ばらいろロマンス - 1/5

「カインって健やかな人ですよね」
 そう言われたのは、これまで生きてきた中で多分六度目だった。異世界からやってきた青年の言葉は、今まで聞いた中で一番素直な賞賛が込められていて、カインはくすぐったい心地がした。
「そうか?」
 初夏の日差しは眩しく、きらきらと水面を照らしていた。夏と呼ぶには風が心地よく、春と呼ぶには日向が熱を帯びている。カインは川縁で拾った小石を川に向かって投げた。三度跳ねて沈む。
「すごい!」
「僕も! やりたいです!」
「ほら、このへんが狙い目だ」
 歓声を上げたアーサーとリケに拾い上げた小石を渡す。二人は先へと歩きながら石を川に向かって投げる。その数歩後ろを歩くオズの眼差しも穏やかに見えた。
「さっきだって『魔法使いなんて信用ならん』って言ってたおじいさん相手に話しかけて、最後にはめちゃくちゃ好かれてましたし」
 賢者は肩を並べて歩くカインと話を続けた。先を行く三人に少し遅れて、石を拾いながら歩いていく。
「別に悪い人じゃなかったからな」
 賢者と中央の魔法使いたちは、〈大いなる厄災〉の影響と思われる異変の報告があった中央の国と西の国の国境にある小さな街を訪れていた。街に流れ込む川の水が得体の知れぬ色に染まっているという異変は、それほど苦労せず解決できた。川上の水源付近にマナ石の欠片が埋まっていて、〈大いなる厄災〉の影響で川に影響を及ぼしていたのだ。
「カインって人のことを嫌いになったり恨んだりすることってあるんですか?」
「あるさ。好きになれない奴はいるし、むしゃくしゃして一人になれる場所を探すことだって」
「信じられない」
「最近はあんまりないけどな」
 リケの投げた石が水面を二度跳ねた。
「カイン! 見ましたか?」
「ああ。すごいな」
 賢者はカインをまじまじと見つめて「やっぱりすごい」と感心した。
「水切りが?」
「違いますよ」
 賢者が相好を崩すと、カインも表情を緩めた。
 風の強い日だった。風が衣服と髪をはためかせ、ぱたぱたと音を立てる。賢者と中央の魔法使いたちは街外れの墓地に向かっていた。
「精霊を鎮めるんですっけ?」
 賢者は先をゆくオズに話しかけた。
「そうだ」
 彼らは念の為、街の中を他に異常がないかと見て回った。人間である賢者にはわからないが、〈大いなる厄災〉の影響で通常よりも精霊の気配が濃いのだと言う。
「場の秩序ってやつだな。墓地は魔力の影響を受けやすい……というのはファウストから聞いたんだが」
「ああ」
 カインが確認するようにオズを伺うと、彼はまた静かに答えた。
「人の祈りや執着が土地の精霊を惹きつけるのだろう」
 なるほど、とカインはひとつ頷いた。
 墓地はそれなりの広さがある。およそ街に近い側の墓石は新しく、奥に行くほど古い。墓地の真ん中あたりに集まると、中央の魔法使いたちは呪文を唱え始めた。ここにいる精霊たちに呼びかけるように優しく、けれど導くように。
「《ヴォクスノク》」
「《パルノクタン・ニクスジオ》」
「《サンレティア・エディフ》」
「《グラディアス・プロセーラ》」
 呪文が彼らの他には誰もいない静かな墓地に響く。人間である賢者にはわからない程度だが場に秩序が満ちていく。
 その時だった。
 静かな墓地に雷光のような何かが走った。最初に動いたのはカインで、パッとアーサーの腕を取ると引いた。それからオズが何かに向かって呪文を唱える。
「《ヴォクスノク》」
 オズの魔法はカインの右腕の辺りを掠めた。弾けるような音がする。
「カイン!」
 リケの声が響く。賢者も──近寄らないように言い含められていたはずなのに、思わず駆け寄った。カインは右腕を押さえてしゃがみ込んでいる。
「大丈夫ですか?」
 賢者が問いかけるとカインの頭がぐらりと揺れた。顔が頭上を向く。晴れた空を見上げる互い違いの色をした双眸は焦点が合わず、まるで朝方彼が魔法舎で仲間たちを探すのと同じように視線が不安定に揺れていた。何かを探すように視線が泳ぐ。
「カイン」
