本と魔法使い

《献辞》

 
 シャイロックのバーには数冊の本が置いてある。時々ラインナップが変わることにも、しかしながら真ん中の本だけは常に変わらないことにも、ブラッドリーは気づいていた。
「その真ん中の本は大事なやつなのか?」
「本ですか?」
 シャイロックは意外そうに聞き返した。
「ああ。その本だけずっと置いてあるだろ」
「よく気づきましたね」
 ブラッドリーは肩を竦めた。盗賊の目を舐めてもらっては困る。
「これはムルが書いた本なんです」
 シャイロックはその本を取ってブラッドリーの前に差し出した。彼は表紙を開く。
「我が友シャイロックへ、か」
「ええ。ムルが献辞を書くなんて珍しいので取ってあるんですよ。別に私が何かしたわけではなく、ムルの気まぐれなんですけどね」
 西の国の気候について書かれたその本は、ムル・ハートの著作の中では特筆すべきところのないものだった。それほどたくさん刷られたわけでもないし、読み継がれる名著でもない。
「俺には無価値な代物だな」
「ええ。そうでしょうとも」

《せんせい》

「うわあっ!」
 リケが声を上げたのは足が何が大きなものを踏んづけたからだった。
「ん……?」
「ミスラですか? なんでこんなところに……」
 魔法舎の中にある図書館の床にミスラは転がっていた。
「眠れなくて。ブラッドリーが図書館は眠くなるって言ってたので試してみてるんです」
「図書館は寝るところじゃありませんよ」
 まったく、とリケは腰に手を当ててしかめ面をした。
「はあ。あなたは何の用です?」
「僕は本を借りに来たんですよ。この辺りにルチルが僕にも読める本をまとめておいてくれたんです」
 たくさんの本の中から、短い物語の本や図鑑をルチルが選んでくれた。リケは一冊ずつ読んで、文字を覚えている最中だ。
「そうだ。眠れないのなら僕が読み聞かせをしてあげますよ」
「眠れるんですか?」
「それはわかりませんけど……」
 リケはただ読み通すことができるようになった本を誰かに読んで聞かせたかった。だから、ミスラの返事も聞かず、彼の隣に腰を下ろすと本を読み上げた。
「昔あるところに二人の兄弟がいました──」
 これは二人の兄弟がちょっとした冒険をする物語だ。ルチルとミチルのお気に入りの本。ミスラはふんふんと頷きながら物語を聞いている。案外聞き上手でリケも調子がついてきた。すらすらとあまりつっかえずに読む。
「──そうして、二人はお家に帰りました。めでたし、めでたし」
 読み終えるとリケは待ちきれないようにミスラに尋ねた。
「どうでしたか?」
「まあいいんじゃないですか」
「やった!」
 ミスラはリケの持っていた本を奪うとペラペラとめくった。
「もう! 勝手に取らないで」
「文字の読み方はルチルに教わったんですか?」
「はい」
「あのひと、どうなんです?」
「どうとは?」
「教え方」
「上手ですよ。僕が書いた詩も褒めてくれました」
「そうですか。それは良かったです」
 ミスラは本に目を落とすと小さく苦笑した。
「俺に文字の読み方を教えてくれたひとは教えるのが下手でしたから」

《焚書》

 どうか、と懇願する声が広場に響いた。男は地面にひれ伏し、額を床に擦り付ける。
「どうか本を焼くことだけはお許しください。ここにあるのは我々が過去に生きた証、そして未来の人々に託すべき知識と文化なのです」
 広場にはこの街の図書館があった。街の人々はひっそりと様子を窺っている。けれどその男のように魔王に向かって声を上げた者はいなかった。
 魔王は傍に視線をやった。そこにいたひとは神の託宣のごとく冷たく言い放った。
「おまえが決めなさい」
 しばらく沈黙が続いた。そして魔王は口を開く。
「どれだけ街を焼き、人を焼いても支配したことにはならない。心が自由である限りは」
 それは確かに彼の実感だった。だから、書物を焼くのだ。心を支配するために。
「やめろ!」
 図書館に魔王の火が放たれる。
 確かにその火は過去の、そして未来の人々の心を焼いた。一方で─。
「こんなことは許されない……」
 もう魔王の姿はなかった。彼に訴えかけた男は決意する。この心で、魔王オズの所業を歴史として残すことを。

