埋み火

 約束したわけでもないのに、オーエンは中央の国が一番冷え込む季節にやってくる。
 あえて名付けるならば恋人という関係になってもう三十年以上が経つ。けれど、共に過ごすのはオーエンが気まぐれに顔を見せたときか、痺れを切らしてカインがオーエンを探しに行くときか。そのどちらかだ。一緒に暮らそうとはカインもオーエンも言わなかった。そのことをカインは後悔していないが、一度だけ不満を告げたことはある。
 一年に一度くらいは顔を見せてくれ。
 言わなければオーエンは数年単位で姿を消すこともあった。長く生きている彼にとっては数年なんて瞬きするほどの時間かもしれないが、カインにとっては短くない。カインの不満を聞いたオーエンは、律儀に一年に一度はカインの元を訪れるようになった。
 いつだったかの賢者が、異世界には寒い冬にチョコレートを食べるイベントがあると教えてくれた。オーエンは毎年チョコレート目当てで、冬の寒さが一番厳しい頃にカインの元を訪れる。カインの方も来ることがわかっているから、寒さが増すたびにチョコレートを買い集める。
 その年もオーエンはカインの元を訪れた。王都の外れにある屋敷はアーサーから下賜されたもので、カインは魔法舎での共同生活が緩やかに解散した後はここで暮らしている。
「ひとつ頼まれてくれないか?」
 オーエンはホットチョコレートを飲みながら、手のひらよりも大きいチョコレートを割って口に含んでいた。
「何?」
 オーエンが怪訝そうなのは、カインが散々彼をもてなしたあとに言い出したからだろう。交換条件のつもりはなかったが、そう捉えられても仕方がない。
「実家の片付けに行きたいんだが、手伝ってほしい」
 オーエンは拍子抜けしたように小首を傾げる。
「別にいいけど。急にどうしたの?」
「実家を人に貸そうと思っていて。だから、物置きにしていた地下室も整理しないといけないんだ」
 カインの父は七年前に、母は五年前に亡くなった。時々栄光の街に戻って実家を掃除しているが、人の住まない家は痛むのも早い。ちょうど旧い友人の息子夫妻が家を探しているというから、彼らに貸すことに決めたのだった。
「俺が片付け下手なの知ってるだろ?」
「知ってる」
 オーエンは小さく笑った。
「明日向かって――片付けをしたら一泊して帰ってくるつもりなんだが」
「うん」
 オーエンはもう明日の予定には興味がないようで、チョコレートに没頭していた。ほとんど一年振りに会う彼は、何も変わっていない。昨日さよならを言ったような気安さでカインの元を訪れて、昨日の話を続けるみたいに言葉を交わす。よくよく見れば新しい靴を履いているとか、去年とは違う店のチョコレートが気に入っているようだとか――そういうものを見つけることはできた。でも、結局のところオーエンは相変わらずオーエンだった。そのことに腹を立てたこともあったが、今ではむしろ彼が変わらないことに安堵してもいる。
 室内の様子を反射する窓ガラスには、相変わらず二十歳過ぎの若い男の顔が映っていた。見た目はともかく、自分だって重ねた年の分だけ成長も変化もしているとカインは思っている。それでも、故郷の街や王都はカインを置いて目まぐるしく変化していく。魔法使いの自分はそれに追いつけないままだ。

