重み付き情報選択アルゴリズムに関する一考察

 休みの日にアラームをセットしなくても、普段と変わらない時刻に起きられるのが、カインの特技だった。ブラインドの隙間から差し込む陽の光を数秒見つめて、それから手首につけたスマートバンドで時間を確認する。時刻は八時数分前。体を起こして大きな欠伸をするとブラインドを開けるようにベッドサイドにあるホロパネルのボタンをタップした。
「おはよう」
 未だベッドの中で眠っているオーエンに声をかける。軽く肩をゆすると、「……ん」とむずがるような声が聞こえた。
 眠っているといってもアシストロイドに睡眠は当然必要ない。その代わりに定期的な自動メンテナンス作業を行う必要があり、所有者の眠っている夜間帯に実行されるようになっている。オーエンの説明によればフラグメンテーションの解消や、カルデアシステムによる高度な感情解析処理演算を行うためのサーバー通信とのことだが、カインには一割も理解できていない。緊急時に即時起動できるように設定してあったのを、こうしてカインと眠っているときはオフにしている理由も説明されたが、カインは「要するに俺を信用してくれてるってことでいいのか?」という大雑把な理解だけをして、オーエンを不機嫌にさせた。
 とにかく、オーエンはアシストロイドのくせに寝起きが悪い。
「朝だぞ」
 オーエンがもぞりと寝返りを打つとベッドが揺れた。瞼は未だ固く閉じられていて、髪と同じ銀色のまつ毛はぴくりとも動かない。
 起きているときはそうそう触らせてもらえないさらさらとした髪の毛を指で梳いてみる。髪も首筋の柔らかい皮膚も、完璧すぎる気はすれど人のものと違わぬ手触りだった。
「おはよう。カイン」
 しばらくするとオーエンの瞼がぱっちりと開いた。薄紅の瞳がカインを見上げている。
「おはよう。オーエン」
「何してたの?」
「いや、なんか綺麗だなと思って……」
「は?」
 オーエンは怪訝な顔をする。
「ペットロイドを触るみたいに触らないでよ」
 そう言いながら猫のように身をよじるとブランケットから這い出てきた。
 カインとオーエンが動くと自動的に部屋の家電や照明が自動的に動き出す。ダイニングに置いてあるホロディスプレイには設定してある通りに朝の天気予報が表示され、コーヒーメーカーは自動的にコーヒーを淹れ始める。オーエンは寝室の掃除を始める丸い形のロボットを指先で小突いた。
「朝ご飯、卵は何がいい?」
 カインが冷蔵庫を覗きながら訊ねる。
「ふわふわの甘いやつ」
「スクランブルエッグ?」
「そうとも言う」
 ロボット掃除機を解放してオーエンもダイニングに顔を見せた。
「作ってるから、パン買ってきてくれ」
「わかった」
 カインの借りているこのアパートメントのいいところは、道を挟んだすぐ向かいにベーカリーがあるところだ。仕事の日はパンを買ってそのまま出勤できる。
 ボウルに卵を割って泡立て器でよくかき混ぜる。そこに牛乳と砂糖を入れてさらに混ぜてから、弱火で熱したフライパンの上に注ぎ入れた。フライパンの上ではあまり触らない。ふつふつと火が入って固まり始めたらヘラで大きく混ぜて、半熟のうちに皿に載せるのがポイントだ。料理上手な同僚から教えてもらった数少ないカインの得意料理だった。
 冷蔵庫にあったパック詰めのサラダを皿に添えれば、これだけでも立派な休日の朝食だろう。スクランブルエッグを焼いたフライパンに今度はベーコンを載せて焼き始めると、玄関のドアが開く音がした。
「おかえり」
「ただいま」
 オーエンが買ってきたパンを皿に並べる。パンのチョイスはいつも彼に任せていたが、大抵その時焼きたてのパンを買ってくる。今日はバターの匂いがするクロワッサンだった。
 カリカリに焼いたベーコンも皿に乗せる。コーヒーは二つのマグカップに。片方はブラック、もう片方はミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレだ。
 朝食をダイニングのテーブルに並べて腰を下ろす。テーブルの真ん中に陣取っていたホロディスプレイをオーエンが指先で部屋の隅に追いやった。
「いただきます」
 オーエンは律儀に手を合わせた。それからフォークでカインの作ったスクランブルエッグを掬い上げた。
 一人暮らしをしていた時間が長いせいか、こうやって誰かが目の前にいるのは新鮮な気分だった。オーエンという居候は猫のように気ままに現れて何週間もカインの家に滞在したかと思えばふらりと姿を消す。そしてまた現れる。
 カインも焼き立てのクロワッサンを手に取るとかぶりついた。思えばこのパンのチョイスも自分だったら選ばないものだ。
「クロワッサンって上手に食べられた試しがないんだよな」
 ポロポロとパンくずがこぼれる。別にテーブルの上のパンくずは拭けばいいし、床に落ちたものはロボット掃除機が吸い取ってくれる。それでも上手に食べられないせいか、なんとなく自分では選ばないクロワッサンを食べるのは久しぶりだった。
 ふと向かいを見ればオーエンも口の周りをパンくずで汚しながらクロワッサンを頬張っている。
「おまえもか」
「なに?」
 オーエンが首を傾げた。
「クロワッサンの上手な食べ方を知らない」
「そういうのは僕じゃなくてそっちに聞いてくれる」
 オーエンが部屋の隅に寄せたホロディスプレイを指し示す。カインが音声入力でネットを検索すれば何件かヒットする。
「千切って食えって」
「ふーん」
 オーエンは適当な返事を返したが、興味を引かれたのか試しにクロワッサンを一口分千切ってみせた。
「千切ってもあんまり変わらない」
「そうみたいだな」
 カインは笑う。
「何、笑ってるの」
「いや、おまえも俺と同じように上手に食べられないんだなって」
「情報の取捨選択だよ。どうでもいいことはストレージの無駄だから、スリープモードの間に優先度の低い情報から削除されていく。人間風に言うなら忘れるってこと」
 オーエンはベーコンを食べてからフォークをくるりと回した。それから不満そうに唇を尖らせた。
「だけど、エピソードに紐づいた情報は保存の優先度が高い。これは人間の記憶のメカニズムを模したアルゴリズムになっているからなんだけど……」
「どういうことだ?」
「忘れにくいってこと。こんな物凄くどうでもいいことなのに。君と話したことは全部、どうでもいいことなのに覚えてる」
「それは……」
「それは……?」
「光栄なことで……」
「何それ」
 カインは照れ隠しのつもりで笑って誤魔化した。こんなくだらない朝の一幕が、彼の中で大事な記憶として換算されていることがこそばゆくも嬉しかった。