冬の匂い

 オーエンは機嫌が良かった。
 朝から市場を訪れて混沌の空気を胸いっぱいに吸いこんだ。いくつか仕込んでいた悪意の花は思った通りに咲き誇っていて、オーエンの望む光景を見せてくれた。。絶望や悪意は生クリームと同じくらいに甘い。そして、生クリームと違ってそれは甘いだけでなく、この身に力を与えてくれる。人間の感情が渦巻く空間はオーエンの力の源だった。

 オーエンは機嫌が良い上にツイていた。
 日が傾き始めた頃にオーエンは気分良く魔法舎に帰ってきた。談話室を覗くとカインがソファの上で丸くなって眠っている。冬の訪れを感じさせるように、陽の光は柔らかい。その光を浴びている。
「猫みたい」
 オーエンは向かいのソファに腰を下ろしてカインの様子を伺う。生きているなとオーエンは思った。野生の生き物を見ると、オーエンはいつも生きているか死んでいるかを確かめる。北の国ではそれが大事なことだった。
 日がな眺めていたって飽きないだろう。オーエンは生き物を見ているのが好きだった。退屈な長い時間をそうやって彼は過ごしてきた。
 目の端で扉が開いた。そちらを向くとラスティカとクロエがいた。楽しい気持ちに水を差されたような気がして、思わず目を眇めた。
「何?」
「静かだったから誰もいないと思ったんだけど……邪魔をしてしまったようだね。行くよ」
 ラスティカはいつもより声を潜めて小さく笑った。その態度が腹立たしい。ラスティカの後ろから様子を伺っていたクロエはオーエンに近づくと耳元で囁いた。
「そこの棚にいいものがあるから」
「いいもの?」
 クロエは小鳥のようにはにかんだ。静かに扉を閉めて二人が去るとオーエンはそっと戸棚を開いた。
 戸棚には談話室で使う道具が仕舞われているようだった。ボードゲームや燭台に並んで、ふわりとした柔らかいものが積まれている。
「毛布?」
 薄手の毛布を手に取って広げる。クロエの言わんとしたことを理解するのに少し時間がかかった。眉を寄せて、カインの方を見る。
 仕舞うのも面倒だから。
 そう言い訳を口の中で転がして、カインの上にかけると、また静かに観察を続ける。
 これくらいで退屈なんてしたことがない。退屈というのは例えば、体をぐちゃぐちゃに砕かれて、再生するのに何年もかかった時のようなことを言うのだ。それなのに、たったひと時だというのに、今はなんだかとてもつまらなかった。
 カインはオーエンの言葉にいつだって応えてくれる。言葉を無視することは簡単だ。それが気に食わない相手であれば尚更。それでも彼がオーエンを無視しないのは、彼の真摯さゆえなのだろう。
「馬鹿みたい」
 けれどオーエンは期待している。自分の言葉が彼の心を揺らすこと。
 眠っているカインは毛布の端を握って器用に自分の体の方に寄せる。心なしか笑ったように見えたその顔を引っ叩いて起こしてやりたいとさえ思う。それでも、オーエンは待っている。それは力にもならず、甘くもない。けれど、彼の言葉が返っくるかぎり、自分はここに存在しているのだという実感があった。

 目を覚ますと、オーエンがじっと自分のことを見ていた。悪意は感じない。蜂蜜色の瞳はかつてカインのものだったのに、見慣れない色をしているような気がした。
「おはよう」
「おは……よう」
 確かにこの部屋にいた時は明るかった窓の外が、暗くなり始めている。
「今何時……」
 夕方に用事があった。ちょっとした休憩のつもりがすっかり眠りこけていたらしい。
「王子様は気にするなって。騎士様を見て苦笑いしてた」
「起こしてくれれば良かったのに」
「僕が起こすと思う?」
「思わない」
 愚問だった。オーエンはにやにやと笑っている。
「で、オーエンはどうしたんだ?」
「暇を潰してた」
「潰れた?」
「まあまあ」
 かけられていたブランケットをカインは畳んだ。
「これ、ありがとな」
「別に。無防備に寝てるから驚いたよ」
 揶揄するようなオーエンの言葉にカインは苦笑いをする。
「魔法舎は居心地がいいからつい気が緩んじまうんだよな……」
「僕がいるのに?」
 その問いをカインが理解するのに少し時間を要した。オーエンには先ほどまでの揶揄う様子はなく、ただ静かにカインの答えを待っている。
「オーエンは寝込みを襲ったりしないだろう」
 カインは破顔した。オーエンの気持ちを逆撫でするくらい無神経に派手に笑った。
「襲うかもしれないじゃない?」
「いや……お前は俺が今まで出会った中でもとびきり性格が悪いと思っていて」
「思っていて?」
「俺を殺すならもっと嫌らしく殺すよな……って」
「ふーん」
 オーエンは目を伏せた。それから鮮やかに笑った。
「とびきりの悪意でいつかお前を絶望させてやるよ」
 声色は素っ気なかったが、オーエンは嬉しそうだった。長く待っていたものがようやく手に入ったというように。
「そうはならないように頑張るよ」
 いつかオーエンは言葉の通りに最悪を敷き詰めて立ちはだかるだろう。その時は逃げず、恐れず戦おうと思った。守りたいものがたくさんあって、絶望している暇なんてきっとない。

 冬の太陽は静かに沈む。けれど、日向の温もりは微かに残っている。
 その縁は冬の匂いがする。吸い込むととても冷たくて、澄んでいる。