば」
 比鷺は遠流に背を向けて、それからマンションのエントランスの外に出て、そこから大きく手を振った。
「誕生日おめでとう。遠流」
 手を振る比鷺に記憶が重なる。遠流の誕生日は夏休みの最中だ。だから、家族以外で誕生日を祝ってくれたのは、わざわざ休みの日も遊んだ幼馴染たちくらいのものだった。比鷺と三言とそれと──。
 遠流も手を振りかえしてそれから自分の部屋の中に入る。東京のマンションには大したものは置いていない。寝るためだけの部屋。けれど、テーブルの上に比鷺から渡されたぬいぐるみとバースデーカードを並べた。気がつけばもう日付が変わるまで幾許もない。
 三言にお礼のメールを送る。流石に今日はもう寝ているかもしれない。だから明日真っ先に三言にありがとうを言おうと決める。
 思えば今日最初に連絡が来たのは比鷺だった。0時0分を目掛けて送られてきたメッセージ。少し遅れて三言。普段はもう寝てる時間だろうにわざわざ日付が変わるのを待っていてくれたのかもしれない。それからたくさんの、本当にたくさんの人に祝ってもらった。朝は母から電話をもらった。テレビ局のスタッフ、共演者。
 それから、アイドルとして覡として、八谷戸遠流を愛してくれるたくさんの人たち。『僕を見つけてくれてありがとう』とSNSを通して打った言葉は偽りのない本心だった。
 昏見有貴と萬燈夜帳からも連絡が来ていた。八谷戸遠流の誕生日なんて、ちょっとインターネットで検索すれば出てくる情報ではあるのだが、本当に目敏い。
 何もかもが1周目とはまるで違う。
──君も、また祝ってくれる?
 遠流は心の中で、もう顔も思い出せないもう1人の幼馴染に呼びかける。思い出せないけれど、こうやってケーキを持って自宅に押しかけてきたことがあったような気がするのだ。
──忘れてしまった僕のことなんて、祝ってくれないかな。
 何回でも何百回でも謝るから、手を振ってほしい。それに何となく、彼はこういうイベントごとが好きだったんじゃないかなと思う。誕生日ケーキを手に先頭を歩いていたのは、三言でも比鷺でもなかったような気がするのだ。
 眠気に負けて布団の中に入る。眠るのは好きだったけれど、こういう良かった日に眠るのは少し怖い。全部なかったことになってしまうんじゃないかと思うから。それでも横になるとすぐに意識が遠のいて行く。
 悪夢を見ないように明日のことを考える。浪磯に戻ったら三言と比鷺と3人で稽古をする。
 ここでかけられた祝福の言葉を全部持って、大祝宴へと向かうために。