§

 翌日は昼前に栄光の街に着いた。カインの実家は街の中心を通る川を上流へと辿っていった先だ。細い門扉を開けると小さな庭がある。今では手付かずになっていて、薄く積もった氷混じりの雪が土の上に広がっていた。
「ただいま」
 鍵を開けて家の中に入ると、ほとんど無意識にその言葉がカインの口を突いて出た。オーエンはカインの後ろをついて家の中に入った。部屋の様子を見回して口を開く。
「変わってない」
「え?」
「前と」
 オーエンを実家に連れてきたのはこれが三度目だ。一度目はまだ両親が生きていた頃、二度目は母の葬儀を終えた年の夏だった。そのときの部屋の様子を覚えていたのかと、カインは内心で少し驚いた。
「あのとき片づけたっきり、たまに軽く掃除をするくらいだったからな」
 家中の窓を開けて一度空気を入れ替えると、暖炉に火を灯した。
 リビングや台所にあるのは家具や食器がいくらかで、これはそのままで良いことになっている。その他のナイトレイ家の持ち物は倉庫にしている地下室に置いてあった。
「こっちだよ」
 オーエンを呼ぶと彼は素直についてきた。魔法で明かりを付け、室内を暖める。
「これ全部片づけるの?」
 持ち物が積み上がった室内を見て、オーエンは頬を引きつらせた。
「ああ。俺の家に持って帰るか、もしくは処分するか」
「大仕事だね」
「終わったら何か美味しいものを奢るよ」
 カインは腕まくりをした。オーエンも溜め息をついてから上着を脱ぐと魔道具のトランクに仕舞う。
「持ち帰るものと処分するものに分けるから、オーエンは処分するものを上に運んでくれるか?」
「わかった」
 地下室に保管されているのは、衣服や本、ちょっとした小物が多かった。カインはそのほとんどを処分するものに仕分けていく。「本当にいいの?」とオーエンが途中で訊く始末だった。
「形見は葬儀のときに持ち帰ったから」
「そう」
 オーエンは魔法を使ってすいすいと地下室の荷物を地上に運ぶ。地下室の荷物が半分ほど片付くと、壁に刻まれた印が見つかって、カインは思わず口元を綻ばせた。
「懐かしいな」
「何これ?」
 カインが指したものを見て、オーエンは首を傾げる。
「俺の背丈」
 オーエンはますます怪訝な顔をした。
「子供の頃に父さんがつけてくれたんだよ。毎年、俺がこの壁に背中を付けて立ってさ」
 カインは昔を思い出すように壁に背中をつけてみる。当然だが、最後に刻まれた印はもう随分低い位置にあった。カインが王都に行ったことで幼い頃の習慣も廃れてしまったのだ。
「新しく刻んであげる」
「へっ?」
 オーエンはどこかから小さなナイフを取り出すと、カインを真っすぐ立たせて壁に新しく身長を記した。
「いくつになったの?」
「やめてくれ……恥ずかしい……」
 オーエンは新しい傷を撫でて尋ねる。
「きみの父親ってどんなひと?」
「どんなって……普通のひとだったと思うけどなあ」
「普通じゃわからないよ。僕には父親も母親もいなかったから」
 オーエンはちょっとした不平を言うみたいに口を尖らせた。確かに乱暴な回答だったなと反省しながらカインは改めて考える。
「子供の俺にとっては頼りになるひとだったな」
 正しいとも強いとも違う。ただ、本当に迷ったときに頼りになる、何度もカインの背中を押してくれたひとだった。
「街のひとにも頼られてたと思う。大らかで酒を飲むと声がでかくなった」
 まだ、父の姿を思い描くことがカインにはできる。老いても父はあまり変わらず、カインが帰るたびに元気にやっているかと気にかけてくれた。
「母親は?」
「明るいひとだったよ。少し口うるさいと思ったこともあるけど――うん、優しいひとだったよ」
「そう」
 オーエンはカインの話を静かに聞いていた。彼にこんな話をするのはなんだか不思議な感覚がする。
「今思えば三人で暮らしていた時間は短かったな。俺は十二でこの家を出たから」
 時々帰ってはいたけれど、騎士団にいた頃も賢者の魔法使いになってからも、役目があるからとそれほど長くは滞在しなかった。
「この家をひとにやること、きっと後悔するよ」
 オーエンは口を開いた。彼がよくする冷ややかな笑みを口元に浮かべてはいたが、視線はカインから逸らされている。
「そうかもな」
 言われずとも、すでに寂しさはインクが滲むように広がっていた。

