君は世界の法則を知らないから

I
「わがままきいてもらってありがとうございます」
賢者は頭を下げながらも、悪びれずに笑っていた。
「これくらい大したことじゃないさ」
カインはシャツの袖口にあるボタンを止め、ジャケットの裾を払う。
「とっても素敵だったので、ちゃんと記録に残しておきたくて」
“熱の町”での事件を解決して数日が経った。賢者はせっかく素敵な衣装だったのだから、もう一度”熱の町”での装いを見たいと魔法使いたちに依頼した。賢者が元いた世界では人物や風景を一瞬で切り取って絵として残すことができたそうだ。しかし、この世界では記憶に残すか、言葉尽くして書き残すしかない。記憶を形として留める魔法はあるが、賢者に魔法は使えない。
賢者はさしてそれを惜しいという顔はしなかった。ただ、納得いくまで無心でこの世界を見つめている。カインからすれば危なっかしいとさえ思う。
「こちらの世界でも婚礼の衣装は白なんですね」
賢者は帳面に何かを書きつけている。その中身をカインは知らないが、賢者にとってそれは大切なものなのだろう。
「ところで他のやつは……?」
魔法舎の中庭をカインは見渡す。あの時一緒に行ったはずの魔法使いの姿は他に見えない。
「アーサーは忙しそうだったので……。シャイロックとムルは昨日の夜、シャイロックのバーにお邪魔したら喜んで着替えてくれました。今日ここに誘うつもりだったんですけど、2人ともノリノリだったので」
「あーなんか目に浮かぶな」
「クロエとラスティカはこの後呼ぼうかと……」
「後?」
少し賢者は言いにくそうにしてから目線を庭の奥へと向けた。
「僕と会いたくないんでしょ。クロエが」
にやにやと機嫌の良さそうな顔をしたオーエンがボウルいっぱいの生クリームを舐めながら近づいてきた。衣装はカインと同じく白。口元にもべったりと白いクリームが付いている。
「それで、俺とこいつなのか……」
ふむ、と納得するとカインはすっきりしたようだった。つい昨日、オーエンと一緒に王都中の菓子店を回り、財布を空にされたことも特に気にしていないようだ。
「賢者様もわざわざ僕に声をかけなくてもよかったんじゃないの?」
挑発するようにオーエンは賢者に囁く。それを賢者は一蹴した。
「できるなら全員の姿を目に焼き付けたいんですよ。アーサーは仕方がないですけど──オーエンにはちゃんとお願いしたいと思ってました。とっても素敵だったんですから!」
その言葉に、オーエンは何も言わずその顔を伏せた。怒っているようでも安心しているようでもある、たくさんの絵具を混ぜたような表情だった。
カインは一度賢者の肩を叩く。オーエンには言いたいことが山ほどあり、他の賢者の魔法使いたちに対するような好意も持てない。けれど、賢者が、オーエンを自分と同じように賢者の魔法使いの一人として扱うところがカインは好きだった。
少し重くなった空気を変えようとカインが思ったその時、珍しい客を発見した。
「お、うさぎ」
近づくとカインの目に留まったのは二羽のうさぎだった。白いうさぎと黒いうさぎ。寄り添うようにして木陰で休んでいる。
「珍しいですね」
賢者が近づくと、怯えるようにもぞもぞと二羽のうさぎは身動ぎした。
「賢者様のことが怖いってさ」
オーエンがにこやかな顔で告げた。それを聞いて賢者の足が止まる。
「ええー、全然怖くないですよー……ってダメか」
賢者はしゃがんで精一杯の甘い声を出す。しかし、うさぎたちの様子は変わらなかった。
賢者のことを鼻で笑うと、オーエンはうさぎたちに近づいた。囁くように声をかける。その言葉ははっきりとは聞こえないけれど、オーエンとうさぎは通じ合っているようだった。
「恋人なんだって」
うさぎがなんと言ったのか、賢者とカインにはわからなかったけれど、もう怯えた様子はなかった。
「こいつらが?」
元々動物が嫌いではないカインはうさぎに近づく。賢者が声をかけた時の怯えた様子はなく、カインが屈んで顔を寄せるとうさぎたちもカインの顔をじっと見た。
「そう」
「だったら、祝福してやらないとな」
“熱の町”でそうだったように。カインは二羽のうさぎを優しく撫でる。
黒いうさぎと白いうさぎ。賢者は戻れない故郷でいつか聞いた物語を思い出す。
「魔法使いの祝福ってご利益がありそうですね」
オーエンはそれを聞いて唇の端を上げて笑った。
「魔力のこもっていない言葉になんの意味もない。僕たちは神様じゃないんだから」
その言葉にはどこか虚しさがある。


