「ピクニックに行きましょう」
ルチルの前にミスラが現れてそう言ったのは、窓越しの雨音がうるさい土砂降りの日のことだった。
「ミスラさん。ピクニックのお誘いは嬉しいんですけど、雨ですよ……?」
「雨の日はピクニックをしたらいけないんですか?」
「いけないというか……」
ふむ、とルチルは思案する。別に雨の日にピクニックをしてはいけないという決まりはない。
「濡れちゃいますし」
「魔法を使えばいいじゃないですか」
「た、確かに……!」
「あなたが言ったんじゃないですか。ピクニックにちょうどいい季節になったので一緒に行きましょうって」
「言いましたね」
丸め込まれている気がしないでもないが、確かにピクニックに行こうと言ったのはルチルだった。よりによって雨の日に誘われるとは思ってみなかったが。
「わかりました。雨の日のピクニック、やってみようじゃないですか」
「その意気ですよ」
ミスラはふっと笑った。ちょっぴり偉そうな顔で胸を張る。
「でも、ピクニックらしい準備何もしてませんよ」
「何が必要なんですか?」
「地面に敷く布……はあるからいいんですけど……。うーん、やっぱりランチと飲み物?」
「買っていけばいいでしょう」
急かすようにミスラはルチルの腕を取って引いた。
「じゃあとりあえず市場に行きましょうか。──《アルシム》」
「あと一分待ってください!」
「しょうがないですね」
一分間の間に支度を済ませルチルはそのままミスラの開いた空間の扉に押し込められた。
雨とはいえ市場はそれなりの賑わいを見せていた。傘や厚手のレインコートのせいか、行く人と体がぶつかることも多い。
ルチルは傘を二本持ってきた。けれど、ミスラが傘を差すのを嫌がったので、ルチルの傘に入れてやっていた。体の半分が濡れるが、凍えるような季節ではない。
「南の国だとこんな風に食べ物を売っているお店はそんなにないので、なんだか新鮮です」
温暖な気候の南の国では、他国と比べて食料に困ることは少ない。森で木の実や果実を取ることもできるし、人のいる村であれば現金やその他の物品と交換して農作物を手に入れることもできる。しかし、よほど大きな町でなければ、料理を売る店は少なかった。大抵自炊で済ませてしまうものだからだ。
ルチルとミスラはパン屋の店頭でピクニックのためのランチを買い込んだ。卵のサンドイッチにハムとチーズのカスクート、アーモンドをまぶしたフライドチキン。それにルチルが出掛けに引っ掴んできた水筒にコーヒーを入れてもらった。ピクニックのランチとしては十分だ。
「北の国もそうですよ。ここはいくらでも食べ物があっていいですね」
ミスラは買ったばかりのフライドチキンを無造作に口の中に入れた。
「あ、ミスラさんずるい」
「いりますか?」
ルチルの口元にフライドチキンが押しつけられる。一口大よりはやや大きいそれにルチルはめいいっぱい大きく口を開けて齧りついた。
「あっつ!」
はふはふと熱い肉汁を口の中で冷ましながらもぐもぐと咀嚼する。アーモンドの入りの衣はザクザクと歯応えがよく、中の肉はジューシーだ。
「おいひい」
舌はちょっと火傷したけれど。おまけにフライドチキンに気を取られて随分雨に濡れてしまった。
「それで、ピクニックってどこに行くんですか?」
「そうですね。雨ですし、近場にしましょうか」
魔法舎の敷地内にある森ならば、多少雨に打たれても帰ればすぐに風呂に浸かることもできる。
「はあ……わざわざ雨の中森に行くなんて奇特だな」
「雨の日に誘ったのはミスラさんですけどね!」
それだけは声を大にして言いたかった。
雨は幾分弱まっていた。
「《アルシム》」
ミスラが無造作に呪文を唱えると雨は当たらない。確かに雨粒は空から落ちているのに、不可視の傘に弾かれているようだった。
「《オルトニク・セトマオージェ》」
地面を乾かし、布を敷く。買ってきたランチを並べて、カップにコーヒーを注いだ。
「はい、ミスラさん」
「どうも」
コーヒーを手にして、ミスラはぼうっと辺りを見回していた。前髪が雨を吸って額に貼り付いていることを、彼は気にしていない。
「どうしました?」
「あなたはこういうのが好きなんですか?」
ルチルとミスラがいるのは雨の森の中だ。風は湿っていて、雨が地面や草木を叩く音がする。土の匂い、コーヒーの匂い。頬や手に感じる水の冷たさ。コーヒーカップから感じるじんわりとした温かさ。
「はい。好きになりました」
こんなところでピクニックをするのは初めてだった。でも、悪くないとルチルは思う。
「雨の日にピクニックをするのは初めてですけど、楽しいです。ミスラさんのおかげですね」
「そうですか」
そう言うとミスラはおもむろに動き出して、サンドイッチをつまみ上げると一口で食べた。ルチルもハムとチーズを挟んだバケットを半分に割るとかぶり付いた。行儀は悪いけれど、今日はいい。だって雨の中、冒険しているみたいだから。
ミスラのことを嵐のようだとルチルは思う。突然現れて、辺りの様子をすっかり変えてしまう。乱暴で容赦がない。けれど、ほんの少しわくわくする。自分の知っている世界が変わる予感がした。
「あっ。雨、上がってきましたね」
木々の合間から柔らかな光が見える。ミスラは眩しそうに目を細めて空を見た。
「あなたみたいですね」
「え?」
ルチルが問いかけると、ミスラは子供っぽい顔で笑って、それから「ふわあ」とひとつ欠伸をする。
「なんだか眠れそうな気がします」
ごろりとミスラは大の字になって、それきりじっと黙ってしまった。なんだか煙に撒かれたような気持ちでそわそわする。けれど、考えていても仕様がない。
「……お昼寝しちゃいましょうか」