サッカーワールドカップを見るカイオエ

「カイン。この後用事ってありますか?」
 社長に声をかけられて、カインはパソコンから顔を上げて答えた。
「いや、特には。夜はサッカー見ようと思っていたけど」
「ああ……ワールドカップですか?」
「そうそう」
 カインは頷いた。スポーツ全般が広く浅く好きなタイプで、決して熱心なサッカーファンではない。それでも四年に一度のお祭りとなると俄然興味は湧くもので、ここ数日は夜中の試合もつい見てしまって寝不足気味だ。
「何かあるのか?」
「用事がなければ帰りにオーエンに書類を届けて欲しかったんです。忙しいなら別に郵送で送ってもいいんですけどね」
 事務所から郵便局は距離にすると近いのだが、きつめの坂が道中にあるので行かずに済ませたいという気持ちになるのも無理はない。
「それくらいなら届けるよ」
「ありがとうございます」
 ちょっと待ってくださいね、と社長は封筒を机から取り出すとそこに書類をまとめて入れて封をした。
「それじゃあよろしくお願いします」
 封筒を受け取ると、カインはタイムカードを押した。
「それじゃあお先に」
「お疲れ様でした」

 カインは今年の夏からフォルモーント探偵社でアルバイトしている。事務員兼調査助手というのが彼の与えられた肩書きで、今日も会社で事務作業をしに出勤していたのだった。
 社長が口にしたオーエンも探偵社の社員で、カインとは同い年の先輩社員だ。彼は正規の調査員で、日頃会社で姿を見せることは少ないが、自宅のマンションから調査業務をしている。なまじ会社から近いだけに、こうして書類を配達したことは何度かあった。
「えっと……ここだよな」
 会社を出る前に社内チャットでこれから訪問することは伝えてある。相変わらず「わかった」という短い返事は、三十秒と立たずに返ってきた。
 オーエンの住むマンションは高級マンションと呼んでいい部類だった。毎回エントランスをくぐるのには気後れする。インターホンを操作し、繋がったと思った刹那、カインの言葉も聞かずにインターホン越しの声が捲し立てた。
「手が離せないから勝手に上がって。鍵は開けてあるから」
「おう」
 自動ドアが開いたのでそのままエレベータで最上階まで上った。オーエンの言う通り、玄関に鍵はかかっていない。
「お邪魔します」
 申し訳程度に断って中に入る。書類の受け渡しは玄関で行なっていたので、彼の部屋に入るのは初めてだった。
 廊下を進むと広いリビングがある。部屋の照明は暗く、オーエンの姿はない。
「オーエン?」
 リビングの奥に一室あるようでそちらを覗き込むと扉に背を向けてデスクに向かう人影があった。
「書類そのへんに置いておいて」
「ああ」
 オーエンは目の前に並んでいる三枚のモニターに視線を走らせると、猛烈にキーボードを叩いていた。
「忙しそうだな」
「欧州の市場が動き出す時間だから。──まあ、こんなもんかな」
 ふっとオーエンの指が止まる。ぐっと伸びをしてからカインの方を椅子ごと回転させて向いた。綺麗な顔に薄い笑みを浮かべる。
「お遣い、ご苦労様」
「そっちこそ、お疲れ」
 フォルモーント探偵社の本業である調査事業はとんだ赤字事業である。それを補填するために、オーエンは会社の金でデイトレードをして利益を上げている。社長から以前ちらりと聞いた投資金額は、カインにとって想像もつかない規模の額だったことを覚えている。
 ふわあ、とオーエンはあくびをした。昼間は日本市場、夜も海外市場の相場を追っている彼がいつ寝ているのか、カインは前から不思議に思っていた。なんなら本業の調査業務もあるのだ。
「仕事、忙しいのか?」
「仕事は別に……。夜ワールドカップ見てるからちょっと寝不足な」
「オーエンもサッカー好きなのか!?」
 ぐいっとカインがオーエンに近づく。彼はちょっと鬱陶しそうに眉を顰めて答えた。
「試合結果で相場が動くこともあるから見てるだけ」
「なあ、良かったらこの後一緒に見ないか? 俺も毎日楽しみにしててさ」
 スポーツに縁遠そうな同僚との共通点を見出してカインは少しばかり舞い上がっていた。同い年ということもあって、それなりに意識はしている相手だった。せっかくなので距離を縮めたいと気持ちが逸った。
「……別にいいけど」
 オーエンはふいっと顔を背けながら答えた。

