「海へ行こう」
オーエンがそう言い出したのは、カインの生家がある栄光の街に二週間ほど滞在したある日のことだった。
清流はカインのマナスポットで、特に予定がなければ川縁にデッキチェアを出して二人で過ごす。そんな穏やかな夏を堪能していた――はずだった。
オーエンは川の下流へと目をやってもう一度言った。
「海へ行こう」
カインはそれを聞いて苦笑した。
「飽きたんだな」
「そうだよ」
穏やかすぎる夏だった。賢者の魔法使いとしての任務があれば容赦なく呼び出してもらうようにしていたが、それもこの二週間は音沙汰がなかった。街に出てスイーツを買い占めたり、飲みに行ったり。そういうことはあったけれど特段トラブルはない。あまりにも完璧な夏の休暇はオーエンの気に召さなかったらしい。
「もっとなにか……戦ったりとか……奪ったりとか……」
「そういうのはこの街にいる限りなしだな」
「じゃあ行こうよ」
ここじゃないところに。
オーエンは今にもうずうずしているという顔をして唇をぺろりと舐めた。
今までもそうだった。穏やかな休暇に彼が耐えられるのなんてせいぜい二週間がいいところで、だんだんと不機嫌になってくる。そうして一人で北の国に帰ったり、魔法舎に届いた依頼を無理やり奪って雑な方法で解決したりする。
「行こうか。海。」
カインが答えるとオーエンはちょっと真顔になった。それから目を伏せて嬉しそうに小さく笑う。
エレベーターを借りるというのも考えたが、これは任務じゃない。だから、箒に乗って気長に海へと向かうことにした。東に行くか西に行くか。海水浴をする海なら西だろうとカインが主張して西になった。オーエンは穏やかさに退屈していただけで、海のその先に何があるかなんてあまり気にしていなかった。海水浴をする海に、彼が望むものなんてあるはずがないのに。それでも、オーエンは海までの道程をカインと共に行く。
海までの道程で、オーエンの機嫌はいくらか治っていた。例えば、砂漠地帯で盗賊に出会って返り討ちにしたこと。人の多いバザールで詐欺師相手に金銭を巻き上げたこと。カインからしてみればトラブルと呼ぶべき出来事にオーエンは嬉しそうだった。悪意と波乱はこの男の大好物なのだ。
「まあまあ楽しめたかも」
チョコレートパフェにスプーンを突き刺しながらオーエンは言った。昨日の夕方にこの街に到着してからは別行動だった。オーエンは市場を回って彼なりに楽しんだらしい。カフェでカインと合流したときには大層機嫌が良さそうだった。
「それは良かったが……あまり悪いことはするなよ」
その言葉に意味がないことをカインもオーエンも知っている。オーエンは悪い魔法使いだ。悪いことをさせないためには、こんなところに連れてくるのが間違いなのだ。
たとえカインに力があったとしても、オーエンの自由を奪うことはできないだろうという確信があった。それはこの世界への裏切りだ。オーエンはそれをわかっているから、わざとカインといるときは手心を加えてくれる。つまり、本当に悪いことはあまりしないのだ。それが余計にカインには堪えるときがある。
「そろそろ行くか。明日には海が見えるよ」
「そう」
自分から言い出したのにオーエンの反応は鈍かった。目的を忘れているんじゃないかとすら思う。本当に自由で、ひとを振り回すことに躊躇いがない。
「俺は海に行ったら久しぶりに泳ぎたいな。オーエンは?」
「きみに奪われたい」
その対象が何かをカインは言われずともわかっていた。
「やるなら本気でいくぞ?」
「臨むところ」
本当にオーエンは退屈していたらしい。
西の国の海岸地帯はリゾート地になっている。しかし、北部の一帯に限っては潮の流れも速く閑散としていた。海水浴には向かないが、戦うのにはちょうどいい。
オーエンは砂浜の上に無造作に立っていた。いつでもどうぞ、というように両腕を広げている。
「少しは楽しませてよ」
カインは呼吸を整える。オーエンを倒す方法を毎日の鍛錬の中で何度も何度も考えてきた。退屈な休暇中だって忘れたことはない。
「行くぞ」
声をかけたのは自分を鼓舞するためだった。落ち着いた呼吸で呪文を唱える。
「《グラディアス・プロセーラ》」
すっかり呪文は馴染んでいる。かつてよりずっと自由に使えるようになった魔法をオーエンにぶつける。
「《クアーレ・モリト》」
オーエンはこの夏一番楽しそうに波打ち際でステップを踏んだ。
「起きた?」
カインが目覚めると傍にオーエンがいた。
「……起きた」
「今度も僕の勝ち」
「ああ」
「ふふ……悔しそう」
声色が不機嫌になるのは仕方がない。どれだけ相手との力量があったとしても、負けて悔しいことに代わりはない。
「でも、まあまあだったよ」
オーエンがそう言うのだから善戦であったらしい。
カインは体を起こすと腕と首を回してからオーエンの横に座った。すでに日が暮れつつある。海面は金色に光っていて、オーエンの白い顔は赤く染まっていた。
「こっちの方が良くない?」
オーエンがぽつりと言った。ここには誰もいない。魔法に驚く者も、闘争を咎める者もいない。自分の持つ力と向き合って、それを存分に奮う。それは確かにカインの内にある何かを満たしていった。
「少し、わかる」
そう言ってからカインはオーエンの頰に触れて、それからそっと唇を重ねた。オーエンは特に拒むことはなかった。先ほどまで嫌というほど感じていたオーエンの魔力と同じ気配が交わされる唾液からも感じられた。魅入られるほどに強く眩い力。求めるように唇に吸い付くと強く肩を押された。
「がっつき過ぎ」
ほとんど砂浜に押し倒されたオーエンがカインを見上げた。まるで行儀の悪い子供を見るような目に、カインは羞恥を覚えて唇を拭った。
自分たちには獣のようなところがある。穏やかな美しい夏の一日では満足できない野蛮な本性が眠っている。オーエンはこの夏一番嬉しそうだった。なにしろ彼は暴くのが好きなのだ。
「……オーエンは甘いものが食べられないと嫌だろ」
カインにとっては負け惜しみのような言葉だ。けれどオーエンの返答は早く、素直だった。
「そうかも」
「明日は泳げる海に行こう。きっと近くで甘いものを売ってる店があるよ。泳ぐとお腹が空くから」
「アイスがいいな。どろどろの甘いやつ」
どんなアイスクリームを見ても、もうオーエンはあんなに嬉しそうな顔をしないだろう。