ひとときの別れ

 賢者様が元いた世界の本に「さよならをいうのは、少しだけ死ぬことだ」という台詞があるらしい。

 オーエンは以前カインと取り決めた通りに、一通り剣呑な会話をしたあとにはすっと真顔になって「なんで辛気臭い顔をしてるんだよ」とひと言告げた。
 夕食後の食堂はもうすっかり静かになっていて、二人以外の姿はない。食器を洗う水の音がキッチンの方から遠く聞こえる。何代か前の賢者の魔法使いが作った食器を洗うための魔道具だ。これを初めて見たとき、当代の賢者は「しょくせんき」という単語を口にしていた。
「なんだ、心配してくれているのか?」
「は?」
 オーエンは形の良い眉をぴくりと跳ね上げた。別に喧嘩をしたいわけではない。けれどそれ以外の意図がカインには思いつかなかった。
「別に。いつも呑気な顔をしているきみの様子が違うから気になっただけ」
 それを心配と呼ぶのではないだろうかとカインは思った。けれど、それを告げて機嫌を損ねたら堪らないので口を閉ざす。よりによってオーエンが声をかけてくれたのが、カインにとっては意外でもあったし嬉しくもあったのだ。
「今日はアーサーと一緒に賢者様と話をしていたんだよ。賢者様の元いた世界の話」
 以前は賢者自身が口にするのはともかくとして、彼が元々暮らしていた世界の話を訊くのはやや躊躇われた。今のところ、帰る術のわからない故郷の話だったからだ。けれど、時が経つにつれ、カイン自身も驚くくらい自然に彼の故郷の話をするようになった。たぶんこれは親しくなったのだと思う。踏み込むことができるように、踏み込まれることを許すように。
 そんなわけで話題は賢者が通っていた学校の話になった。カインたちから見れば異世界の、子供たちの生活は興味深かった。賢者の世界では、住む国によって言語が違う。だから他の国の言葉も学校で学ぶのだという。
「賢者様が学校で外国の言葉を学んでいたときに出てきた、有名な物語の台詞を教えてもらったんだ」
 その言葉は呪文のようにも聞こえた。
「『さよならをいうのは、少しだけ死ぬことだ』って」
「なにそれ」
「俺もまったく同じことを訊いた」
 その一致にカインは苦笑して、オーエンは唇を尖らせた。残念ながら賢者は物語全体のストーリーはよく覚えていないという。けれど、その言葉は印象的で、カインもつい考え込んでしまった。
 キッチンの方で食器がぶつかるカチャという甲高い音が、二人の会話しか存在しない静かな部屋にも響く。
「俺は朝になるとみんなの姿が見えなくなるだろ。おまえは除いて……だけど」
 オーエンは「ふん」と相槌にしては小さく頷くと、カインに先を続けさせた。
「眠っている間に誰かがいなくなってしまったら、もう永遠に会えないのかもしれないって思ってさ」
 もちろん目に見えていてもなお、去ったひとを見つけ出すのは時に難しい。だからカインに限ったことではないのかもしれない。それでも、カインは目覚めた朝の喪失と手が触れ合う瞬間の安堵の意味がそこにあるような気がした。別れは魂を薄く削り取るようなものだ。
 オーエンは珍しく借りてきた猫のように黙ってカインの話を聞いていた。それから少し首を横に傾ける。
「僕にはよくわからない」
 でも、とオーエンは何かを夢想するように言った。
「騎士様が夜に『おやすみ』と言って、他の誰もがきみの世界から消えてしまっても、僕だけは朝になってもここにいるんだね」
 その言葉を聞いてカインはくすぐったいような眩しいような顔をした。
「そういうことになるのか」
「きみの元をみんな離れて行っても、誰の姿も見えなくなっても。僕だけがいる」
 オーエンにとってそれは嫌味だったのだと思う。カインの左目にかかる長い前髪を彼は親指と人差し指で摘まみ上げて、オーエンは征服欲を満たすように笑う。けれど、カインは慰められるような気持ちになった。誰にでもある別れの予感を、ただ一人抱くことのない存在がここにいる。恐怖の代名詞として語られる彼が、そのくせ本当の恐怖をカインに与えることが出来ないという皮肉。カインはそれを口にはしなかった。喧嘩をしたいわけではなかったので。
「まあいいや。おやすみ。騎士様」
 オーエンは「おやすみ」という言葉にアクセントを置いて食堂を出て行こうとした。カインも慌ててその背に告げる。
「おやすみ。オーエン」
 彼との「おやすみ」はひとときの別れだった。それは、再会を疑わない言葉のように響く。


 

ボツと書かれたフォルダに入っていました。

ボツの理由はおそらく元ネタの小説『ロング・グッドバイ』における台詞の解釈的になんか違うような気もする?みたいなことを考えだしたせいだと思います。