 フォルモーント探偵社の請け負う仕事は少しばかり変わっていて、この世界で起こる不思議な現象を専門にしていた。たとえば、家の中から不審な物音がするであるとか、幽霊を見たであるとか。これだけ聞くと、フォルモーント探偵社の社員たちはまるで怪しい霊能力者のようだが、それもあながち間違いではない。なにしろ、探偵社の者たちは社長である真木晶を除いてみな何かしら不思議の力を持っているのだ。
 カインも例に漏れず不思議な力を持って生まれてきた。世界を救えるようなたいそれた力でもない。それはたとえば──。
「ただいま」
 つい自宅に帰ったような挨拶をする。気安すぎただろうかとオーエンを窺うが、彼はさほど気に留めた様子はない。むしろカインの持っているビニール袋に目を視線が釘付けになっている。
「買ってきてくれた?」
「買ってきた買ってきた」
 カインはビニール袋に入っていた紙製の箱と紙袋を取り出す。駅前にあるチェーン店のフライドチキンとビスケットだった。オーエンはメインのチキンには見向きもせずに丸くふわふわとしたビスケットを取り出した。
「本当だ。あったかい」
 オーエンはそこで初めてカインの方を見た。
 ここから駅前までは歩いて十五分。すっかり寒くなったこの季節ならチキンもビスケットも冷め、蒸気が結露することで中身がしんなりしてもおかしくないのだが、カインが持ってきたフライドチキンとビスケットは調理したての完璧さを保っていた。
「これが俺の使える不思議の力なんだけど……」
 不思議の力は心の力だ。本人の感じる嬉しいことや感動することに対して発現しやすいと言われており、カインの場合、物の暖かさや冷たさをキープするのは比較的意識せずに使えた。便利ではあるが、怪しまれやすくもある。日頃は気を付けているものの、探偵社の面々の前であれば気を使わずに披露できる。
「へえ、便利だね」
「だよな!」
 オーエンはビスケットにたっぷりメープルシロップをかけた。添付されているものだけでは全く足りないようで、冷蔵庫からボトルを持ってきている。カインは手を洗うとフライドチキンにかぶりつく。
「はじまった」
 リビングのテレビはスポーツバーに備え付けられているような大きさだった。そこにインターネットの配信サイトが流している試合中継を映していた。ついでにテレビの前にあるソファも一人暮らしにしては大きな四人がけで、これ以上ない視聴環境である。
 キックオフ。歓声と共に試合がスタートした。
「サッカー好きなの?」
 メープルシロップでべたべたになった指先を舐めながらオーエンは尋ねる。
「スポーツ観戦全般好きだけど、その中でも割と。子供の頃やってたし」
「そうなんだ」
 少しだけオーエンの興味を引けたようでなんとなく嬉しい。チキンと一緒にコンビニで買ってきたビールの缶を揺らす。オーエンも同じように酎ハイの缶に口をつけた。これも彼のリクエストで、甘いことで評判の酎ハイは果たしてメープルシロップ特盛のビスケットに合うのだろうかとカインは思ってしまう。
「オーエンは?」
「言ったでしょ。仕事の一環でチェックしてるだけ」
 オーエンはそう言いながらも、ゴール際までボールが運ばれればテレビ画面に目が向くし、シュートされるとあっと息を飲んでいる。結構好きなんじゃないかと言ったら怒られそうなので、カインは心の中でだけ呟いた。