 賢者がカインに触れると彼はハッとしたように顔を下げ、賢者の方を向いた。
「晶……?」
「はい。俺です」
 カインはその後すぐにアーサーとリケが無事であることを確認すると大きく息をひとつ吐いた。
「よかった」
「よかったじゃありません! カイン、大丈夫ですか?」
 リケがカインに駆け寄った。
「大丈夫、だと思う」
「今のはなんでしょう?」
 アーサーが傍のオズに問いかける。オズはしばらく墓地を見渡してからカインの右腕を取った。上着とシャツをたくし上げると右手首の辺りに賢者の紋章がある。オズは一瞥すると眉を寄せた。
「呪いだ」
「呪い?」
 カインは自分の右腕をまじまじと眺める。よく見ると賢者の紋章がある部分に赤い線が絡み付くように走っていた。
「痛くはないのか?」
 アーサーがカインを覗き込む。
「いや、全然」
 カインはなんでもないように腕を振った。
「魔法舎に戻ってフィガロかファウスト辺りに見てもらった方がいい」
 オズはカインの腕を離すとそう告げて、箒を取り出した。
「あんたにはどうにもできないのか?」
「私なら……腕を落とす」
 オズの返答にカインは苦笑いをひとつ返した。

「というわけなんだが……」
 話し終えたカインの腕に残った赤い痕をフィガロが指でなぞった。中央の国の魔法使いたちと賢者が魔法舎に帰りつくと、真っ先にフィガロとファウストに声をかけ、カインの右手首にある痕を確かめてもらうことにした。
「この傷ができたとき、何か感じなかった?」
「うーん……。何かが触る感じがして、そのあと一瞬意識がふっとなくなって、その次には賢者様の顔があった」
「そうですね。一瞬カインがぼうっとしているのは見ましたが、すぐ俺に気付きましたよね」
「あ、でもなんか声が聞こえた気がする」
「声?」
 考え込んでいたファウストが反応した。
「女の人の声だからあそこにいた俺たち以外の誰かだと思う。何だったかな……」
「思い出せない?」
「ああ……」
 フィガロは顎に手を当てて少しの間考えてから言った。
「呪いのようにも見える。それも剥がすのが難しいやつ。ただ、呪いにしては恨みとか執着とかそういうものが感じられないのが奇妙だ」
 ねえ、とフィガロはファウストに水を向けた。
「同意見だ。呪いにしては思念がない」
「害はないってことか?」
「わからない」
 ファウストは首を振った。
「剥がすのが難しいのはこれが君の魔力の根源に近い部分に巣食っているからだ。おそらく賢者の紋章と同じ位置に浮かんだのも偶然じゃないだろう。これが呪いなら、よくできた強力な呪いだ。何もないなんてことはあるはずがない」
 賢者の顔が一層曇った。それを見てカインは申し訳ない気持ちになった。彼にはこんなふうに心配をかけさせたくなかった。
「ひとまず様子見でもいいかもね。これがどういう類のものなのかもう少し見極めたい」
 フィガロの言葉で一旦は解散ということになった。
「何かあったらすぐに言ってくださいね」
「わかってる。心配かけてすまない」
 賢者に笑って見せると、そのまま自室に戻った。中央の魔法使いたちの任務は、夜になると魔法が使えなくなるオズに合わせて早朝から始めることが多い。今日もその例に漏れず早朝から出かけていたので、カインも疲れていた。
 上着を乱雑に脱いでソファに放るとベッドの上に横になった。剥き出しの右腕は嫌でも目につく。日頃は気にしたことのない賢者の紋章。そしてそれに絡み合うようにして残った赤い痕。正直なところ、賢者に何でもないと笑って見せた程の余裕はなかった。何だか気持ちが悪くてそわそわする。
「寝るか」
 風呂に入るのも億劫で、眠気に抗わずカインはべッドの上で目を閉じた。

 夢を見た。はっきりとそれが夢と分かったのは、触れずとも目の前にいる人の姿がはっきりと見えたからだった。フードを被っていて顔はよく見えない。
「あんたは?」
「私は待っていた」
 若い女の声だった。きっぱりとした有無を言わせぬ口調だ。
「これは私たちの恨み。憎しみ。そして、あなたたちが負うべき罪だ」