 夕方には連絡しておいた古道具屋がやってきて、地下室から運び出した荷物を持って行った。カインが自宅に持ち帰るものは魔法でまとめて小さくする。すると、室内は急に寂しくなった。
 食事用のテーブルと椅子はそのまま置いていくことになっているから、そこに外の店で買ってきた夕飯を広げた。使い込まれた食卓にはこの街名物の料理とたっぷり五人前はあるデザートのプリンが並べられる。それにワインを一本開けた。
「どんな食卓だった?」
 オーエンは手元にある揚げた海老の方に目を向けて尋ねた。
「賑やかだったよ。たまにこうやって母さんと父さんが酒を飲んで、みんなで歌を歌って踊ってた」
「うるさそう」
「この街では普通なんだって」
 カインは頬杖をついて部屋を眺めまわした。大人になってみるとそう広い部屋ではない。それなのにここで歌って、ステップを踏んでいた。家族の合唱が記憶の中で響いたのとほとんど同時だった。
「――」
 記憶ではなく、目の前から声が聞こえた。この街でよく聞く――この家でもかつて歌われたことのある歌だった。オーエンはワイングラスを揺らし、綺麗な声でメロディを紡ぐ。歌詞は曖昧なのか誤魔化しながら。手品が成功したように悪戯っぽくオーエンは首を傾げて笑みを浮かべる。
 カインはオーエンに合わせて歌った。歌って、立ち上がってステップを踏んだ。オーエンに手を伸ばすと、彼はしょうがないと言いたげな顔をしてその手を取った。そのくせなんだか調子がついたようで、オーエンの歌声は一層軽やかになる。部屋の奥にある暖炉の火が呼応するように揺れた。
 記憶の中にある光景とは違う。自分はともかく、オーエンは賑やかなんて柄じゃない。それに、自分たちは毎晩食卓を囲むような家族にもなれなかった。それでも記憶の中にあるのと同じように、歌ってステップを踏んだ。
 曲が終わると、カインはオーエンを抱きしめた。記憶と混ざり合った光景が消えないように。
「……いつ覚えたんだよ」
 驚きを伝えるとオーエンはおかしそうに答えた。
「きみが歌ってたんだよ。結構前だったけど、魔法舎で」
 カインは目を見開いた。確かによく口ずさむほど馴染んだ曲だから、何かの拍子に歌っていてもおかしくはない。ただそれをオーエンが聞いていて、覚えていることが意外だった。
 オーエンが親指でカインの眦をなぞって、顔の形を確かめるみたいに指を滑らし、それから優しく口付けた。指先は冷たいのに唇は温い。離れがたくなって、一層強くカインはオーエンの体を抱く。
「今日はやけに優しいな」
 動揺を誤魔化すように、精一杯冗談めかした口調でカインはオーエンに囁く。
「優しいんじゃないよ」
 カインの内心を見透かしたように、オーエンは皮肉めいた口調で切るように告げる。
「きみが寂しいってことを教えているんだ」

