カインが仕事終わりに突然呼び出されたのは水族館だった。オーエンの職場の最寄駅から通路で繋がっていて、今日のような雨の日でも濡れずに訪れることができる。時刻はそろそろ十九時。メッセージアプリで突然「ここに来い」と言われてカインは慌てて職場を出てきたのだった。
オーエンは入り口近くの水槽の前にいた。
「よっ」
声をかけるとオーエンはひとつ瞬きをした。
「突然どうしたんだよ」
「別に」
彼が気まぐれなのもカインの扱いがいささかぞんざいなのも今に始まったことではない。カインにとっては気を遣われるよりはこれくらい雑にしてくれる方が気が楽だ。気まぐれに付き合えるときは付き合うし、付き合えないときは付き合わない。
今日は付き合ってもいい日だった。仕事も落ち着いていたし、何よりオーエンが指定してきた場所が、二人で行ったことがない水族館だったからだ。
「なにか見たいものでもあるのか?」
尋ねるとオーエンは少し考えてから答えた。
「マンタ」
「いいな。まだ時間あるしゆっくり見ていくか」
「うん」
平日の夜の水族館はそれほど混んでいなかった。自分たちのような恋人同士と思しき人たちが多い。
小さな魚たちが群れになって幻想的な雰囲気にライトアップされた水槽の中を泳いでいる。オーエンはいつもより口数が少なかった。ただそっとカインが伸ばした手は拒まれず、ぬるい指先からは体温が伝わってくる。
「いた」
マンタが魚の群れの間を悠々と舞っていた。オーエンも足を止める。
「こうしてみるとでかいな」
「でも顔が可愛いでしょ」
「本当だ」
初めてオーエンが小さく笑う。
水槽を抜けるとペンギンやアザラシがいる。彼らを冷やかしていると、水族館の目玉であるイルカのショーが始まるという館内アナウンスが流れたので足早に会場へと向かった。
「今日はどうしたんだよ」
ライトに照らされたイルカたちが宙を舞う。くるくると回転してプールの中に飛び込むと、勢いよく端から端へと泳いでいった。
「雨宿りしたかっただけ」
「雨宿り?」
確かに今日は一日雨が降っている。朝家を出るときから帰りに会社を出るときも。
「傘、忘れたのか?」
「持ってるよ。きみと違って」
「俺だって今日は朝から降ってたから忘れてないぞ」
ぱしゃんとイルカが水中に飛び込む。飛沫が照明に照らされて七色に光った。なんだか夢みたいな光景だ。
「雨、好きじゃないから。じめじめしてて、暗くて……」
理由というには少し遠い。でも、カインにはそれで十分だった。
「ここは明るいもんな」
海の生き物がたくさんいて、外の荒天なんて知らずにきらきらとした照明の元で気ままに泳いでいる。
「気分転換したかっただけだよ。きみを呼びつけてね」
「呼びつけられて嬉しかったよ」
オーエンは不意打ちを受けたような顔をしてカインから目を逸らした。
イルカショーはクライマックス。一斉にいる形が宙返りをした。オーエンの視線はイルカたちに向けられていた。
「雨宿りがしたくなったらまた呼んでくれ」
「気が向いたらね」
イルカショーを見終わると閉園まであと三十分というアナウンスが流れていた。
「まだ雨降ってるかな」
「明日の朝まで止まないって」
水族館の出口付近にはグッズショップがある。カインがおもむろに近づくと、オーエンが尋ねた。
「なんか買うの?」
「ああ」
カインが手に取ったのは小さなマンタのマスコットだ。キーチェーンがついていて、持ち歩くのにもちょうどいいサイズだ。会計を終えると、それをオーエンに差し出した。
「これ、持っててくれ」
「え?」
「御守りがわり。いつも水族館に来れるわけじゃないだろ」
オーエンはマンタとカインを二往復眺めてから短く答えた。
「……ありがと」
オーエンの言った通り、外はまだ雨が降っているようだった。駅までは濡れずに行けるがその先はそうじゃない。家まで送って行こうかというカインの申し出をオーエンは断った。
「本当は、きみがいればそれでよかったんだ。水族館じゃなくても、どこでも」
「へっ?」
オーエンがそう言ったのは、駅のホームにオーエンの乗る電車が到着したときだった。カインとオーエンの家はここから逆方向で、それぞれ別の電車に乗らなければいけない。オーエンは満足げに笑い、人混みに紛れて電車の中へと消えていった。
「そういうのは先に言ってくれ」
嬉しいような恥ずかしいような思いで、カインはホーム上で大きく息を吐いた。