「来た! 逆転!」
 ボールがゴールの中に押し込まれる。カインは思わず歓声を上げると、大学の友人にするみたいにオーエンのことを抱きしめた。背格好は同じくらいだが、カインよりも薄い体が腕の中に収まる。
「……っ!」
「やったー!」
 カインの腕の中でオーエンは一度硬直して、それから乱暴にカインの腕を振り解いた。
「なっ……にしてるんだよ!」
「悪い悪い。つい、な」
「サッカーやってるとみんなそうなるわけ?」
 テレビ画面の向こう側でも選手たちが抱擁しあっている。
「そんなことはないと思うけど……」
 まずい。ちょっと親しげに振る舞いすぎただろうか。そんな風に思ってオーエンの横顔を窺うと、彼の頬から耳にかけて赤くなっていることに気づいた。それを見てカインもなんとなくそわそわする。話題を変えるように無理やり試合に意識を戻した。
「あと何分耐えればいいんだ?」
「あと五分とアディショナルタイム」
「今回アディショナルタイム長めなんだよな……」
 サッカーの試合時間は前半後半それぞれ四十五分。それに試合が止まっていた時間を加味したアディショナルタイムだ。勝ち越していると試合終了のホイッスルが鳴るまでが長い。カインは思わず両手を合わせた。ここまで来ると祈るしかない。カインの不思議の能力がもっと強い者だったら──それこそ世界をひっくり返せる力の持ち主なら、時間を倍速で進めているだろう。オーエンの目もじっと趨勢を見守るように画面に釘付けになっている。
 そして、ホイッスルが鳴った。
「勝ったー!」
 オーエンは酎ハイの缶をカインの方に差し出した。カインも意図に気づいて、ほとんどからになっていたけれどビールの缶をこつんとそれに合わせた。
「乾杯」
「お疲れ」
 まあ別に自分達は温かい部屋で酒を飲みながらテレビをつけていただけで、ピッチを走った訳じゃない。それでも疲労感に似たものを感じる。気疲れというやつだ。

 ひとしきりインタビュー映像を横目にあのシーンはどうだっただの、次はどうなるだの話し込んでいると日付が変わっていた。「じゃあそろそろ帰るよ」
「えっ?」
 カインとオーエンは顔を見合わせた。
「帰るの? 今から?」
「いや、別に俺のアパートまで歩いて三十分だし……」
 日付が変わったとはいえこの辺りは治安も良いので、夜中に出歩くことにさほど抵抗はない。酔いと興奮を覚ましながら歩くのにはちょうどいいくらいにカインは考えていた。
「日付変わってるのに帰れとか……僕でも言わないよ……」
 オーエンは心外だという顔をしている。
「泊めてくれるならそりゃありがたいけど、いいのか?」
「誰かを泊めたことないから、よくわかんないんだけど、それでもいいなら……」
 オーエンのことは社長や探偵社の古株であるスノウとホワイトから多少聞いている。真木家が運営する養護施設育ちで、家族も友達と呼べるような親しい人もいない。だから、同い年のよしみで仲良くやってほしいと言われた時、カインはさして考えることもなく頷いた。どんな奴なのかもわからないし、どうしたって気が合わないことはあるだろう。それでも、仲良くしてみたいなと思った。
 実際のところ、カインとオーエンにはあまり共通点はないし、せいぜい業務の合間にちょっとした言葉を交わすくらいだった。けれど、偶然同じものが好きだとわかって、真夜中に二人でこうして一緒にいられる。
 人と触れ合うことに慣れておらず、こんなに広い部屋に住んでいるのにいつも一人ぼっちの彼と、最初に真夜中を過ごせるのは光栄なことだった。
「泊めてくれるならもう一試合見ようぜ」
 カインはオーエンの肩を叩いた。オーエンは頷く。
 予選リーグは毎日三、四試合行われる。ドーハの空はまだまだ明るかった。

 翌朝、社長はカインとオーエンの二人に探偵社に顔を出すように社内チャットで連絡をした。新しい調査案件が入ったのだ。しかしなかなか既読はつかない。
 夜通しサッカーの試合を見たせいで、ソファの上で屍のように眠る二人がそれに気がつくのはもう少し先の話。