《レシピ本?》

 蚤の市で本が売っていた。売り物の中にレシピ本があったので、ネロは銅貨一枚分値切ってその本を買った。
「ところがこれが奇妙な本でさ」
 当のレシピ本をファウストとヒースクリフとシノが囲んでいる。
「特段おかしなところはなさそうだが」
「いや、よく読んでくれよ。ここに書いてあるレシピは全部出鱈目なんだ。料理名も食材も聞いたことないものばっかりなんだって」
「本当だ……」
 ヒースクリフが声を上げる。体裁は完全にレシピ本のそれだし、挿絵も文体にも一切変わったところはない。にも関わらず、現実にない食材による、現実にない料理の調理法が大真面目に書かれている。それが余計に狂気じみたものを呼び起こした。
「怖いな」
「怖いですね」
「変なものを買ってくるな」
 三人から畳み掛けられて、ネロは「うへえ」と声を上げた。
「先生、これ普通に捨てて大丈夫だと思う?」
「呪いの類はかかっていないぞ」
「なんかもうそれが余計に気味悪いんだよ。いっそ呪いの本とかなら怖くない」
「呪いの本は呪いの本で厄介なんだ。舐めるんじゃない」
 ファウストは突然職業意識に目覚めたように言う。
「本当どうすっかな……」
 その本はタイトルを『ありとあらゆる種類の食材を含んだ料理』といった。

《推理小説》

「どうしたんだ?」
 カインが本を片手に釈然としない顔をしているのが気になってアーサーは声をかけた。
「実はオーエンから本を借りていたんだが」
「なんだか意外だな」
「少し前に人気があった推理小説で、読み逃してたんだよ。オーエンが持ってるっていうから借りたんだけどさ……」
「何かあったのか?」
 カインは本を─オーエンから借りた本の表紙を掲げてみせた。
「犯人の名前の下に全部線が引いてあるんだ」
 アーサーは一瞬ぽかんとしてから苦笑した。
「それは……酷いな」
「だろ?」
 カインは「まったく」と言いたげだった。
「それで、腹を立てていたのか?」
「いや、そうじゃなくてさ……」
 カインは考え込む顔をする。
「オーエンのせいで犯人はすぐにわかったんだけど、どうやって犯行に及んだのか全然わからなくてさ。むしろ、犯人がわかってる状態で読むとすごく面白かったんだよ。真相が明らかになったときなんて、思わず『うおお!』って声を上げちまったし」
「わかる。面白い本を読むと私も部屋の中をくるくる歩き回ってしまう」
「だからオーエンに、めちゃくちゃ面白かったって言って返したら─」
「返したら?」
「作者に失礼だろって怒られた」
 まったくもって理不尽な話。

《歴史》

 アーサーは本が好きな子供だった。好奇心を満たす手っ取り早い方法として、本を読むことを勧めたのはオズだった。オズの城にあった本は古く、難しいものが多かったので、いくつか新しい本を買い、いくつかはフィガロに請うた。
 魔法舎で共に暮らすようになってからも、アーサーは時々本を読んでいる。
「本が好きか?」
「ええ」
 唐突なオズの質問にもアーサーは屈託なく答える。
「なぜ?」
「なぜしょう……。うーん」
 しばらく考えてからアーサーは口を開いた。
「本を読むと新しいことを知ることができて、なんだか知らない場所を冒険しているような気持ちになるんです」
「そうか」
 街を焼き、人を焼き、本を焼いた。それでも心を滅ぼし尽くすことはできなかった。魔王オズの所業はいくつかの文献にはっきりと残されている。
 いつかアーサーはオズの過去を知るだろう。
「オズ様。私には知らないことがたくさんあります」
「そうだな」
「知らなければ、言うべき言葉を選べません」
 アーサーは魔法舎の図書館にある本を読んでいた。
 今よりずっと昔、本が燃やされた時代について残された記録だった。

 

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