言葉遊びの夜半

 もうすっかり夜が更けていた。カインが魔法舎に戻ってきたのは日付が変わる十分ほど前のことだった。城でアーサーの仕事を手伝っていて、気がついたらこの時間だ。
 城に泊まってしまうという選択肢もあった。実際、アーサーにも泊まっていくように勧められたのだが、正式な役職があるわけでもないのにアーサーに重用されるカインのことをよく思わない者もいる中で、無用の特別扱いを受けることもないだろうと固辞してきた。カイン自身は気にしていなかったが、アーサーがいらぬ反感を買うのは避けたい。
 空を飛べば城から魔法舎まではさほど遠くない。夜の澄んだ空気を吸って、吐いて。気分転換をするには良い帰り道だった。
 魔法舎に戻ると深夜ということもあって静まりかえっていた。外から見た時には、部屋にまだぽつぽつと明るい窓があったから、部屋で夜更かしを楽しんでいるか、そうでなければシャイロックのバーでグラスを傾けているのかもしれない。
 その足で風呂に入って手早く汗を流すと、自室に戻るつもりで階段を上る。仕事の合間に夜食を食べてきたので、腹も減っていない。いつもなら布団に潜っている時間なので、大きなあくびを一つして踊り場を曲がると、目が合った。こんな時間に、階段に腰を下ろした人影がある。
「オーエン」
「騎士様」
 違和感を覚えたのはこちらに気づいたオーエンが満面の笑みを見せたことだった。彼はパッと立ち上がるとカインの方に駆け寄ってきた。
「騎士様、あのね……誰もいなくて……」
「ああ。夜だからな。暗くて怖くなかったか?」
「ちょっとだけ」
 〈大いなる厄災〉の傷によって現れる幼いオーエンがそこにいた。姿形はいつものままであるのに、見せる表情も仕草も何もかもが違っていた。
 どうしたものかとカインはオーエンを前にして考える。真夜中とはいえ事情を知らない魔法使いたちとばったり遭遇する事態がないとは言えないから、このまま放っておくわけにもいくまい。戻った時のことを考えればオーエンの部屋に連れていくのが良いのかも知れないが、この小さいオーエンは一人で部屋の中にいるのを酷く嫌う。だとすれば、自分もオーエンの私室に足を踏み込むことになるだろうが、それはそれで躊躇われた。たとえ今目の前にいる彼が招いたとして、もう一人の彼がカインを招きたいとは限らない。
 となれば最適解は一つで、カインはそれを迷うことなく提案した。
「オーエン。俺の部屋で遊ばないか?」
「うん」
 カインは魔法舎の二階にある自分の部屋にオーエンを招き入れる。魔法で照明を灯すと、今朝方出ていった時と変わらず散らかった室内が現れた。誰かを招き入れることを考えていない部屋だ。ソファには上着と本が乱雑に積まれている。改めて見るとよく崩壊しないなという絶妙なバランスだ。少なくとも置かれた物の隙間に座ったら本のタワーは確実に崩れる。
「あー……ベッドの上、座ってていいよ」
 オーエンはちょこんとカインのベッドの上に腰を下ろす。
 カインは机に置いていた手元を照らすための小さなランプとノートを手に取った。それから引き出しの中にしばらく使っていなかった色鉛筆があることを思い出してそれもノートの上に重ねるとベッドの上に置いた。
 地元にいた頃に年少の子供と遊んだ経験はそれなりにあったが、レパートリーとしては鬼ごっこかその辺の木の棒を振り回す騎士ごっこか─とにかく外で体を動かす遊びが多かったので、深夜の室内で子供が喜ぶ遊び思いつかなかった。そういえば、前に絵本の話をしていたから絵本の一つでもあれば喜んだのかもしれないが、あいにく用意がない。
「大したものもないんだけど、絵でも描くか?」
 ノートは座学の時に言われたことを書き留めるために使っているノートだ。まだ白紙のページはたくさんある。開いてベッドの上に広げると、オーエンは真っ白な紙に指で触れた。
「絵?」
「ああ。これくらいしかないけど……」
 色鉛筆もノートの横に並べてやる。
「どうすればいいの?」
 オーエンは無垢な瞳をカインに向けた。そこでカインはこのオーエンがどこにでもある色鉛筆の一本も知らないのだということに気づいた。
 色鉛筆を箱から出して一本手に取る。カインの髪と同じ色の赤だ。ノートに線を引くとオーエンは驚いてそれから笑った。
「何色がいい?」
 カインが問いかけるとオーエンは並んだ色鉛筆の中から淡い黄色を取り上げて線を引いた。うつ伏せになって紙と色鉛筆を真剣な眼差しで見ている。
 カインはオーエンの帽子を彼の頭から取り上げて、積み上がったソファの上の本に優しく載せた。上着も邪魔な上に皺になりそうだったので脱がせて一緒にソファの上に置いてやると、オーエンは色を確かめるように一本ずつ色鉛筆を取り上げてノートに線を引いていった。紙に残る線の色が違う色になるのが心底不思議そうな顔をしている。