§

 翌朝カインは目を覚ますと、まだベッドの中で眠っているオーエンを置いてリビングに向かった。冷え切った室内に「寒い」と思わず口にしながら、火かき棒で暖炉の灰を掘り返す。前夜灰の下に隠した埋み火を見つけると、灰の上に出してやる。空気を含んで再び明るく燃え上がる炎に薪をくべた。
 そうして部屋を見渡すと、なぜか急に悲しくなった。悲しいだけではなく、寂しくもあった。両親が他界してから、この家でこんなに長く過ごしたことはない。そして前夜ですらここにはオーエンがいた。だから、空っぽの食卓をカインは今の今まで知らなかった。見ないようにしていたのかもしれない。かつて確かに過ごした幸福な時間の喪失を、カインはこの暖炉の埋み火のように深く心の奥にしまい込んでいた。灰の中からそれを掘り出して再び燃え上がらせたのはオーエンだ。
 オーエンは悲しみや寂しさを暴き出さずにはいられない。なぜなら、その隠された感情こそが真実だと彼が信じているからだ。
「泣いてるの?」
 いつの間にかオーエンが起き出してきたようだった。言われて自分が涙を流していることにカインは気づいた。
「悪い。なんか、悲しいような寂しいような気持ちになって……」
 カインは手のひらで目を擦る。
「これから先、こういうことは何度でもあるよ」
 オーエンは嬉しくなさそうな顔で笑った。
「そうかもな」
「人間だったら、きみと歩幅を合わせてくれるひとはたくさんいたのかもね」
 そうかもしれないと傲慢にも思ってしまった。騎士団にいたのなら、たくさんの仲間に囲まれて、父と母を見送り、自らもいつか老いて死ぬ。
「まあ、でも……俺は魔法使いじゃなければよかったって思ったことはなかったな。父さんと母さんのおかげで」
 あのひとたちは魔法使いの子供を受け入れてくれた。カインが両親を偉大だったと思うことの一つだ。
「それに、たくさんいなくてもいいよ。どうせおまえがいるんだし」
 実家を片付けるだけなら別に手伝ってもらうのはオーエンでなくてもよかった。もっと言えば、いくら片付けが下手だといっても精々一日あれば終わる仕事なのだから、一人でやってもよかった。それを先延ばしにして、オーエンが現れるのを待っていたのは、一人で片付けるのが怖かったからだ。
 暖炉の火をそう頻繁に絶やすことはしない。眠るときや外出の際は灰を被せて埋み火とする。これはかつて便利な道具もなく、魔法使いでもなければ再び火を熾すのが難しかった時代の習慣だ。再び燃え上がらせることを期待するから埋み火とする。
 そうであるなら、カインが仕舞い込んでいた寂しさもまた、再び掘り起こされるのをずっと待っていた埋み火なのかもしれない。容赦のない誰かが掘り返すのを待っていた。
「馬鹿みたい」
 その誰かは呆れたような愛おしむような、どちらともつかない顔をした。

 暖炉の火を完全に消して、家の鍵を閉める。あとはこの鍵を家を借りてくれるという若い夫婦に託すだけだ。近いうちに新しい家族がこの家に越してきて、暖炉に再び火を灯す。そして新しい生活が始まる。かつてカインが両親と過ごしたような温かい生活がそこにあればいいと思う。
「行こうか」
 カインはオーエンに呼びかけた。彼は閉まった家のドアをじっと見つめていた。そして、大事に仕舞い込んでいた宝物を差し出すように口を開く。
「春まではきみのところにいてあげる」
 それから思い出したようにむっと真剣な顔をして付け足した。
「ちゃんと甘いものは用意しろよ。毎日。たっぷりと」
 意外な言葉に驚いて、カインは思わず口にした。それは心の奥底に隠していた埋み火の一つだった。
「……そのあとは?」
 今まで一度も訊いたことはなかった。自分たちの関係はそういうものではないと思っていたし、切実に追い求めてしまったらオーエンは離れていくような気がしていたのだ。あるいはそのすべてが言い訳で、自分たちは今よりも互いの生活に、互いの感情に、魂に触れることを恐れていただけなのかもしれない。親しくなれば、親しくなってしまったことに落胆すると信じ込んでいた。
 オーエンは僅かに困ったように眉を寄せた。もしかしたら、彼にとってもそうだったのかもしれない。自分たちの間には言葉が足りなかった。何十回も繰り返した後悔と反省を、この先いつまで続けていくだろうか。
「きみが望むなら、考えるよ」
 埋み火に空気が吹き込まれる。
 自然と冷えた手が重なった。手を繋いで歩いてゆく。
 春の方へ。その先の季節へ。