このひとときは死より安らかな眠りを

最初に発見したのはヒースクリフだったらしい。

血相を変えて食堂に入ってきた者の顔を、カインは見ることができなかった。それでも、うるさい足音と慌てた気配が何か大変なことが起こったことを伝えてくる。
「ヒース。どうした?」
最初に尋ねたのはシノだった。そのおかげで足音の人物がヒースクリフであったことがカインにもわかった。
「プールでオーエンが……」
「オーエンが?」
「し、死んでるんだ!」

「魔法舎にも海があればいいのに」と言ったのはリケだった。ボルダ島からたくさんのおみやげ話を持ち返ったリケは、ボルダ島へのバカンスに行かなかった魔法使いたちを相手に、1つ1つ丁寧に語って聞かせた。
日の光が反射してきらきらと光る水面。中央の国では嗅いだことのない潮の香り。寄せては返す波の音。どれだけ言葉を尽くしても語りきれないというリケの想いが溢れ出るように、「魔法舎にも海があればいいのに」という言葉が彼の口を突いて出た。
「海があったら素敵じゃろうな」
「魔法舎が海に沈んでもよければやりようはあるがのう」
双子の魔法使いは微笑んで物騒なことを言う。
「ここが海の底に沈むのは困る」
カインが苦笑いで答えれば、リケは真面目な顔で同意した。
「海の底に沈んでしまったらネロのご飯も食べられませんし……」
「海は無理でもプールくらいならなんとかなりませんかね」
話を聞いてきた賢者聞き慣れない単語を口にした。
「プール?」
「こちらだと何に近いんだろう。人が泳ぐための池みたいな……。本当のプールは25メートルくらいあるんですけど、そんなに大きくなくても水遊びができるんじゃないかなって。──あ、海とは全然違いますけどね」
賢者はリケが期待を持ちすぎないようにと申し訳なさそうな顔を見せた。
「プールというものも見てみたいです。魔法舎にあればミチルとも遊べます!」
そういうわけで、スノウとホワイトの協力もあり、魔法舎の敷地内に小さなプールが夏季限定で設置された。
およそ四方を歩いて40歩ほどのプールは泳ぐには物足りない。けれど魔法で海水を流し込んだこともあり、パラソルを並べればビーチのような情緒がある。
リケやミチルはもちろんのこと、他の魔法使いたちも存外このプールを気に入ったようで、昼間はプールの周りで寛ぐ魔法使いたちの姿を見ることも多い。だが、夜ともなれば誰も寄り付かない。
ヒースクリフがプールの方へ足を向けたのはほんの気まぐれだった。夕食を摂ってから魔道具でもある時計のメンテナンスを始めると、いつの間にかすっかり夜が更けていた。凝った体を解そう。そう思って夜の散歩に出たところで衝撃的なものを発見したのだった。

カインがプールに近づくと確かに人影があった。
「オーエン!」
オーエンはうつ伏せになってプールの上に浮かんでいた。顔は見えないが、服装でオーエンだとわかる。それに何より、体に触れる前にカインの視界に映っていることが、彼がオーエンである証だった。
カインは音を立てて水に飛び込んだ。実際にプールの中に入ったことはまだなかったので、飛び込んでから案外深いことを知る。日が落ちて随分経ったからか水は冷たかった。
オーエンに近づくと「死んでいる」というヒースクリフの言葉が真実であることがわかった。そもそも魔法でも使わない限り、水に顔をつけ続けたら死んでしまう。体は冷たく、水と同じ温度だ。
オーエンの体を引っ張って陸に上げる。水の中はもちろん、引き上げる時も、不思議なほどオーエンの体は軽かった。
シノとヒースクリフがオーエンの顔を覗き込んでくる。
「オーエンって……」
「心臓を隠しているから死なないんだろう?」
ヒースクリフは心配するように、シノは見知らぬ野生動物を見るような目でオーエンを窺った。
「そのはずなんだが……」
魔法使いは死ぬと石になる。すなわち死体があるということは蘇るということだ。しかし、自ら引き上げてもオーエンの体はぴくりとも動かない。このまま放置するわけにもいかないが、どうしたものかとカインは思案する。
「シノとヒースはもう遅いし、魔法舎に戻ってくれ。ついでにフィガロにこのことを伝えて大丈夫か聞いてもらえるか?」
「それはもちろん……カインは?」
「もう少しオーエンの様子を見てるよ」
「わかった。フィガロを起こしてくる」
 シノとヒースクリフが去ってもオーエンの体は冷たいままだ。横たえたオーエンの体の頭の方に座って、無遠慮に頬に触れる。ぺちぺちと叩いても反応がない。仰向けの体を横に倒してやる。そうするとオーエンの口からゲホっと水が溢れた。
「おい、大丈夫か?」
オーエンは苦しそうに咳き込んでいたが、しばらくすると落ち着いたのか、カインを見て眉を寄せた。
「なんでいるわけ……?」
「お前が死んでるってヒースが見つけたから」
「……そのままにしてくれてよかったのに」
「明日になって死体がそのまま浮かんでたら可哀想だろ」
主にこのプールで夏を満喫しているリケやミチルが。オーエンのことを純粋に心配した気持ちがなかったわけではないが、わざわざそのことを言ってやる義理もない。
「そう。騎士様は優しいね」
皮肉めいた言葉だがいつもほど力がない。時折咳き込みながら海水を吐いている。
「大丈夫か?」
「大丈夫。溺死すると肺が水でいっぱいになるから、生き返っても死ぬ。その繰り返しだっただけ」
それだけ、とオーエンは言うが、カインは想像しただけで息苦しくなって顔を顰めた。まるでそれは拷問ではないか。それでもオーエンはなんでもないことのように、口の端を上げて笑っている。
「何?」
カインは冷え切ったオーエンの頬を両手で挟む。文句の声は無視して彼の頭を自分の膝に載せると、それから銀糸のような髪を指で梳いた。抵抗するほどの体力が戻っていないのか、オーエンは一言文句を言ったきり、抵抗はしなかった。
《グラディアス・プロセーラ》
集中して囁くように呪文をかける。ふわりと暖かな風があたりを満たす。海水でびしょ濡れだったカイン自身とオーエンの服や髪を乾かす。
「乱暴」
オーエンは不機嫌な顔で文句を言う。塩水に浸っていた髪は、乾かしてもざらざらとした手触りが残っている。
「こういう魔法は苦手なんだ」
少しずつオーエンの体が温くなっていく。細めた目がカインの顔を見上げる。
「眠い」
そう言うと、オーエンはカインの膝の上で目蓋を閉じた。安らかな顔は眠りに落ちただけ。起きるまで動けないな、とカインは思った。
これほど無防備なオーエンの姿をカインはこれまで見たことがなかった。信用されているのか、はたまた警戒する必要もないほど見下されているのか。後者だろうと思いつつ、今はそれでも良かった。
「おやすみ」
人は眠りをひとときの死に例えることもある。しかし、オーエンにとっては死こそがひととき眠ることに過ぎないのかもしれない。永遠の眠りは安らかで、けれど彼の手はそこに届かない。
だからカインは祈る。今だけはできるだけ長くこのまま安らかであれ、と。