 言葉とは裏腹に、彼女の声色に恨みがましさは感じられなかった。けれど、冷静な口調はむしろ裁くものとしての苛烈さを感じる。
「騎士殿。どうか、あなたに私たちの無念を知ってもらいたい」
 それから彼女は顔を上げると身を翻した。
「待て!」
 カインが声を上げるが、彼女は踵を返す。立ち止まらない。追いかけようとするがカインの足は動かなかった。
 それから──カインは声を聞いて目を覚ました。

「《クーレ・メミニ》」
 呪文が部屋に響く。ぱちんと何かがぶつかって弾ける音がした。
「オーエン!?」
 目を覚ますとオーエンの背中が目に入った。それと、真っ黒な何かがパチパチという軽い音を立てて部屋にいる。十や二十ではない。おそらくは百を超える。一瞬虫かと思ったが、もっと無機質な動きをしていた。
 それはオーエンやカインの方に近づくとパチリと閃光を立てて弾かれている。結界だ。
「これ、何?」
 オーエンはカインの右腕を取って訊いた。暗がりの中だが、何を尋ねられているのかわかった。右腕に残った赤い痕がうっすらと光っている。
「わからない」
 カインが正直に答えるとオーエンは不機嫌そうに口をへの字に曲げた。左目を軽く押さえて言う。
「目が痛い。変なもの、体に付けないでくれる?」
 オーエンは掴んだままのカインの右腕に指を走らせる。すると、カインの腕に鋭い痛みが走った。右腕に切れ味の良いナイフで切ったような傷ができている。オーエンはそのまま指で滲む血を拭うと、一歩前に進んで床にそのまま指を擦り付けた。
「《クアーレ・モリト》」
 呪文を唱えると浮かんでいた真っ黒な物体が一気に床めがけて飛び込んだ。それは真っ黒な一個の塊に見える。まるで、甘い蜜に群がる羽虫のようだった。
「《クーレ・メミニ》」
 オーエンはもう一度呪文を唱える。すると床から全てを消し飛ばすように炎が舞い上がった。カインの体感では長い時間──実際には数分間、炎は燃え続け、消えた時にはあの黒い物体は跡形もなかった。灰すらも残ってはいない。
 オーエンは指先でつまんだものを見ている。燃やし尽くす前に一つだけ残しておいたらしいそれは紙に見えた。もう動いてはいない。
「助けてくれてありがとう」
 カインはオーエンに頭を下げた。オーエンは答えなかった。手の中にある黒い紙片を握りつぶす。
「それで、これは何?」
「わからないんだ」
 カインは昼間の任務とそこで受けた奇妙な呪いの話をした。オーエンは話を聞ききるとカインの腕をちらりと見た。
「呪い……。呪いには見えないけど」
「じゃあなんなんだ?」
 オーエンはその質問に答えなかった。どうにもこの赤い痕を見た年長の魔法使いたちの言うことは歯切れが悪い。それだけ珍しい魔法なのだろうか。
「呪いなら原因を追えばいい」
「原因? あの街にあるのか?」
「さあね。見てみないとわからない」
 オーエンは苛立たしげに蜂蜜色をした左目を押さえた。
「大丈夫か?」
 目が痛いとオーエンは言っていた。カイン自身は腕に残った赤い痕以外なんの影響もない。自分の瞳が埋まった右目も──厄災の傷の影響で人の姿が見えなくなることを除けばなんともない。
「うるさい」
「待てって」
 オーエンは現れた時と同じように唐突に姿を消そうとした。カインは慌ててオーエンの腕に手を伸ばす。オーエンはカインの腕を振り払おうと身を捩ったが、振り払われる前に一息で告げる。
「これが呪いなら解きにいかないと。一緒に来てくれないか?」
 オーエンはしばらくの間カインのことをじっと見て、それから口を開いた。
「誘うなら早く着替えて」
 そう言われてカインは寝起きの格好であることに気づいた。「悪い」と一声かけてから大急ぎで身支度を整える。オーエンは窓枠に足をかけていた。
「《クアーレ・モリト》」
 彼の呪文は未だ夜と朝の境にある空に柔らかく響いた。うっすらと浮かぶ雲の輪郭はオーエンの右目と同じ赤紫色をしている。夜に溶けてしまった太陽の色だ。
「《グラディアス・プロセーラ》」
 カインも呪文を唱えて空へと飛び出した。