 横に寝転がってオーエンの様子を眺めているとカインは寂しさと悔しさが混じったような気持ちになる。寂しいのはこのオーエンの世界の中で彼が一人ぼっちでいたことへの共感で、悔しいはどうして自分が、もしくは他の誰かが、そこにいなかったのだろうという過ぎたことへの後悔だった。
「何をしたらいい?」
 オーエンはしばらくしてから聞いた。どこにでも行けるのに、行き方がわからないという顔をしていた。きっと彼は絵を描くことも文字を書くことも知らない。そのどちらも誰かに何かを伝えるためのものだから。
「ちょっとしたゲームをしようか」
 カインは点を横に三つ、それを三段赤色の色鉛筆で打った。三掛ける三、九つの点が並んでいる。
「オーエン、線引ける? 点から点に」
「うん」
 右の列、一段目の点から二段目の点を繋ぐように真っ直ぐ縦に青の線が引かれた。
「上手い上手い。線は縦か横。斜めはだめ」
 褒められるとオーエンはくすぐったそうに笑って頷いた。
「こうやって四角に囲えたら色を塗る」
 カインはオーエンの繋いだ青い線を一辺にして赤の色鉛筆で点を四つ繋いだ四角形を描いた。そしてその囲った内側を塗りつぶす。
「俺とオーエン、交互に一本ずつ線を引いていって、四角形を多く自分の色で塗れた方が勝ち」
 子供の頃にやった遊びはカインの記憶の奥深いところにあった。それを引っ張り出してきて、思い出しながら説明する。
「できそう?」
 オーエンは頷いた。カインは新しく点を九つ打つ。
「オーエンからどうぞ」
 オーエンは少し迷ってから左上に横の線を引いた。カインはオーエンの引いた横線に接する垂直の線を引く。必勝法のようなものがあったかもしれないけれどもう思い出せなかった。オーエンは素直に最初に引いた線と平行な線を引いた。これでちょうど四角形の三辺ができる。カインは少し迷ってそれから四角形を完成させた。
「あ」
 オーエンが声を上げた。心の中で「悪いな」と思いながら赤い色鉛筆で四角形を塗った。三辺を繋げてしまうと、相手に四角形を作られるというのがこのゲームの肝だ。オーエンもそれを理解したようでそこからは三辺が繋がらないように線を引いていく。
「やった」
 オーエンが四角形を完成させて笑いながら色を塗った。もう線を引ける場所は少ない。どこに線を引いても次の手番で四角形が完成してしまうのを承知で、一本横線を引いてオーエンの方にノートを滑らせた。すると、オーエンの瞳が揺れ、それから彼の表情が抜け落ちた。
 オーエンは今目を覚ましたという顔をして、それから表情を強ばらせる。体を起こすと、すぐ隣にいるカインの顔を見た。
「オーエン。大丈夫だから」
 カインはオーエンにそう告げた。目の前にいるのはよく知っているオーエンだった。ベッドの上で警戒するように身を固くして、射殺さんばかりの視線をこちらに向けている。
「俺の部屋。魔法舎に帰ってきたらちょうど階段のところでお前がいて……放っておくわけにいかないしここで遊んでたんだよ」 
 オーエンは小さく唇を噛んで、それから口元に笑みを浮かべた。
「お優しい騎士様。別に助けてくれなんて頼んでないけど」
「頼まれてないけど俺の勝手だろ?」
 カインが飄々とした顔のまま言ってのけると、オーエンは苦々しい顔をしてそれから「帰る」と告げた。
「せっかくだから決着つけてから部屋に戻ってくれ。いいところなのに」
「は?」
「陣取りゲーム。オーエンの番」
 手に持っていた青い色鉛筆とノートに書かれた点と線をオーエンは何度か見比べた。
「……これ線引けばいいの?」
「ああ」
 もう線を引くところは二箇所しかない。どちらに線を引いても四角形が完成する。オーエンが線を引くと、カインも残った一辺に線を引いた。
「四角形二個ずつで同点だな。そうだそうだ。最善手で線を引いてくと必ず同点になるんだよな」
 カインは笑うと四角形の中を色鉛筆で塗った。
「何これ」
「お前と遊んでたんだけど」
「僕は知らない」
「そうだよな」
「しかも同点って何? 騎士様に勝てなかったの? むかつく」
「足、蹴るなよ」
 不満げなオーエンの顔を見て、なぜか安心する自分がいることにカインは気づいた。負けず嫌いで、機嫌の悪そうないつものオーエンだった。
 カインは一つあくびをして、それから提案した。
「それならもうひと勝負どうだ?」
「いいよ。やってやる」
 オーエンについて知っていることはそう多くない。それでもこのオーエンが勝負に乗ることをカインは知っていた。彼について知っていることがあるから、これから先知ることもできるから、寂しさはもうない。

