あの頃に帰るために

 寒い。
 カインは頰の冷たさで目を覚ました。息を吸うと胸の辺りが酷く痛んだ。呻きながらなんとか上体を起こして辺りを窺う。
 月の明るい夜だ。先ほどまで戦っていた〈大いなる厄災〉は不気味なほどに美しく輝いている。
 少し離れた位置に誰かが倒れているのを見つけて、半ば這うようにしてそちらへと向かった。
「オーエン……?」
 オーエンは答えなかった。衣服はどす黒い血に染まっていて、元の白がわからないほどだった。血の気のない顔と固く閉じられた瞼から、息がないことがわかる。
 けれど、石にはなっていない。
 そのことにカインは深く安堵した。

 

 〈大いなる厄災〉との戦いは過酷を極めていた。いつしか押し返しきれなくなった厄災は、年に一度と言わず襲いかかってくる。厄災を押し留め、時間を稼ぐ。壊れかけた世界で賢者の魔法使いたちができるのは、束の間の平和を取り戻すことだけだった。

 北の国での戦いの最中、カインは攻撃を受けて落下した。そのまま地面に突っ込めばただでは済まないところを助けたのがオーエンだった。
 実際何が起きたのか、途中で意識を失ったカインにはわからない。ただ、オーエンは死んでいて、カインは生き残っている。そして――どうも戦いは終わったようだった。
 仲間たちと合流しなくてはならない。カインは事前にフィガロからもらっていた薬を飲む。強力な痛み止めだ。体の発する強烈な痛みを無理矢理薬で黙らせると、オーエンの体を抱き上げた。魔力の気配を追えば合流場所にたどり着けるはずだ。こちらからも合図を出したいが、魔力が枯渇していて魔法はうまく使えなかった。歩いていくしかない。
 力のないオーエンの体は重かった。かつて一度だけこうやってオーエンを抱き上げたことがある。そのときはこんなに重くはなかった。
 あの頃が妙に懐かしい。
 
 どれだけ歩いたのかわからないが、まだ仲間達の姿は見えない。自分の胸のあたりで「げほっ」と咳き込む音がした。
「オーエン?」
 閉じられていたオーエンの瞼が開く。彼はカインの顔を見ると小さく笑って見せた。
「なんて顔してるの」
「そんなにひどい顔をしてるか?」
「この世の終わりって顔してる」
 実際この世の終わりだと思ったのだ。
「助けてくれてありがとう」
「別に。僕はいくらでも死ねるんだから、仲間を助けるのに一回分の命なんて安いものでしょう?」
 オーエンは皮肉っぽく「仲間」と言った。カインがオーエンの立場なら胸を張って同じことをしただろう。けれど、オーエンはカインではない。
 そして、死ぬことが辛くないわけがないのだ。それでもオーエンが助けてくれたことの意味をカインは噛み締めながら歩いている。
「安くはない。俺が……不甲斐ないせいで悪いことをしたと思ってる」
「それなら次はもっと強くなって」
「ああ」
 降り積もった雪がカインの足を取る。バランスを崩して、カインはオーエンの体ごと雪の中に倒れ込んだ。起きあがろうとするオーエンをカインは強く抱きしめた。その腕が震えるのを止められない。
「オーエンとまたこうして話ができてよかった」
 〈大いなる厄災〉との戦いが過酷を極める中で、当たり前の日常が当たり前ではないのだと気づいてしまった。それは恐怖となってカインを襲う。戦う覚悟はできていても、失う覚悟なんてできていなかった。
 オーエンはカインの髪を撫でると耳元でぽつりと言った。
「きみが避けたせいで僕が投げた靴が川の中に落ちていったことがあったのを覚えてる?」
「あったな。結局魔法舎まで俺があんたを担いで帰った」
 ちょうど今のように抱き抱えて歩いた。あのときのオーエンは口を開けば文句ばかりで思わずカインも「うるさい」と言ったものだから喧嘩になったのだった。
 喧嘩になったってうるさい方がずっとよかった。静かなオーエンの体を担いで歩くのはかなり堪える。
「あの靴の代わり、まだ買ってないや」
 場違いなオーエンの言葉にカインは思わず苦笑した。まだ体は震えていた。恐怖を失くすことはできない。けれど、一つ力強く頷いた。
「今度買いに行こうか。いい靴屋を紹介するよ」
 カインは起き上がるとオーエンの背中に腕を回した。
「もう歩けるから大丈夫」
 オーエンは自分の足で立ち上がる。もうすっかり元に戻ったようだった。
「行こう」
 もう少しで仲間達の元に着く。
 カインはオーエンの手を取った。握りしめた手のひらがそっと握り返してくる。