「魔法使いにできないことなんてあるのか?」
昔、友人に訊かれたことを最近カインはよく思い出す。
あの時自分はなんと答えただろうか。

その日は朝から雨が降っていた。大人しく魔法舎の中で一日過ごしていたものの、体がなまるような気がして、雨が弱まったタイミングを見計らって外に出た。

日が暮れていることに気づいたのは外に出てからだった。朝から暗かった空はいっそう暗い。雨はもう傘がいらないほど小降りになっている。中庭に出ると、今日は一度も顔を見なかったオーエンが立っていた。
人形のように精巧で美しく、けれど恐ろしい。まるで、魂がそこにないように見えたからだ。
声をかけるのを躊躇ったが、それでもカインはオーエンに近づいた。声をかけたらそのまま彼の体が崩れてしまうのではないかという怖れと、それでも放置することが咎められるような儚さが足に絡みついていた。
近づくと、オーエンの目線が地面に向けられていることに気づいた。
「お前……」
足元にはぴくりとも動かない白うさぎと、その横で瞳をオーエンにまっすぐ向ける黒うさぎがいた。しばらくして黒うさぎは白うさぎの体に顔を埋めた。うさぎと会話することはできないのに、カインにはそれが慟哭だとわかった。
オーエンはゆっくりと顔をカインに向けた。そこにあるのはやはり無だった。それは、今まで見たどんなオーエンの表情よりも怖ろしくて悲しかった。
「魔法使いにできないことを知っている?」
それはいつかの問いに似ていた。自分はなんと答えただろうか。
オーエンはその答えを知っている。
「死んだものを生き返らせることだよ」
カイン自身も知っていた。

「魔法使いにできないことって……そんなことを言われてもなあ」
母の言いつけを破り、自らの秘密を明かした友人がいた。今となっては、よくもまあ魔法使いである自分と仲良くしてくれたと思う。あの頃の自分は魔法使いであることをちょっと便利な特技があるくらいにしか思っていなかったし、友人もそうだっただろう。無知な子供時代の話だ。
カインは少し考えて、それからこう答えたはずだ。
「俺ができないのか、それとも魔法使いがみんなできないのかはよくわからないけど……この世界のルールみたいなものをねじ曲げられるわけじゃないんだろうな、とはなんとなく思う」
カインはノートに線を引いた。横に二本、縦に二本。九つのマスに数字を埋める。
「どこの行を足しても、どこの列を足しても十五になる、魔方陣。知ってるだろ?」
ほら、この間授業でやった。そう言うとカインは続ける。
「これをさ、十六とか十四には多分できない」
どういうこと、と質問した友人は首を傾げる。
「俺もよくわかんないけど、魔法使いでもどうにもならない世界のルールが、きっとあるんだよ」
例えば──。
「死んだ生き物を生き返らせるとか」
いや、本当にそうかは、わからない。カインだって試したことはないし、できる魔法使いもいるのかもしれない。でも、本能に刻み込まれたように、カインは「知って」いる。
魔法使いの力は心の力。けれど、どれだけ願っても届かない領域がこの世界にはあるのだ。


白いうさぎは中庭の片隅に埋められた。オーエンは何も言わず、カインが一人で埋めた。
「騎士様?」
突然かけられたあどけないこえに驚いてカインは振り返る。
「騎士様、この子泣いてる。目が真っ赤」
すぐに、目の前にいるオーエンが、いつものオーエンではないことがわかった。このオーエンには、いつものオーエンの記憶がない。だからここで起きたことを彼は知らない。
「悲しいことがあったんだよ」
子供に対して誤魔化すようにカインは言った。
「目が痛いの? 目薬あれば治る?」
その時初めて、カインはこのオーエンに対して戸惑いではなく、ほんの少し苛立ちを感じた。
多分、それはこのオーエンが知らないからだ。
「痛いんじゃないんだ。きっと。失ったものが、戻らないから泣いてる」
このオーエンは知らない。当たり前に、カインとオーエン知っているべきことを。
オーエンはカインよりもずっと多くのことが魔法でできる。魂すらその身に留めず、何度も生き返ることだって。それでも律儀に彼は死ぬ。死なない生き物はいないからだ。
魔法使いの本性はおそらく魂にある。人間や、この世界のほとんどの生き物とあり方が違う。だから、肉体は蘇ることができる。けれど、それだけだ。永遠の死を克服できるわけでもなければ、なかったことにすることもできない。
どんな魔法使いでも触れられない世界の法則があって、それを彼らの魂が知っている。それが、魔法使いという生き物であるはずだ。
だから、カインは切実なほどにいつものオーエンが戻ってくることを願った。知っている者が、今ここにいて欲しかった。
「騎士様? 騎士様も泣いてるの?」
自分と同じ生き物はここにいない。今胸の中に沈む感情。これがきっと孤独なのだ