 気がついたらカインの部屋にいた。オーエンの厄災の傷は彼にとってひどく不愉快なものだった。記憶が飛ぶ上に、あんな─知っている奴らの話を聞く限り馬鹿みたいな自分になるなんて。
 今だって、カインのベッドの上にいることにどれほど驚いたことか。それでも、それを押し殺してなんでもない顔ができる。きっともう一人の─オーエンの知らないオーエンはそういうことができない存在なのだと思うと余計に腹が立った。自分でない自分ほどみっともないものはない。
 カインはオーエンに背を向けて何かを書いている。それから彼は紙をちぎって、書かれたものが見えないように折りたたんだ。
「ここに書かれた単語を当てられたら勝ち。あー魔法はなしで」
「わかってるよ」
「チャンスは五回。五回以内に当てられたらオーエンの勝ち、当てられなかったら俺の負け」
「ヒントは?」
 カインはノートにひとつ単語を書いてみせた。『APPLE(りんご)』という単語を見せる。
「もし俺が書いた単語と同じ位置に同じ文字があったら丸、位置は違うけど同じ文字があったら三角で囲う。単語は五文字」
 カインは『GRAPE(ぶどう)』という単語を綴った。もしも『APPLE』が答えならPを三角で、 Eを丸で囲むことになる。
「ふーん。つまりそれをヒントに単語を当てるってわけ」
「そうそう」
「何を賭ける?」
 オーエンが尋ねるとカインは意外そうな顔をした。
「賭けなきゃつまらないでしょ。片目を賭けようか」
「そんな重い賭け、こんな夜中にするか」
 カインが必死で反論する様子に、オーエンは思わず笑った。「冗談」と教えなかったが、カインも揶揄われたと気づいたらしく、ばつの悪い顔をした。
「お前が勝ったら好きなケーキを買ってやるよ。俺が勝ったらシャイロックのバーで一杯奢ってくれ」
「乗った」
 オーエンはカインの部屋を見渡してから単語を一つノートに書き込んだ。
『SWARD(剣)』
  
 カインはRとDを三角形で囲った。位置は違うが、RとDが含まれる単語だ。オーエンにはあと四回チャンスがある。二文字当てたなら上等だ。
 もう一度部屋を見渡して、単語を綴る。
『MESSY(散らかっている)』

「……部屋見てから書くなよ」
「そう思うならちょっとは片付けたら? ソファの上の本、芸術的なバランスだよね」
「お前もそう思う?」
「早く。答え」
 カインはMとEを三角で囲った。四文字わかっていればかなり絞られる。三手目は位置を絞るか残りの一文字を探すか─とオーエンが考えていると、大きくあくびをしたカインと目が合った。眠そうな顔で頬杖をついてこちらを見ている。細められた金色の瞳は優しい色をしている。
「HONEY(蜂蜜)」

 カインはEを三角で囲む。これでEの位置は五分の三まで絞られたが、一手使った割に文字の情報は増えなかった。流石にそろそろ当てに行かなければと、オーエンは出てきた単語をノートに並べて眺める。R、D、M、E。しばらく考えて、それから一つの単語を導き出した。
 ふと横を見るとすやすやとした寝息が聞こえた。腕を枕にしてカインはすっかり眠っている。
「騎士様」
 耳元で呼ぶとカインはもごもごと何かを口にした。オーエンの名前を呼んでいるようにも聞こえるが理解できるものではなかった。手が枕を探すように動き、オーエンのシャツの端を握るとそのまま眠り続ける。緩み切った表情は普段よりも幼く見え、オーエンはシャツを掴んだ手を振り払うことも起こすこともできなくなった。
「まあ、いいか」
 寝不足のミスラに喧嘩を売られるのも日常茶飯事の今、隣でこうやって寝息を立てられるのは全然マシだ。
 ゲームは朝になって続きをやってもいいし、カインが寝落ちて脱落したのだからおそらくこれはオーエンの勝利だろう。さてどんなケーキを食べさせてもらおうか。
 オーエンはランプを消すと「おやすみ」と小さく呟いて目蓋を閉じた。

 


おまけ

答えが分かりましたらこちらにどうぞ。