燦燦

 彼は長い間旅をしていた。
「いらっしゃい」
 その酒場は魔法使いにとってよく知られた店だった。各地にそういう場所がある。この世界の中では人間に比べて数の少ない魔法使いたちが情報を交わす場所だ。思い返せばかつて──ずっと昔の自分はそんなことも知らなかったものだが。
 店主は彼のことを覚えていた。
「久しぶりだね」
「ああ」
 以前訪れたのは八十年ほど前だったか。この店が残っていることも、ましてや店主が彼を覚えていることも期待はしていなかった。ましてや──。
「探し人は見つかったかい?」
 予期していなかった問いに彼は──カイン・ナイトレイは首を振る。
「いや、まだ探している最中さ」

 カインは長い間、魔法使いを探している。その魔法使いとは長い長い彼の生の中でほんの一時交わった存在だった。
「昔この世界の空には大いなる災厄というものがあった」
 カインは御伽話のように語る。
「それで?」
 それを聞いていた少年が目を輝かせて問いかける。カインは唇の前に人差し指をかざして声を潜めるように合図する。
「大いなる災厄と戦うために集められた魔法使いたち。彼らを導く異世界より召喚された賢者様」
 彼の語る冒険譚に子供たちは耳を傾けた。ここは南の国にある小さな村。カインはこの村の村長宅で客分としてもてなされていた。時にはこうして日が落ちた後、子供たちに御伽話を聞かせることもあった。
 季節は夏。ようやく空に闇が満ち、星が光る。
 この世界の夜空に月はない。かつてはあり、その頃カインは賢者の魔法使いと呼ばれていた。
「カイン様」
 声をかけられて、カインは振り向く。そこにいたのは初老の男。彼は黙って村長の家の方を見やる。
「今日はここまで。続きはまた明日」
 物語を切り上げると子供たちから不満の声が上がる。カインは笑顔でそれを宥めた。
「何かあったんですか?」
 カインは初老の男へと聞く。
「村長がお呼びです。私も詳しくは聞いておりませんで」
「いや……。ありがとうございます」
 村長の家の前でカインは男と分かれた。カインは普段自分が寝泊りしている離れではなく、本邸に足を踏み入れた。この家に人の気配はない。奥の間に足を運び、声をかける。
「カインです。参りました」
 扉がひとりでに開く。
 そこには誰もいなかった。ただ真っ白な狼が一頭、座している。彼こそがこの村の村長だった。
「お前の探しているものが見つかったかもしれない」
 狼は迂遠な言葉を使わないという。随分と前に聞いたその話をカインは昨日のことのように覚えている。
「どこで」
 ここから西へ行った森で見かけたものがいる。
「そうか。教えてくれてありがとう」
 カインはそれを聞くと騎士のように膝をつき礼をする。それを見て、村長は低く唸った。
「行くのか」
「ああ」
「私は少なからずお前を気に入っている。この村の者たちもだ。ここにいればお前はよく人を守り、世界を知り、穏やかに暮らしていける」
「俺もそう思うよ」
「それでも行くか」
「本当に感謝している。あなたのおかげで俺は腐らずにこの百年は生きてこられた」
「行ったとしてもお前の望むものではないかもしれんぞ」
 カインは見るものを魅了するように美しく笑った。蜂蜜色の柔らかい光をたたえる右目と柘榴のように作り物めいた赤い左目。「それを決めるのは俺だ」
 村長はそれを聞いて黙って目を閉じた。狼は諦めがいい。
 カインは外に出ると箒を取り出した。子供たちは家に帰ってそろそろ眠りにつく頃か。結果的に最後まで御伽話を語ることはなかった。後ろ髪を引かれたか。否。そう感じるには、あまりにもカインは多くのものと出会いすぎた。できるなら続きを語りに戻りたいが、その時この村があるかもわからない。
 約束はできず、期待だけを残していく。
 夜空をかけて村長が言った森へと向かった。はっきりとした情報ではない。狼は人と同じか、それ以上に集団で生きるている。村長は狼たちと離れて暮らしているが、それでもなお人よりもずっと広く情報を得ることができた。しかし、群の中を伝播した情報は正確性にも即時性にも乏しい。
 それでもカインは森の中を分け入ってゆく。いつしか夜が明ける。空が明るみ始めた頃から絹糸のような雨が降り始めた。雲は薄く、日の光が燦々と降り注ぐ。それと同じだけ雨もカインの顔を濡らした。
 予感が胸を打つ。再会のその日を夢想した。そのどれだってこんなに空は明るくなかった。それなのに予感は確信へと変わっていく。

 森の奥深く、朽ちた大木にもたれかかる男がいた。眠っているのかと思ったがカインが近づくと彼は片目を開けた。蜂蜜色の瞳が日の光できらりと輝いた。
「ああ……おはよう」
 まるで昨日の夜に「おやすみ」と告げたような声だった。
「おはよう」
 カインはなんと言って良いかわからず、同じ言葉を返した。
「こんなところで会うとは思わなかった」
「俺もだ」
「昨日までもっと天気が悪かったのに。今朝になって晴れてきたみたい。本当に騎士様は持ってるねえ」
「雨、まだ降ってるけど」
 唇の端を上げて彼は笑った。
「雨を止ませるんじゃなくて、雨が降っているのに晴れさせるのがらしいって言ってるんだよ」
 彼は──オーエンはもう何百年も前、最後に会った時と同じように笑った。目をすがめ、眩しそうにカインを見た。
 カインは何も言わずに近づくとオーエンの胸の中に頬を埋めた。
 左耳と左頬には微かな体温と規則正しい鼓動を感じていた。なるほど、彼は取り戻したのだ。
「取り返しにきたの?」
 オーエンの声が右耳に響く。カインは静かに首を振った。
「もう長い付き合いだ。愛着も湧いたよ」
「そう? 僕は最初から愛着があったけどね」
 そんなことを言うものだからカインは目頭が熱くなるのを唇を噛んで堪えた。
 オーエンはカインの右瞼に口付けた。子供にするそれのように、慈しむようなキスを贈る。
「不幸せで最悪なこの世界。どうか良い旅を」
 そうしてオーエンは目を閉じた。腕の中にはまだ温もりはある。けれど、鼓動は緩やかになり、止まる。自らの片割れの瞳も消え、残るのは石ばかりだ。
 カインはそれを拾い集めると、一番綺麗な石をひとつ残して大樹のそばにうめた。

 それから彼は背を向け、歩き出す。雨は止まない。彼を抱きしめるように全身を濡らす。